Classical Features
ベスト・クリスマス・キャロル:シーズン必須のプレイリスト
クリスマス・キャロルは、キリスト降誕の代名詞のようになり、何世紀にもわたり、親善の季節の一部となってきた。昔ながらの由緒ある楽曲は、家族や親しい人々が再び集い、イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの本質を象徴している。来るべきお祝いのシーズンを、史上最高のクリスマス・キャロルを特別に厳選したプレイリストと共に迎える以上のよい方法はあるだろうか?
ベスト・トラディショナル・クリスマス・キャロル
キャロルは、4世紀のローマのラテン語による聖歌にまで遡ることができるが、広く親しまれる表現形式によるキャロルの歌唱は、16世紀の宗教改革後に定着した。さらに3世紀後にクリスマス・ミュージックの楽譜集が広く出版されるようになってから、このジャンルの人気は大きな盛りあがりを見せたのだ。
ウィリアム・サンディスという名の男が、私たちが古典として知っている多くの楽曲を集めたキャロルの本を最初に出版したひとりだ。ここでも取り上げられている「牧人 羊を(ザ・ファースト・ノウェル)」、「飼い葉の桶で」や「ああベツレヘムよ」などが19世紀に初めて印刷された楽譜として登場したのだ。
ボストン・ポップス・オーケストラ:「そり滑り」
ルロイ・アンダーソンの軽快な「そり滑り」は1948年に作曲され、ボストン・ポップス・オーケストラの楽しげなインストゥルメンタル・ヴァージョンがDeccaより発売された。ミッチェル・パリッシュが作詞した1950年の歌詞はクリスマスに言及されているわけではなかったが、人気アーティストのカーペンターズやウォルター・シューマン、エアサプライなどのカヴァー・ヴァージョンでは言及されており、もう長いこと季節の定番となっている。
アンドレア・ボチェッリ&マッテオ・ボチェッリ:「フォール・オン・ミー」
有名なイタリア人テノールのアンドレア・ボチェッリは優美な「フォール・オン・ミー」を息子のマッテオと録音し、米国、英国で初登場1位を獲得した2018年のアルバム『Si ~君に捧げる愛の歌』に収録。イギリスでは同アルバムが、1997年の『タイタニック』のサウンドトラック以来チャート・トップを獲得した初のクラシック・アルバムとなり話題となった。
ケンブリッジ・キングス・カレッジ合唱団:「天には栄え」
多くの伝統的な賛美歌のように、「天には栄え」には複雑な歴史がある。チャールズ・ウェスレーのオリジナルの歌詞は1739年出版の「Hyms and Sacred Poems」(賛美歌と宗教詩)に掲載されたが、素晴らしいケンブリッジ・キングス・カレッジ合唱団が情熱を持って歌う、皆が知り、愛する人気のヴァージョンは、1840年にドイツの作曲家、フェリックス・メンデルスゾーンが改作したものだ。
ロサンゼルス・フィルハーモニック:《くるみ割り人形》 作品71 TH14, 第9番 「雪片の行進曲」
1892年、サンクトペテルブルクでの初演時にはなぜか不評だったものの、チャイコフスキーの《くるみ割り人形》は有名なロシアの作曲家の最も高く評価されている作品のひとつだ。クリスマス・シーズンの代名詞にもなっており、米国のバレエ団の年間のチケット販売による収入の40%近くを占めるといわれている。
ケンブリッジ・キングス・カレッジ合唱団:「飼い葉の桶で」(まぶねのなかで)
キャロルとしてはまだ新しい部類に入るが、心を揺さぶるクリスマスの賛美歌「飼い葉の桶で」は、19世紀後半に出版され、イギリス史上、最も人気の高い賛美歌のひとつとして知られる。北アイルランド生まれのウィリアム・J. カークパトリックが作曲家としてクレジットされているが、作詞家については未だ謎に包まれている。
ウィーン少年合唱団:「牧人 羊を」(ザ・ファースト・ノウェル)
「牧人 羊を」は、コーンウォールを起源とするキャロル。1823年に『Carols Ancient and Modern(古代と現代のキャロル)』として出版されたが、ウィーン少年合唱団が堂々と演奏したクラシック・ヴァージョンは、イギリスの作曲家のジョン・スタイナーによる編曲版で、1871年の『Carols Old And New (新旧のキャロル)』の中で出版された。
