ザ・ナック「My Sharona」制作秘話:実在するシャローナとプロデューサーのマイク・チャップマンの手腕
1970年代の後半、キャピトル・レコードから発売されたデビュー曲としてはザ・ビートルズの「I Want To Hold Your Hand(抱きしめたい)」以来、最速で売れたシングルが登場した。このミリオン・セラーのヒット曲は1979年アメリカで最も売れた曲になり、記憶にある中では最もキャッチーなロックの曲になった。その曲とはザ・ナックの「My Sharona」、1979年8月25日全米1位を獲得した曲だ。
ロサンゼルス出身のザ・ナックは、リード・ギタリストのバートン・アヴェールとリード・シンガー兼リズム・ギタリストのダグ・ファイガーが結成。さらにアルバムのプロデューサーとしてマイク・チャップマンを迎えた。マイク・チャップマンは、イギリス人のニッキー・リンと組んだプロデュース・チームのチニチャップで1970年代を通して、スイート、スージー・クアトロ、スモーキー、マッド、レイシーなどのアーティストに大成功をもたらしていた人物だ。
マイク・チャップマンは新たにソロのプロデューサーとして活動し始め、1978年にリリースされたブロンディの『Parallel Lines(恋の平行線 )』を手がけ、彼らをマルチ・プラチナのアーティストに変貌を遂げさせたことで当時の旬なプロデューサーとなっていた。1978年の後半、ザ・ナックはあらゆるレーベルやプロデューサーから声がかかっていた中で、キャピトルがその争奪戦を勝ち抜き、マイク・チャップマンもその争奪戦に入りこみ、ブロンディを成功させた彼の経歴が全てを物語り、そのプロデューサーの座をつかんだのだ。
マイク・チャップマンは、バンドが一緒に仕事をしたがっていたプロデューサーのことをLAタイムス紙で読んで知っていた。残念ながらマイク・チャップマンはそのリストに載っていなかったたが、マイクは彼らを説得し、デビュー・アルバムの『Get The Knack』では基本に立ち返るという手段をとり、話によると予算はたった18,000ドル、レコーディング期間もたったの11日間だった。フリートウッド・マックからピンク・フロイドまで、当時のビッグ・グループは何ヶ月も何年も制作に費やしている中、それとは対照的なパワー・ポップ・バンドのサウンドが持つ即時性が成功することにつながった。
アルバムの中で明らかにリード・シングルだった「My Sharona」は、実在の人物をもとに書かれた曲だった。「バートンは長い間この曲のアイデアを暖めていたんだけど、進めていなかったんだ」とダグ・ファイガーはのちにゴールドマイン・マガジンに語っている。
「僕は当時シャローナという女性に出会って、深く愛し合っていたんだ。彼女は自分にとってのインスピレーションの源で、僕の基礎が動くぐらいに魅力的だったんだ。そしてバートンが考えたあのビートに彼女への気持ちを載せようることにしたんだ」
ダグ・ファイガーが2010年に57歳で亡くなった時、デイリー・ミラー紙は当時、不動産業で働いていたシャローナ・アルペリンをロサンゼルスまで追跡取材している。彼女は当時ダグ・ファイガーと婚約し、シャローナは彼等の関係が続いていた1983年までワールド・ツアーにも同行していた。
「最低1日に3回は誰かが私の名前を歌うか、笑っているんですよ」とシャローナはデイリー・ミラー紙に話した。「時々はビックリされるのを避けるために、別の名前でお店の予約をするんです。でもいつも言われるんです、“え、本当に?あなたがあのシャローナ?本物だなんて信じられない”って」
その切実なスタッカートとギターとベースのコンビネーションがセクシャルで緊張感あふれる曲にぴったりで、リスナーはみなすぐに虜になった。6月に「My Sharona」は全米シングル・チャートにランク・インし、13日後にゴールド・ディスクに、1か月以内にはプラチナ・ディスクとなり、最終的には400万枚ものセールスをあげて世界中のチャートにランク・インした。全米シングル・チャートではシックの「Good Times」から王座を奪い5週1位を獲得、アルバムはアメリカだけで500万枚もの売上げを記録した。
今でもシャローナはその思い出を懐かしく感じている。そして彼女がそれを誇りにしていることはツイッターのアカウントを見れば一目瞭然だ。「ロサンゼルスの不動産スペシャリスト、妻、母、そしてザ・ナックが書いた曲は私の事」。
Written by Paul Sexton
ザ・ナック「My Sharona」収録アルバム『Get The Knack』
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