90年代のヴァージン・レコード:多種多様なジャンルとアーティスト達

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Image: Courtesy of Virgin Records

ヴァージン・レコードが誕生したのは1970年代。特徴的なサウンドと独特の方向性を備えた独立精神旺盛なレーベルとしてスタートを切ったのが始まりだ。

1980年代、新たな才能を育成することで事業を拡大していった同レーベルは、80年代を代表する傑作の幾つかをリリース。やがて1990年代が訪れる頃、音楽は従来とは大きく異なる段階に突入しようとしていた。

そこで持ち上がってきたのが、音楽ジャンルの多様性の問題である。ポピュラー音楽の世界では、シーン全体を支配するような突出したジャンルが無くなり、幾つもの多種多彩で異なるスタイルで構成されるようになっていた。

マキシ・プリーストのレゲエから、パンク界の大御所イギー・ポップ、スティーヴ・ウィンウッドのブルーアイド・ソウル調のロック、そしてソウル・II・ソウルのアーバン・ソウルまで、ヴァージンはあらゆる種類の音楽を世に送り出していた。また、自身の音楽を通じ、殆ど全ての音楽スタイルをロックとソウルとファンクとの独特のブレンドに組み込んでいたレニー・クラヴィッツも忘れてはならない。ゲイリー・ムーアのブルース・ロックと同時期にリリースされていたのがイット・バイツのポップ・プログレッシヴや、スマッシング・パンプキンズのオルタナティヴ・ロックもあった。

ミートローフは10年以上の活躍を経た後、1993年にヴァージンと契約したが、依然として人々を熱狂させる力を有していることを証明。また、90年代に登場した先端的な一派には、ネナ・チェリーとマッシヴ・アタックがおり、両者は音楽的には全く異なっていながら、どちらも共に大成功を収めている。そして、エニグマという、正に“謎めいた”(=エニグマな)存在もいた。彼らの音楽を明確に定義することは誰にも出来なかったが、彼らは誰にも予測出来なかった国際的成功を収め、世の現象を巻き起こした。

エニグマは、1990年代のヴァージン・レコードがそうであったように、全くもって分類不能な存在であった。本記事では、ポピュラー・カルチャーの鏡である様々な音楽を通じ、多くの人々にとって、1つのレーベルがいかに多くの異なる意味を持ち得るかということについて語り、それを称えたいと思う。

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EMIの買収

1992年、ヴァージンがEMIに買収された際、全てが変わってしまう可能性があったのは確かだ。ヴァージンはアイデンティティを失ってしまう恐れもあった。しかし、そうなるどころかむしろ、同レーベルは独立精神を維持しながら、新たな繁栄を享受することが出来るようになったのである。そのおかげでヴァージンは、エキサイティングなレーベルとしての特色を維持。強力なメジャーの力を後ろ盾にしつつ、独立精神を発揮することとなった。

ヴァージンは、従来なら興味を引くのが難しかったであろうアクトをも惹き付けられるようになったが、その一助となったのは、同レーベルの名が世界的ブランドとして広まったことである。ヴァージンの音楽がどれほど多彩だったか、それを何よりも如実に物語っているのが、ヴァージン・レコード特集の第三回に当たる本稿で取り上げているアーティスト達だ。

1993年には、英国で最も成功したレーベルのひとつとなっていたヴァージン。全英アルバム・チャートには、以下の6作の全英No. 1を送り込んでいた。

・ミートローフ『Bat Out Of Hell II』
・ジェネシス『Live The Way We Walk』
・レニー・クラヴィッツ『Are You Gonna Go My Way』
・ジャネット・ジャクソン『Janet』
・UB40『Promises And Lies』
・フィル・コリンズ『Both Sides』

こういったように90年代、ヴァージンは次々とヒット作を連発。ヴァージンは1990年代の音楽の状況を反映すると同時に、その先導役を務め、非常に多彩な所属アーティストを通じて音楽シーンを作り上げていた。

ヴァージンがミートローフと契約した時、彼のキャリアは殆ど終わっていると思っていた人々もいただろう。パッとしなかった前作から7年近くが経過していたこともあり、移籍1作目の『Bat Out Of Hell II』も大して変わらない結果になりそうだと考えられていたのである。

だがそんな予想を裏切るかのように、同作は全英及び全米チャートを制覇し、90年代のベストセラー・アルバムのひとつとなった。それを後押ししたのが、シングル「I’d Do Anything For Love (But I Won’t Do That)」の世界的な大ヒットだ。同曲はミセス・ラウド名義のロレイン・クロスビーとのデュエットで、世界10数ヶ国の国々でNo.1に輝いた。

 