キャサリン・ジェンキンスとジョン・コーエン:「きよしこの夜」
ウェールズのメッゾ・ソプラノ、キャサリン・ジェンキンスが威厳のあるエレガンスで贈る「きよしこの夜」は、オーストリアの若い司祭、ヨゼフ・モール神父と、教師兼オルガニストのフランツ・クサーヴァー・グルーバーにより作曲され、1818年のクリスマス・イヴにオーストリアのオーベルンドルフの地元の教会で初演された。ビング・クロスビーの、時代を超越した1935年のヴァージョンは、後に3000万枚の売り上げを記録し、史上3番目に売れたシングルとなっている。
ケンブリッジ・キングス・カレッジ合唱団:「ああベツレヘムよ」
間違いなく世界最高峰のクリスマス・キャロルの一つである「ああベツレヘムよ」には、19世紀の米国聖公会の司祭、フィリップ・ブルックスが聖地への訪問に触発されて書いた詞が採用されている。米国では彼が属したフィラデルフィア教会のオルガニスト、ルイス・レドナーが作曲したが、英国では、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ編曲の「Forest Green」の曲が当てられている。
ブリン・ターフェル、ウェールズ国立歌劇場管弦楽団:「イン・ザ・ブリーク・ミッドウィンター」(木枯らし寒く吹きすさび)
19世紀のイギリスの詩人、クリスティーナ・ロセッティの詩をもとに、1906年に《惑星》で有名なグスターヴ・ホルストにより曲がつけられた。キリストの降誕と再臨の物語を描いたこの賛美歌は、世界で最も感動的なものの一つであり、ウェールズのバリトン、ブリン・ターフェルによる、曲にふさわしい説得力のある演奏でお届けする。
ケンブリッジ・キングス・カレッジ合唱団:「ディドン空高く」(ディンドン鐘が鳴る)
15世紀に創設されたケンブリッジ・キングス・カレッジ合唱団は、間違いなく世界で最もよく知られる合唱団の一つで、彼らの祝祭のコンサートは国際的にも有名だ。彼らが得意とするキャロル「ディンドン空高く」は、フランスの舞曲が元になっている。ラテン語による感動の「Gloria, Hosanna in excelsis (栄光あれ いと高きところにホザンナ)」を含む歌詞は、イギリスの作曲家ジョージ・ラトクリフ・ウッドウォードによって作られた。豪華な、伝統的なキャロルである。
ケンブリッジ・キングス・カレッジ合唱団:「神の御子は今宵しも」
キングス・カレッジ合唱団のクリスマスの感動的な祝福である「神の御子は今宵しも」が含まれていなければ、皆、失望するだろう。この賛美歌を誰が書いたのかはよく分かっておらず、ジョン・フランシス・ウェイドやポルトガル王、ジョン4世という説もあり、確信は持てない。しかしこれが毎年恒例の「9つの朗読とキャロルの祭典」のハイライトであることは、誰にも否定できない。
ガブリエーリ、ポール・マクリーシュ:《メサイア》 HWV 56/Pt.2: ハレルヤ
《くるみ割り人形》のように、ヘンデルの《メサイア》も1742年のダブリン初演の際、控えめな反応を受け、翌年のロンドンでの再演でもそれは変わらなかった。しかし、すぐに地位を確立し、21世紀にはこの伝説的なオラトリオは、西洋で最も有名で頻繁に演奏される合唱作品の一つとなっている。
選外佳作
Good King Wenceslas 「ウェンセスラスはよい王様」
O Come, O Come Emmanuel 「久しく待ちにし」
In Dulci Jubilo 「もろびと声あげ」
O Holy Night 「さやかに星はきらめき」
The Holly and the Ivy 「ひいらぎとつたは」
God Rest Ye Merry Gentlemen 「よのひと わするな」
Coventry Carol 「コヴェントリー・キャロル」
ベスト・モダン・クリスマス・キャロル
