トム・ペティを偲んで:親交のあったジャーナリストの追悼文
先日亡くなったトム・ペティについて、生前何度もインタビューを行い親交があったジャーナリストのMax Bellによる追悼記事です。
まだ66歳という年齢でトム・ペティが亡くなったという悲しいニュースを聞いて、私(筆者:Max Bell。70年代からNMEで執筆活動を開始)はかなり戸惑った。私は何年も前からトム・ペティと知り合いで、彼が率いるトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのデビュー・アルバムのレヴューをNME誌に書いたこともあり、ロンドンで初めてのライヴも見た。
ロンドン、マンチェスター、ロサンゼルス、さらにはボローニャといった世界中で行ったボブ・ディランの「Temples in Flames Tour」 ではトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズはディランのバックバンドとしてだけでなくトム・ペティと彼自身のバンドによる演奏もおこない、そのツアーでもインタビューを行った。そういえばツアーのオープニング・アクトはロジャー・マッギンだった。彼のバックバンドもそれもトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズがつとめていた。
トム・ペティの話し方はフロリダ出身者特有のゆっくりした感じだったが、仕事の態度はとてもハード・ワーカーだった。昔かたぎだと言う者も居るかもしれないが、彼はいつも礼儀正しく、とても立派な男だった。亡くなった人間のことを良く伝えるのはいつものことだが、それでも、トム・ペティは本当に良い人だった。
ほとんどの人が、そしてトム・ペティを含むほとんどの大物ロック・スターなら間違いなくそうであるように、トム・ペティにも裏の顔があった。『Hard Promise』(1981年発売)の頃、彼は過去について私に打ち明けてくれたことがあった。私はこう言葉を書き留めている。
「トム・ペティにとって奇妙な時期のような。成功と名声は不安をかきたてるもので、使い道に困る有り余る金とホテル暮らしの日々によってハートブレイカーズはお決まりのドラッグとアルコールに手を染めるようになっていった」
この時期はトム・ペティが個人的、そしてプロとしての問題を抱えていた時であり、バンドのベーシストのロン・ブレアはツアーを嫌っていたため、ベテランベーシストのドナルド・ダック・ダンが何度か代理でライヴを行った時期だ(それ以降、ロン・ブレアはバンドを去った)。
トム・ペティの母親のキティは、トム・ペティが30歳の誕生日を迎えたその翌日に亡くなってしまった。精神的にひどく落ち込んだトム・ペティは、母の死という悲しい出来事をマスコミのネタとされることを嫌がり、彼の地元フロリダ州ゲインズビルで行われた彼女の葬儀に出席することをやめた。しかし彼は父親との問題は抱えたままだった。トムの父親であるアールはトムの幼少時代に身体的、精神的に虐待を加えていたのだ。バンドが18,000席のLAフォーラムで、スタンディングのコンサートを三日間演奏し終わった翌日に私はトム・ペティと話す機会があった。彼は両親についての出来事を口にしたが、あまり触れたがらなかった。
「母と父は自動車事故にあったんだ。母は癌を患っていて、父はからだだ不自由になって一日中働かずにずっとギャンブル漬けさ」。
「いつか父親に僕らの演奏を見て欲しいんだ」とトム・ペティは付け加えた。「今まで一度も見てくれたことがないし、僕らもフロリダ州のゲインズビルには一度も行けてないけど。でも実家の周りに集まるファンと彼はおしゃべりを楽しんでいるようだよ」。
トム・ペティは生涯にわたっていつも彼に付きまとうブルース・スプリングスティーンとの比較に悩まされていた。彼にはブルース・スプリングスティーンのような派手なカリスマ性がそれほどなかったが、全員が対等で、優れたバンドを率いていることを誇りに思っていた。
またレコード会社合併のゴタゴタによって、アルバム『Damn The Torpedoes(邦題: 破壊)』のリリース時には、レコードの販売経費をトムが支払うことになってしまった。