レニー・クラヴィッツ

レニー・クラヴィッツのヴァージン・デビュー作は、1989年の名盤『Let Love Rule』で、同作はアメリカと英国で控えめなヒットとなった。マルチ楽器奏者でありシンガー兼プロデューサーの彼を別の段階へと導いたのは、3作目『Are You Gonna Go My Way』だ。同アルバムの表題曲は、全英チャート1位を達成。全米でも2位を記録した。

 

イギー・ポップ

ミートローフが異色の契約だったとするなら、そのコンセプトを完全に新たなレヴェルへと塗り替えたのがイギー・ポップである。イギー・ポップは1977年にソロ・デビューを果たし、5作のアルバムを発表後、1986年にA&M移籍第1弾『Blah, Blah, Blah』をレコーディング。その4年後にリリースしたのが、ドン・ウォズがプロデュースを手掛けたヴァージン移籍1作目、ヴァラエティに富んだ傑作『Brick By Brick』であった。

同作は、全米アルバム・チャートに1年近くランクイン。その息長いヒットを支えたのが、ラジオでヘビー・ローテーションされた幾つかの収録曲で、そこには映画『ブラック・レイン』で使用された名曲「Livin’ On The Edge Of The Night」や、全米トップ30ヒットとなった「Candy」がある。イギー・ポップにとっては珍しいことに、同曲は彼のソロ・シングルで唯一全米チャート入りしたものとなった。その後もイギー・ポップは数多くのアルバムを発表したが、特に1993年の『American Caesar』は、彼のキャリアの中で最も強力な作品のひとつである。

 

スティーヴ・ウィンウッド

イギー・ポップ同様、スティーヴ・ウィンウッドもまた、1977年にソロ・アルバムを制作。同作はアイランドからリリースされた。かつてスペンサー・デイヴィス・グループのフロントマンを務めていた彼は、バンド脱退後、エリック・クラプトンとブラインド・フェイスで活動し、続いてトラフィックを結成後、ソロに転向した。

スティーヴ・ウィンウッドはイギー・ポップとは異なり、全英ベスト・セラーとなった傑作『Talking Back The Night』を含む4作のソロ・アルバムで、既にチャートの常連となっていた。その後、スティーヴ・ウィンウッドはヴァージンと契約し、1988年に移籍第1作『Roll With It』をリリース。同名シングルは全米シングル・チャートで首位に立ち、アルバムも全米1位、そして英国では4位を記録した。

 

ネナ・チェリー

ネナ・チェリーのデビュー作『Raw Like Sushi』は完全無欠の作品で、あたかもヴァージンの多様性を決定的に証明しているかのようである。アメリカ人トランペット奏者ドン・チェリーの継娘でスウェーデン生まれのネナ・チェリーは、ラップをジャズやロックと組み合わせ、全く違うものを生み出した。

ロック・ステディ・クルーの「Are You Ready?」と、マイアミの1974年の曲「Chicken Yellow」のサックス・ブレイクのサンプリングを用いたリード・シングル「Buffalo Stance」は、全米・全英の両チャートで3位に輝く大ヒットとなった。

 

SOUL II SOUL

ネナ・チェリーのアルバムの数週間前に発売された英国のSOUL II SOULのデビュー作『Club Classics Vol. One』もまた、正にヴァージンの多様性を表している。同作には、ヒット・シングル「Keep On Movin’」と「Back To Life (However Do You Want Me)」を収録。

後者は全英チャート1位を飾り、1989年の年間シングル総売り上げでも5位となる快挙を成し遂げた。同アルバムは全英1位を達成。1年後の1990年に発表された2作目『Vol. II; 1990, A New Decade』もまたNo.1に輝いた。

ジャジー・Bが結成したこのバンドは、ブリティッシュ・アーバン・ソウル独特の味を生み出し、その後30年にわたり、英国の黒人ティーンエイジャーの多くに影響を与えている。

 

マキシ・プリースト

マキシ・プリースト名義で世に出たロンドン出身のマックス・エリオットは、英国に移住したジャマイカ人の子孫であったため、彼の音楽がレゲエの影響を受けていたのは必然的であった。キャット・スティーヴンスの曲をカヴァーした「Wild World」が全英シングル・チャートでヒットしたことが引き金となり、彼は1988年のアルバム『Maxi Priest』でブレイク。

1990年の夏中、ラジオで絶え間なく流れ続けた「Close To You」をはじめ、ラッピング・レゲエ・サウンドに彩られた次作『Bonafide』は、彼にとって最大の売り上げを記録するアルバムとなった。

 

スマッシング・パンプキンズ

ヴァージンの国際的評価の高まりを証明したのが、シカゴ出身のオルタナティヴ・ロック・バンド、スマッシング・パンプキンズとの契約である。彼らが最初に注目を集めたのは、1991年のデビュー作『Gish』だ。1995年に発表した、機知に富んだタイトルの3作目『Mellon Collie And The Infinite Sadness(メロンコリーそして終りのない悲しみ)』(CD2枚組/LP3枚組)は、全米アルバム・チャートを制覇。