上記のリストからもわかるように、最も愛されるクリスマス・キャロルのいくつかは、何世紀も存在し続けている。しかし、ポピュラー・ミュージックの黎明期以来、クリスマスはソングライターにとって大変魅力的な題材となっている。時が経つにつれ、私たちは、現代のクリスマス・キャロルのレパートリーを構築していることは明らかだ。時の試練に耐え、世界中の人々のホリデー・シーズンを彩り続ける曲。以下に挙げるのは、そのほんの一部だ。
ボビー・ヘルムズ:「ジングル・ベル・ロック」
「ジングル・ベル・ロック」は、広報の専門家のジョゼフ・カールトン・ビールと、広告会社の重役、ジェイムス・ロス・ブースという二人の中年男性により作られた。この曲を提供されたカントリー・ミュージック・シンガーのボビー・ヘルムズは、最初はロックンロールとクリスマスをミックスするアイディアに懐疑的だった。だが彼はすぐに納得し、1957年10月にDeccaから発売されたシングルは、ハンク・ガーランドのエレキギターが繰り出すロカビリー・サウンドに乗って、すぐに史上最高のモダン・クリスマス・キャロルの一つとして認められた。「『ジングル・ベル・ロック』はクリスマスの一部となった」とヘルムズは語った。「人々の気分を高揚させる」。この曲の歌詞「Giddy-up jingle horse, pick up your feet (馬よ、進め。脚を蹴り上げて、鈴を鳴らせ)」が何を意味するのかと迷ったことのある人へ。これは、デコレーションされたトナカイのことを言っているようだ。
ワム!:「ラスト・クリスマス」
「ラスト・クリスマス」は1984年8月にロンドンのアドヴィジョン・スタジオで録音された。ポップ・バンド、ワム!の原動力であったジョージ・マイケル21歳は、曲を書き、プロデュースし、パフォーマンスし、トラック上のすべての楽器、そりのベルを鳴らすことまでを、労を惜しますに担当した。シンプルなアップビードのバッキング・メロディや巧みなコード・チェンジは、(マイケルとアンドリュー・リッジリーが歌う)失恋についての胸が痛むような歌詞と比べると二次的なものだったが、このコンビネーションには抗えない魅力があることが証明された。スイスのスキー・リゾートで撮影され、バックシンガーのペプシとシャーリーをフィーチャーしたアイコニックなヴィデオが印象的な「ラスト・クリスマス」は、17回も再発売され、200万枚を売り上げた。このモダン・クリスマス・クラシックは7億回以上ストリーミングされている。
ホセ・フェリシアーノ:「フェリス・ナビダッド」
プエルトリコ生まれのホセ・フェリシアーノは、1970年8月にニューヨークにいて、お祝いムードのアルバムを作りながらひどいホームシックにかかっていた。プロデューサーのリック・ジャラードは、アルバムのための新しいクリスマス・ソングを書くように提案した。フェリシアーノはラレスで過ごした子供時代のことを回想し、少ししてから、スペインの伝統的なクリスマスの挨拶である「Feliz Navidad, prosperó año y felicidad (メリー・クリスマス、繁栄と幸福な年を)」を軸として使用し、一部は英語で歌った、心からの「フェリス・ナビダッド」が生まれた。先天性の緑内障で、盲目で生まれたフェリシアーノは、感傷的な一瞬で、世界で最高の現代のクリスマス・キャロルの一つを作り、後にグラミーの殿堂入りを果たした。
アリアナ・グランデ&リズ・ギリース:「サンタ・ベイビー」
「サンタ・ベイビー」は、サンタクロースにヨットやティファニーのツリーの飾りをねだる女性についての皮肉めいた歌だが、もともとはアーサー・キットの素晴らしい1963年のアンリ・ルネ&オーケストラ・ヴァージョンが知られている。2013年、アリアナ・グランデとリズ・ギリースによって楽しくモダンな変身を遂げた。二人はテレビ番組「Victorious」の仕事を通じて仲良くなったという。このちょっと生意気な感じの歌は、ジョーン・ジャヴィッツとフィリップ・スプリンガーによる楽曲だ。
ジュディ・ガーランド:「ハヴ・ユアセルフ・ア・メリー・リトル・クリスマス」(あなたに楽しいクリスマスを)