「もしあの人たちが僕を訴え続けていたら、僕は食糧配給の列に並ぶしかなかった。今までそんなことになったことはなかったんから『人生ってなんなんだっけ?』って眠れない夜が何度かあった。だから僕は、たとえば‘Even The Losers’ や ‘Refugee(邦題:逃亡者)’ のような負け犬のためのアンセムを書きたかったんだ。自意識過剰じゃないけど、後になって振り返ってみるてみると、あのアルバムのテーマは、誰にでも起りえる、奪われるべきではない自分の権利を守るために立ち上がることについて歌っていることなのがわかったんだ。‘彼らは僕を法廷に連れて行き、8時間も僕を厳しく問い詰めた’ なんて歌って生々しくなるよりはむしろ、他の意味を持たせたラヴ・ソングとして普遍性を持たせるようにしたんだ」
そしてトム・ペティはこう締めくくった。
「それにミュージック・ビジネスの弊害についてのレコードなんて子供たちは聞きたくないだろうと思ったんだ。クソつまらないだろうしね」。
彼の大好きな人たちの一人、フリートウッド・マックのスティーヴィー・ニックスは、私たちと同じように彼の死に相当ショックを受けている。その昔、トム・ペティは彼女に曲を提供しており、当時トムはこう語っている。「彼女とは『Damn The Torpedoes』のセッションで一緒だったことがあって、曲を書くことを頼まれたんだ。僕とマイク・キャンベルは彼女のために “Insider” を書いたんだけど、結局それは渡さず、代わりに、彼女には “Stop Draggin’ My Heart Around(邦題: 嘆きの天使)” をあげたんだ。そしたら楽曲提供のお返しに彼女は僕のアルバムで歌ってくれて、僕は彼女をプロデュースすることになったんだ」。
当時開局したばかりのMTVが「Stop Draggin’ My Heart Around」をヘヴィ・ローテーションで流してくれたおかげで、この曲を収録したスティーヴィー・ニックスのアルバム『Bella Donna』売り上げはトムの『Hard Promises』を追い越しすことになった。その時のトム・ペティはそれを知らなかった。
「嬉しいよ、彼女がアルバムにやっと参加してくれた。そして提供した曲は気難しい感じで、バラードじゃないから彼女も喜んでくれているんだ。ニックスに僕はこう言われたんだ。“もう二度とバラードは作らないで。バラードは私がいつも書いてるんだから!” って。だから今僕らはグラム・パーソンズやエミルー・ハリスっぽいことをやってるところなんだ。グラム・パーソンズの『Grievous Angel』は僕が好きなトップ5アルバムに入る一枚だよ。ずっとグラムに会いたいと思っていたけれど、僕がロスに着いたときには、彼は4ヶ月前に亡くなってしまったいたんだ。よく”君はザ・バーズのロジャー・マッギンのようだね”と言われることがあるけど、むしろ僕はザ・バーズはザ・バーズでもグラム・パーソンズが在籍した時のザ・バーズの方が好きなんだ。グラム・パーソンズみたいに、カントリー・ロックを導入するのは難しいよ。カントリー・ロックは垢抜けない親向けの音楽だとみんな思ってるようだけど、そんなことはない。僕らはジョージア州出身のグラム・パーソンズのように南部の出だから、未だにLAにいると混乱したように感じるんだよ」
この頃の私のノートを見返してみるとこんなメモ書きが残っていた。
「1週間前のサンフランシスコで、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのベンモントとマイクがホテルのピアノバーを説得して、トムとスティーヴィー・ニックス、そして彼女の新しい友人のシャロン・セラニを含んだ合唱団と一緒にバーで演奏していた」
彼らは「Needles And Pins」や「(Marie’s The Name) His Latest Flame」、「Kathy’s Clown」、ペンギンズの古いドゥーワップ曲「Earth Angel」を披露した。バーにいた一人のビジネスマンが演奏を聴いて彼らに10ドルをトムに渡したけれど、その店にいた一人の男が “それは彼女のだよ” と伝えて、スティーヴィーがトムからもぎ取った。
「そこで僕は言ったんだ。‘ねえ、僕の分はどこにあるのだい?’ って」トム・ペティは思い出して言った。「そこでスティーヴィーはお札を半分に破って、 彼女の胸の谷間に半分を突っ込み、残りの半分を僕にくれたんだ」。スティーヴィー・ニックスは間も無くしてトム・ペティのツアーの常連メンバーとなった。フリートウッド・マックを続けるより、ハートブレイカーズに参加したがっていたとよく言われている。彼女のスーパースターな人生を垣間見ると、それが有益であったことは間違いない。