その牽引役を果たしたのが、驚くほどキャッチーなリード・シングル「Bullet With Butterfly Wings」で、同曲は全米シングル・チャートでNo. 1を達成。名シングルを生む鍵は、やはり人を惹き付けるフックである。

 

ゲイリー・ム​​ーア

スマッシング・パンプキンズが進歩派なら、ゲイリー・ム​​ーアは間違いなく守旧派であった。卓越したギター・プレイでブルースに踏み込んだゲイリー・ムーアは、シン・リジィに参加後、デビュー・アルバム『Grinding Stone』をリリース。

彼のヴァージン移籍第1弾は、1982年の『Corridors Of Power』であった。フリートウッド・マックのピーター・グリーンを師と仰ぐゲイリー・ムーアは、名作『Blues For Greeny』(1995年)で、憧れの存在であるピーターの愛機だった1959年製ギブソン・レス・ポールを弾いている。

ゲイリー・ムーアがブルースの偉人となるのに一役買ったのが、表題曲がヒットとなった1990年のアルバム『Still Got The Blues』だ。繊細なブルース・ギター・プレイヤーがどのような音を奏でるのかを聴きたい方は、同アルバム収録の「As The Years Go Passing By」をチェックしてほしい。白人男性も、素晴らしいブルースを奏でることが出来るのだ。ゲイリー・ムーアは2011年、58歳で亡くなってしまった。

 

イット・バイツ

イット・バイツは間違いなく、独自の流派を興していた。ヴォーカル兼ギターのフランシス・ダナリー率いる英北西部カンブリア出身のこのバンドは、デビュー・アルバム『The Big Lad In The Windmill』(1986年)を発表した際には世間を驚かせた。

そのサウンドは、メタルからアート・ロック、ポップ、プログレに至るまで、ありとあらゆる形容で評されているが、実際彼らの音楽性は、他に類のないものであった。彼らのやっていたことを説明するには、“ポップ・プログレ”という表現がより近いかもしれない。

プログレッシヴ・ロックは一般的に、キャッチーなメロディと結び付けて考えられるような音楽ではないが、イット・バイツのデビュー作には輝かしいフックが満載だ。その最たる例が、全英トップ10ヒットとなったデビュー曲「Calling All The Heroes」だが、名バラードの「You’ll Never Go To Heaven」や、セカンド・シングルの「Whole New World」も、ぜひ聴いていただきたい。

 

マッシヴ・アタック

独自のカテゴリーを自ら創造したが故に、分類不能なバンドもいる。“トリップ・ホップの生みの親”と呼ばれてきたマッシヴ・アタックがそうだ。

1991年発表のデビュー・アルバム『Blue Lines』には、過去30年間の中で最も素晴らしいシングルの1つと見なされている革新的な「Unfinished Sympathy」を収録。バンド創始者のダディ・Gことグラント・マーシャルは次のように語っている。

「僕らはその用語(トリップ・ホップ)が大嫌いだったんだ……。僕らとしては、マッシヴ・アタックの音楽は唯一無二のものだったからね。ジャンル化するということは、それを分類して『ああ、君達の考えは分かっているよ』と言うようなものだ」

確かに彼らがリリースしてきた素晴らしいアルバムの数々は、彼の言葉を裏付けている。それまでに存在したものとは非常に異なる、全く類のない音楽であるからだ。

 

エニグマ

そして、エニグマという“謎めいた存在”(=Enigmaの意味)がいる。彼らは“ニューエイジ”と呼ばれているが、そのような一言では、この類い稀なバンドを言い表すことは出来ないだろう。

彼らは1990年、ルーマニア生まれのマイケル(ミヒャエル)・クレトゥによって結成。8ヶ月をかけて制作したデビュー作『MCMXC a.D.』(1990年)は、最終的に世界41カ国でチャート1位を獲得した。

EMIがヴァージンの買収を決めた際、それが財政的に魅力的な計画だと思わせる要因となった作品のひとつが、このアルバムであったことは間違いない。1993年発表の次作『The Cross Of Changes』が、デビュー作の驚異的な大成功に及ばなかったのは致し方ないことだが、内容的には2作目の方がより優れた、面白味のあるアルバムなのはほぼ間違いなく、ヒット曲「Return To Innocence」もそこに収録されている。

 

ここまでお分かりいただけただろうか。ヴァージン・レコードは、設立から数十年を経ても尚、過去の栄光に胡座をかくことなく、成功を追い求めて努力を続け、同規模のどんなレーベルよりも多種多様な音楽を提供していた。

実際1990年代を通じて、ヴァージンは自分達よりも階級が上のメジャー・レーベルと張り合いながら、多様性の美しさを証明していたのである。

Written By Richard Havers



 

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