ソングライターのヒュー・マーティンとラルフ・ブレインは、ジュディ・ガーランドの1944年の映画『若草の頃』のためにクラシックな曲を書いた。後にボブ・ディランやジェームス・テイラーなどのスターによって録音されたこの曲は、マーティンが古典的なキャロルに習ってメロディックな試みを行ったもので、マーティンによると「最初は小さなマドリガルのような曲として始まった」という。当初、『オズの魔法使い』のスターだったガーランドは歌詞が悲しすぎると感じたが、映画のプロデューサーが、観客は気にいるだろうと主張し、ソングライターたちに若い女優が、‟涙を通じて微笑むことが出来るような“センティメンタルな歌詞を書くように依頼した。
マライア・キャリー:「恋人たちのクリスマス」
マライア・キャリーが1994年に初めてのホリデー・アルバム『メリー・クリスマス』をリリースした際、彼女はすでにスーパースターだった。輝かしいリード・シングルはキャリーとブラジル生まれのソングライター、ウォルター・アファナシェフによる共作で、クリスマスの数週間前にリリースされた。「恋人たちのクリスマス」は、ポップス、R&B、ゴスペルに‟ウォール・オブ・サウンド‟風のヴォーカルなどを取り入れた記憶に残るモダン・ミュージックの一片で、たちまちヒットし、その後の数年間で皆の無意識に刷り込まれたような馴染み深い楽曲となった。10億回近くストリーミングされており、キャリーはジャスティン・ビーバーとのデュエット・ヴァージョンもリリースしている。
エイミー・グラント:「イッツ・ザ・モースト・ワンダフル・タイム・オブ・ザ・イヤー」
1963年、「アンディ・ウィリアムス・クリスマス・ショー」のヴォーカル・ディレクターのジョージ・ワイルは、エドワード・ポーラと共にスターのためのテレビ番組用の特別な曲に取り組んだ。ウィリアムスの「ビッグなスタンダード曲で、史上最高のクリスマス・ソングの一つ」と呼ばれた曲で大ヒット。1992年、当時32歳だったシンガーのエイミー・グラントは、コンテンポラリーなクリスチャン・ミュージックを歌いはじめ、クリスマス・アルバムのために豪華なヴァージョンを録音したのだ。この曲のグラント・ヴァージョンには、ロン・ハフ指揮するザ・ロンドン・スタジオ・オーケストラがフィーチャーされている。
ジョン&ヨーコ/プラスティック・オノ・バンド・ウィズ・ザ・ハーレム・コミュニティ・クワイア:「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」
もとビートルズのジョン・レノンは、時々、オノ・ヨーコとともに「『ホワイト・クリスマス』にうんざりしていた」ため、『ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)』を書くようになったと語っていた。だが、より切迫した理由は、二人はヴェトナム戦争に対するプロテスト・ソングを書きたかったからだった。レノンと妻のオノは、アコースティック・ギターを使ってニューヨークのホテルの部屋で作曲した。その結果、レノンは、“少量のハチミツ” を使って、世界に政治的なメッセージを届けることができると主張した。ハーレム・コミュニティ・クワイアと録音されたシングルは、1971年に米国で、その翌年にはイギリスでリリースされ、チャートの4位を記録。その後、カーリー・サイモン、メイヴィス・ステイプルズ、シェリル・クロウにも録音されたこの古典は、クリスマスは平和のシーズンでなければならないことを思い出させてくれる。
ナット・キング・コール:「ザ・クリスマス・ソング」
1946年6月、シルクのごとく洗練されたシンガーのナット・キング・コールは、多くの人が決定版と考えている、「焚き火で焼かれる栗と、ジャックフロストが鼻を凍えさせる」ことについて書かれた偉大な祝歌詞の曲を歌う最初のレコーディング・アーティストとなった。「焚き火で焼かれる栗」というサブタイトルがつけられることもある「ザ・クリスマス・ソング」は、著名なクルーナー、メル・トーメとボブ・ウェルズが、焼けるような夏の日に共作したものだ。トーメの、ジャズ・シンガーである末息子によると、彼の父親とウェルズは、この作品を出版社に持っていったが却下されたという。「その後、二人は当時人気が爆発していたナット・キング・コールの所までドライブして彼の前で演奏したら、もう一度弾くように言われた。するとコールに『演奏を止めろ、それは私の歌だ』と言われた」と語っている。この大ヒット曲は、コールの最高の曲の一つであるだけでなく、今では現代のクリスマスを構成する素材の一つであるかのようだ。