当時のトム・ペティは一流の世界まであと一歩のところにいたような気がする。トムの永遠のライヴァルのブルース・スプリングスティーンはすでにそこに辿りついていて、トムは彼に追いつこうとずっと躍起になっていた。ブルース・スプリングスティーンは年齢が一つ上で、常にアルバム1枚分先に進んでいた。トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズの『Hard Promise』は1981年8月にプラチナ・アルバムとなるが、ブルース・スプリングスティーンの『The River』はすでに5×プラチナを獲得していた。
トム・ペティがNO NUKES(*1979年にマディソン・スクエア・ガーデンで行われた原子力反対を掲げたコンサート)のコンサート映画から自分達のライヴ演奏の収録を断った時、そこには悔し気持ちがあったのだろう。そのコンサートで彼がブルース・スプリングスティーンとピーター・トッシュをサポートすることにイラついていたはずだ。その6年後、彼は腰を据え、ブルース・スプリングスティーンを激しく風刺する曲を書くことになる。
「Tweeter And The Monkey Man」は、トムが参加していたスーパーグループのトラヴェリング・ウィルベリーズのメンバーで、ブルース・スプリングスティーンが “新しいボブ・ディラン” と称されることにイラついていたボブ・ディランと共に書かれた曲だ。同じくトラヴェリング・ウィルベリーズのメンバーのジョージ・ハリスンとジェフ・リンが眺めている間、彼らは曲を書きながら笑っていた。“サンダーロードを走り、運転しながらさえずる / 彼らはパラダイスに突っ込んで – タイヤがきしむ音が聞こえる”。
トム・ペティは大抵は陽気な性格の持ち主だったが、ステージ上は怒りを爆発させることもあった。ロサンゼルスのフォーラムで彼の演奏を見た時、ステージへ上がって邪魔しようとする客がいて彼はそれに激怒したことがある。その後、彼はその怒りが収まらず、ライブ後の打ち上げにも参加しなかった。
「あのライヴの後は、僕は機嫌が悪かったんだ。前列に居た人がどんなに高い値段をダフ屋に払って来たのかも分かってるし、そして僕自身も邪魔なんてされたくなかった。最近ニューヨークで演奏したけど、多くのキッズが押しつぶされて、病院に運ばれたこともあったし」。
その時に彼が直面していた一番の問題は、彼曰く、休息時間だった。
「くつろぐことが出来ないんだ。もう3日間もベッドで横になっていない。もう睡眠薬も効かないし、休めないから機嫌は悪くなるし。他の薬も効かないんだ。正気とは思えないスケジュールをこなしてるんだけど、大きな場所で演奏することでなんとかエネルギーを充電できる」
そのフォーラムのライブでは良い点もあった。その時6歳だった娘、アドリアが舞台袖でスティーヴィー・ニックスの手をしっかりと握りながら、その時のフォーラムのライブで彼が演奏するところを初めて見ることが出来たのだ。
「自宅への帰り道、彼女がこう言ったんだ“なんで私をステージに呼び出さなかったの?”って。 “一体、何のために?” と僕は聞いたけど、彼女はちっとも動じなかった」とトム・ペティはため息をつく。「僕は彼女と十分な時間を過ごしてこなかったんだって気づいたよ」。
彼との最後になったインタビューで、「もっと孫娘と一緒に過ごしたいんだ」と言い、もう昔ながらの過密なツアーはしないと彼が言ったことが記憶に残っている。その言葉を思い出すと、心が傷む。時が過ぎるのはなんて早いのだろう。
2017年の夏のハイドパークでトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズを見るために私は人混みの中にいた。素晴らしいヒット曲の数々、少しのミス、そして仕方なく制作していたソロ作品の曲も演奏していた。「ソロ・アルバム? なんでそんな物を僕がやらないといけないんだ」と数年前に彼に言われたことがある。「とにかく最後はハートブレイカーズで終わりたいんだ。自分たちのルーツに戻るときが来てるんだよ」。
私がテープ・レコーダーを止めたと同時に、トム・ペティはお茶を一杯つぎ、そして立ち上がった。「僕とマイク ・キャンベルが書いているのは “Gator On The Lawn” という曲なんだ。B面の曲なんだけど、ツアーに出たらライブで披露したいと思っている」南から少年を連れ出すことは出来るが、その少年から南部の魂を取り去ることはできない。
そして今、ロック界の真のジェントルマンが遂にステージを去った。トム・ペティのいない音楽の世界は前よりもつまらないところになってしまった。
Written by Max Bell
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