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赤狩りからフォークを救い “アメリカに歌わせた” キングストン・トリオとは
2~3年の間だが、誰がなんといっても世界で最も人気のあるヴォーカル・グループだったキングストン・トリオは、50年代後半から60年代前半に起こったフォーク・ミュージックの再ブームにおいて中心的存在だった。
50年代前半にジョセフ・マッカーシー上院議員によって行われた共産主義者の魔女狩り(赤狩り)は、ザ・ウィーヴァーズといったバンドに汚名を着せ、ブラックリストに載せ、フォーク・ミュージックにダメージを与えた。その不名誉な政治的な波を乗り越え、キングストン・トリオのミリオン・セラーとなった「Tom Dooley」が収録されたセルフ・タイトルのデビュー・アルバムが1958年にリリースされて初めて、フォーク・ミュージックは再び、テレビやラジオで流れるようになった。
デイブ・ガード(ヴォーカル、6弦ギター、12弦ギター、5弦バンジョー担当)、ボブ・シェイン(ヴォーカル、テナーバンジョー、6弦ギター担当)、ニック・レイノルズ(ヴォーカル、テナーギター、コンゴ、ボンゴ担当)から当初構成された3人組のトリオは、当時の先鋭的な音楽ではなかったが、彼らが商業的に成功することでフォーク・ミュージックはメインストリームへと戻ることができ、ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、フィル・オックス、ピーター・ポール&マリーのために道が切り開かれた。「フォークを歌うことについて最初に影響を受けたのはオデッタ(・ホームズ)だった。オデッタからハリー・ベラフォンテ、そこからキングストン・トリオと聞いていったね」とボブ・ディランは言った。
ニューグローヴ世界音楽大事典の編集者、ジョージ・グローヴはこのように語った。
「1960年代はフォーク・ミュージックにとって大きな時代だった。キングストン・トリオが道を切り開いていったんだ。フォーク・ミュージックを目覚めさせたのは彼らだよ。音楽は新鮮で生き生きしていた。大学生たちはそのサウンドが大好きで、彼らの親世代も好んで聞いていた」
バンドの活動開始は思いがけない展開だった。1954年、ホテルの経営者になる予定だったレイノルズがサンフランシスコ近くにあるメンロー・カレッジで退屈な会計学の授業を受けていたとき、居眠りしていた他の生徒に気付いた。シェインはその時のことをこう語った。
「レイノルズは僕を軽く突き、“やあ、僕の名前はニック・レイモンズだ。車、持ってる? 僕の車は今日ぶっ壊れちゃったんだ” といきなり言ってきたんだ。そうやって会ったその日から僕らは一緒に歌い始めたんだ」
シェインは次にレイノルズを、故郷のハワイで一緒に音楽を演っていたスタンフォード大学に通うデイブ・ガードに紹介した。西インド諸島のカリプソの人気にあやかって、3人組は自分たちをキングストン・トリオと呼び、パロアルトのコーヒーショップで演奏を行っていた。若きイベンター、フランク・ワーバーによって見出された彼らは、ペーパーナプキンの上に契約書を走り書きしたあと、その場で直ちに契約へと進んだ。フランクはプロによる歌のレッスン代を支払い、そしてサンフランシスコの有力なクラブ、ザ・パープル・オニオンでキングストン・トリオのライブをブッキングした。
その後のツアーは米国の西海岸からシカゴ、ニューヨークへと続き、3人組はサンフランシスコのザ・ハングリー・アイ・クラブで4ヶ月間のレジデンシーを務めている間に、キャピトル・レコードからリリースしたセルフ・タイトルのデビュー・アルバムを3日間にわたってレコーディングした。アルバムは、フランク・シナトラやジュディ・ガーランド、ディーン・マーティンと一緒に仕事してきたボイル・ギルモアによってプロデュースされた。ギルモアは経験の浅いバンドが必要とする厳格さをあらゆる点で持っていた(彼はのちのアルバムで、1つの曲に対して137回ものテイクをさせたことで有名)。
3人組のトリオは、妻を殺害したことで絞首刑となった男を歌った正体不明な19世紀のバラード曲「Tom Dooley」ですぐにヒットを記録した。「Tom Dooley」をいたく気に入ったソルト・レイク・シティのDJ、ポール・コルバーンは、他のラジオ局にも薦めながら、ひっきりなしに番組で曲を流した。
1958年7月、キャピトル・レコードからシングル盤としてリリースされた「Tom Dooley」は5ヶ月近くチャートに滞在し、300万枚以上売り上げた。イギリスでは、キングストン・トリオとロニー・ドネガンが同時にトップ10ヒット曲となっていたが、両バージョンともにトップ5入りを果たした。1959年、フォーク・ミュージックのカテゴリーが存在しなかった年のグラミーにて、同シングルはベスト・カントリー&ウェスタン・レコーディング賞を受賞。彼らのタイトなハーモニーと同様に、50年代の観客に向けて、バンドは健康的でこざっぱりとしたスタイルを提供していた。
キングストン・トリオのステージ衣装は、ほぼユニフォームのようなボタンダウン、ストライプ、半袖のシャツで、キングストンのデビュー作に収録されていたバハミアンのフォークソング「John B Sails」をのちにカバーしたビーチ・ボーイズ(彼らの1966年のアルバム『Pet Sounds』に「Sloop John B」というタイトルで収録)もその服装を真似ていた。
フランク・ワーバーは他にも的確な決断をしてきた。彼はパープル・オニオンのインハウス・ベーシストだったバズ・ホイーラーを採用し、1958年6月1日にリリースされたアルバムに起用。そして当時、一般的だったオーケストラの伴奏を禁止した。結果として、3人組トリオの混じり気のないぴったりと合ったハーモニーのスタイルが歌詞を輝かせた。
曲のセレクションは、「Bay Of Mexico」や労働歌の「Santy Anno」、当時のハリー・ベラフォンテの大ヒット・シングルを思わせるカリプソ感のある「Banua」など、ウィーヴァーズから影響を受けた伝統的な曲のカバーを中心に、ミュージシャンたちが慣れ親しんでいるレパートリーを反映した。
その他の見どころは、「Memories Are Made Of This」や1941年のウディ・ガスリーの曲「Hard, Ain’t It Hard」を共同制作した才能ある作曲家、テリー・ギルキソンによる「Fast Freight」である。「The Three Jolly Coachmen」は快活で伝統的なラブソングで、「Scotch And Soda」は、ガードが友人から聞いた曲だった。キングストン・トリオは、その曲の真の原点や作曲家を明確にすることは出来なかった。それと同時に、「Little Maggie」は1940年代にはブルーグラスのバンド、ザ・スタンレー・ブラザーズによって広く知られるようになった1800年代後半、アパラチア地方のギャンブル曲だった。
それが伝統的なフォーク・バラード曲だろうが、20世紀の曲だろうが、暖かな歌い方と共に魅力的なストーリーテリングを展開するこのトリオのやり方は想像以上に成功した。キングストン・トリオはその後、ガードと不仲になり、ジョン・スチュワートが代わりに加入するまでの間は、実に有意義な3年間を過ごした。
彼らは成功しただけでなく、ポピュラー音楽の状況を変えた。ニック・レイノルズが言ったように、「僕らはアメリカを元気付け、歌わせたんだ」。
Written By Martin Chilton
キングストン・トリオ『The Kingston Trio』