ブレンダ・リー:「ロッキン・アラウンド・ザ・クリスマス・ツリー」
ブレンダ・リーの記憶に残るキャッチ―な「ロッキン・アラウンド・ザ・クリスマス・ツリー」は、ジョニー・マークスによる作品で、1958年にデッカよりリリースされて以来、2,500万枚以上を売り上げ、100万回以上ダウンロードされている。リーのヴァージョンは、ブーツ・ランドルフの焼けるように熱いサクソフォンと、エルヴィス・プレスリーからウィリー・ネルソンまで、多くのアーティストと共演したセッションのベテラン、バディ・ハーマンのドラムがフィーチャーされている。この曲を特別にしているのはリーのヴォーカルだが、彼女がこの永遠のヴォーカルを録音した時、まだ13歳だったのは驚きだ。
バール・アイヴス:「ホーリー・ジョリー・クリスマス」
この曲も、かつて従軍してブロンズスターメダルを獲得した後にソングライターとなった故ジョニー・マークスによる作品だ。彼は現代のクリスマス・キャロルの最高の書き手の一人で、この曲以外にも「ラン、ルドルフ、ラン」や、「赤鼻のトナカイ」なども作曲した。バール・アイヴスは優れた俳優でもあり、その胴回りと髭がサンタクロースのように見え、「ホーリー・ジョリー・クリスマス」の2つのヴァージョンを録音している。1965年10月にリリースされたスロー・ヴァージョンの方が大変な成功を収めた。シングルは、ミルト・ガブラーによるプロデュースと、ブルックリン・スタジオでオーケストラの指揮も務めたオーウェン・ブラッドリーによる編曲だ。
ザ・テンプテーションズ:「赤鼻のトナカイ」
1949年、全米のラジオ局は、‟歌うカウボーイ‟として知られるジーン・オートリ―・ヴァージョンのチャート1位を獲得した「赤鼻のトナカイ」を常時かけていた。ソングライターのマークスにとって、この曲は非常に有益だったにもかかわらず、「これまでに書いた最低の曲」として却下した。しかし、1970年にデトロイトのヴォーカル・グループ、ザ・テンプテーションズが録音した、ベリー・ゴーディのモータウン・レーベルの祝祭アルバム『ザ・テンプテーションズ・クリスマス・カード』のオープニング・トラックが、再びの成功を収めたのだ。「あなたの歌うサンタ、エディ・ケンドリックス」というジョークによる紹介の後、テンプテーションズは伝統的な歌を、クリスマス時期の美味しいご馳走に変えてしまったのだった。
ビング・クロスビー&ザ・アンドリュース・シスターズ:「ジングル・ベル」
羊飼いや羊と同じようにクリスマスに欠かせない「ジングル・ベル」は、もはやホリデー・クラシックだ。曲はジェームズ・ロード・ピアポントが1857年に書いたもので、最初は「One Horse Open Sleigh(1頭立てのそり)」というタイトルがつけられ、付き添い人なしのそり滑りの少し際どいロマンスの歌として始まった。その後数年にわたり、クリスマスにまつわる歌詞が追加され、ビング・クロスビーとアンドリュース・シスターズが、ヴィック・シェーンとオーケストラによる伴奏でデッカの戦時中のヒットとなった頃には、楽しげなリフレイン「ジングル・ベル、ジングル・オール・ザ・ウェイ / 1頭立てのそりに乗るのはなんと楽しいことでしょう」は、ポピュラー・ミュージックの中でも最もよく知られた歌詞となった。「ジングル・ベル」は今や最高のモダン・クリスマス・キャロルであり、フランク・シナトラからドリー・パートン、スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズなど様々なアーティストに、あらゆる種類のスタイルで録音されている。
