ウィリアム・ゴットリーブ:世界で最も偉大なジャズの写真家
カメラマンがパフォーマーの見事な写真を撮れた時は、大概はステージで起きた何か魔法のような瞬間を捉えた時だ。ステージではないプライベートでそのような素晴らしい瞬間を捉えるのはより難しい。人物像を撮る時、ほとんどの場合はその画像を撮っているだけで、その人間の本質を捉えるのは非常に難しいからだ。しかし、ウィリアム・ゴットリーブはその両方を成し遂げた写真家だ。
ウィリアム・ゴットリーブは1917年にニューヨークのブルックリンで生まれた。つまりはのちに彼の被写体となった偉大なジャズ・ミュージシャンたちと同年代だった。ニュージャージーで育ち、父親の建築業を手伝い、そして1936年にリーハイ大学在学中に初めてジャズに興味を持った。
ウィリアム・ゴットリーブは学内誌のザ・リーハイ・レヴューにレギュラーでコラムを執筆し、のちに編集長となった。大学を卒業してからはワシントン・ポスト紙の広告スペースの営業をして働いていた。ウィリアム・ゴットリーブはすぐに、ジャズを題材にしたコラムを毎週書かせてもらえるよう説得し、ワシントン・ポスト紙もその分10ドル多く給料を支払うことに合意した。最初はウィリアム・ゴットリーブと一緒に写真家がジャズ・クラブまで同行していたが、その後に無駄な経費と判断されてしまった。しかし、コラムに写真を掲載したかったウィリアム・ゴットリーブは、大事なジャズのレコードと引き換えに3¼” x 4¼”のスピード・グラフィックのカメラ、フィルムとフラッシュを手に入れることにした。
このカメラは、昔のハリウッド映画によくある殺人現場のシーンで、被害者の前に群がるカメラマンが使用しているものと同じものだ。映画だと簡単そうに見えるが、実際にスピード・グラフィックを使うのはとても複雑だ。ワシントン・ポスト紙のカメラマンからある日の午後に教えてもらってから、後は独学でスキルを身につけるしかなかった。スピード・グラフィックはリロードせずに2つの露出しかなかったため、カメラを使う度に何を撮りたいのか明確に把握しておく必要があった。そしてフィルムもフラッシュも高価だったため、現代のデジタル写真のような柔軟さは全くなかった。その結果、ウィリアム・ゴットリーブの作品は数ではなく質が備わることになったのだ。
1943年には陸軍航空隊に徴兵され、カメラマンの任務を遂行した。終戦後、ウィリアム・ゴットリーブはニューヨークに住み、ダウンビート誌でレポーターやレヴュー担当として働きながら、写真も撮り続けた。そして間もなく、書く文章よりも撮った写真の方が評判になっていく。レコード・チェンジャー誌でも勤め、そこでは彼が撮った数多くの写真が掲載された。そのほとんどは、5番街と6番街のブロックの間にある52丁目、通称“スイング・ストリート”にある素晴らしいジャズ・クラブで撮った写真だった。
40年代の終わりにはウィリアム・ゴットリーブも結婚し、子供も生まれ、夜にジャズ・ミュージシャンの友達と遊ぶのではなく、落ち着いて家庭で過ごせるように安定した仕事を見つけようと考えた。そこでカリキュラム・フィルムズという教育用の映写スライドを制作する会社の仕事を受け持つことになった。同時にのちにマグロウ・ヒルに買収されることになる自分で会社を立ち上げ、社内の部門の代表となり、1979年に定年退職するまで勤め上げた。
ウィリアム・ゴットリーブは2006年に脳卒中で亡くなった。ジャズの黄金時代の音楽を聴き続ける人がいる限り、彼の作品も記憶に残るのだ。なぜなら彼の作品は、他の誰も成し遂げることのできない、人間の真実を捉えているからだ。言葉だけでは伝わらない、パフォーマーの本質を彼は映し出したのだ。
ジャズの黄金時代に撮影されたウィリアム・ゴッドリーブの作品の中から印象的なものをいくつかご紹介しよう。
マンハッタン52丁目、40年代と50年代の“ジャズのホーム”
ルイ・アームストロング、1946年ニューヨーク、アクアリウム・クラブ
カウント・ベイシー、1941年ワシントンDC、ハワード・シアターのライヴ
デューク・エリントン、1946年ニューヨーク、パラマウント・シアターの楽屋
ディジー・ガレスピー&ヒズ・オーケストラ、1947年頃ニューヨーク
ライオネル・ハンプトンとサックソフォニストのアーネット・コブ、1946年ニューヨーク、アクアリウム・クラブ
ジーン・クルーパ、1946年ニューヨーク、400レストラン
フランク・シナトラ、1947年、ニューヨーク、リーダークランツ・ホールのレコーディング
メル・トーメ、1947年頃ニューヨークで撮影
シェリー・マン、1947年頃
ベニー・カーター、1946年、ニューヨーク、アポロ・シアターのバック・ステージ
ロイ・エルドリッジ、1946年、ニューヨーク52丁目、スポットライト・クラブ
エラ・フィッツジェラルド、1946年、ニューヨーク
チャーリー・パーカー、1947年、ニューヨーク、カーネギー・ホール
コールマン・ホーキンスとマイルス・デイヴィス、ニューヨーク52丁目のスリー・デューセズ
レイ・ボーデュク、ハーシャル・エヴァンス、ボブ・ハガート、エディ・ミラー、レスター・ヤング、マティ・マトロック、1941年頃ワシントンDC、ハワード・シアターにてカウント・ベイシーのバンドとして演奏
ウェズリー・プリンス(ベース)、オスカー・ムーア(ギター)とナット・キング・コール、1946年、ニューヨーク、ブロードウェイのザ・カフェ・ザンジバル
左から右へ:ミルト・ゲイブラー、ハービー・ヒル、ルー・ブラムとジャック・クリスタル(ビリー・クリスタルの父)、1947年ニューヨーク、ミルト・ゲイブラーのコモドア・レコード店にて
セロニアス・モンク、1947年、ニューヨーク、ハーレムのミントンズ・プレイハウス
ビリー・ホリデイと犬、1947年、ニューヨーク、ダウンビート誌
Written by Richard Havers
ウィリアム・ゴットリーブの刺激的な写真に合わせてIt’s OK To Like Jazzのプレイリストをフォローしよう。