ザ・ポーグス:「ニューヨークの夢」
クリスマス・キャロルの専門家であるイアン・ラッセル教授は、伝統的なクリスマス・キャロルのいくつかは、地域社会のエンターテインメントの一環として作られた酒宴の歌から派生したと信じている。現代のクリスマスの酒宴の歌で最も不適切で有名なのは、ザ・ポーグスのリード・シンガー、シェイン・マガウアン(クリスマスの日に生まれた)とバンジョー奏者のジェム・ファイナーが書いた「ニューヨークの夢」だ(曲は「ベイビー、クリスマス・イヴに / 酔っ払いの収容所で」という詞で始まる)。曲のタイトルは1973年のジェイムズ・パトリック・ドンリーヴィーの、1950年代初頭のアメリカ人のアイルランドでの経験を書いた小説からとられている。この1987年のヒット曲の政治的に正しくない歌詞は、現代のラジオ局から検問されることがある。しかしそのパワフルな歌詞と、惜しくも亡くなってしまったカースティ・マッコールの素晴らしいヴォーカルが、この曲を特別で永続的なものにしているのは否定できない。「俺は何者かになれたかもしれない」とマガウワンが嘆けば、マッコールが「でも、誰もがそうだ」と答える。これだけでも、あらゆる人の「過去のクリスマスの亡霊」を呼び起こすのには充分だ。
ビング・クロスビー:「ホワイト・クリスマス」
ビング・クロスビーが1940年代にデッカで録音した「ホワイト・クリスマス」のオリジナル・ヴァージョンは、今日私たちが耳にするものではない。クロスビーのシングルは、需要が多すぎて常に再プレスされたため、オリジナル・マスター・テープが摩耗した。そのため、クロスビーは1947年にほぼ同じヴァージョンを制作した。アーヴィング・バーリンによって書かれたこの曲は、史上最もよく売れたシングルの一つだ。「ホワイト・クリスマス」は、1941年のクリスマス・イヴのクロスビーの番組で、初めて公共の電波で放送されたが、これは真珠湾攻撃からわずか数週間後のことで、国外にいたアメリカ軍人にとってとても大切な曲となったのだろう。この曲は、彼らと家に残された家族に、より安全で健全な時代について語りかけたのだ。「ホワイト・クリスマス」のクロスビー・ヴァージョン(偶然にもわずか18分で録音された)が、決定版でありながら、多くの人が最善の努力をしてカヴァーしたのは、驚くに値する。この現代のクリスマス・キャロルは、ボブ・マーリー、ボブ・ディラン、U2、そしてダイアナ・クラールにカヴァーされている。
ナット・キング・コール:「フロスティ・ザ・スノーマン」
最高のクリスマス・ソングは、クリスマスの精神を捉えているものだが、ジャック・ロリンズとスティーヴ・ネルソンが書いた「フロスティ・ザ・スノーマン」もまさにそうだ。雪だるまのフロスティが、子供たちが見つけた魔法のシルクハットを頭にのせられ、その帽子に命を吹き込まれる物語。まず1950年にジーン・オートリ―とカス・カウンティ・ボーイズに録音されたが、その後、同じ年にナット・キング・コールがキャピトル・レコーズで録音したものが大ヒットした。コールの素晴らしいヴァージョンには、ピート・ルガーロと彼のオーケストラに、ザ・シンギング・プシィキャッツという名のバッキング・ヴォーカル・グループがフィーチャーされ、曲の気まぐれな魅力を引き出している。
エルヴィス・プレスリー:「ブルー・クリスマス」
ビリー・ヘイズとジェイ・W. ジョンソンによる、恋人不在の寂しさについて書かれたホリデー・ソングである「ブルー・クリスマス」は、1948年にドーイ・オデルというテキサスの忘れられたカントリー・シンガーによって最初に録音されたが、9年後にエルヴィス・プレスリーがギタリストのスコッティ・ムーアとシンギング・カルテットのザ・ジョーダナリーズと録音して世界的に有名になった。彼らのヴァージョンは音楽的に複雑だ。彼らは多くの音符をトリッキーなセプティマル・マイナー・サードで歌い、哀愁を帯びた歌詞に寄り添う「ブルーノート」を実現した。プレスリーは、1968年の‟カムバック“コンサートで、ギターのムーアと再録音をしたのは有名だ。
Written By uDiscover Team