ビーチ・ボーイズの新しいドキュメンタリーを観て分かる10の真実

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Photo: Capitol Records Archives, Courtesy of Universal Music

極上のハーモニーを武器にしたカリフォルニアのサーフ・グループとして慎ましいスタートを切ったビーチ・ボーイズ(The Beach Boys)は、やがて実験的・野心的なアルバムを制作してポップ・ミュージックに革命を起こすこととなった。彼らは10代の若者のあいだでの人気バンドからアメリカ音楽界のレジェンドへと飛躍を遂げたが、その道筋は波乱に満ちていた。だがそうした浮き沈みは優れた物語には付き物であり、音楽史上屈指に愛される作品の数々はそうした軌跡の中で誕生していったのである。

5月24日よりディズニープラスで独占配信がスタートした『ビーチ・ボーイズ:ポップ・ミュージック・レボリューション』は、バンドの歴史をこれまで以上に踏み込んで描いた作品だ。2時間近いこのドキュメンタリーでは、初公開のアーカイヴ映像、バンド・メンバーや音楽業界の著名人たち(リンジー・バッキンガム、ジャネール・モネイ、ライアン・テダー、ドン・ウォズなど)による撮り下ろしのインタビュー、そしてビーチ・ボーイズの公式カタログからの選り抜きの楽曲などがふんだんに使用されている。

ヒット曲しか知らないリスナーも長年のファンも楽しめる、ビーチ・ボーイズに関するドキュメンタリーの決定版といえよう。ここではこの作品で明かされる逸話の数々を紹介していきたい。

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1. ウィルソン兄弟は子どものころ、車中でハーモニーを歌い始めた

ビーチ・ボーイズはいまも昔も家族事業だった。ブライアン、デニス、カールのウィルソン三兄弟は、作曲家の父とミュージシャンの母の下で育ったのである。兄弟はそれぞれ別の音楽に関心を持っていたが、彼らは幼少のころから、長い車移動の最中に三声のハーモニーを歌っていた。彼らはそのことをビーチ・ボーイズの”誕生”と位置付けている。

 

2. ブライアン・ウィルソンとマイク・ラヴはドゥー・ワップ、特にフォー・フレッシュメンへの愛を通じて意気投合した

ウィルソン家の一番上の従兄弟であるマイク・ラヴは、音楽に親しみ、兄弟とハーモニーを歌いながら育ち、中でもブライアンとマイクは、ドゥー・ワップに熱中する青春時代を送った。特にフォー・フレッシュメンからの影響は大きく、ブライアンは彼らの作品に触発されて、その楽曲のコードやアレンジ、それに四声のハーモニーを学んだ。

その点についてはブライアン自身も、ハーモニーのすべてを彼らから学んだと話している通りである。そしてスタジオでのキャリアのほとんどを共に過ごしたブライアンとマイクは、お互いをうまく補完する関係にあった。内向的なプロデューサーであるブライアンが曲を書き、快活なフロントマンであるマイクが歌詞を書くことでグループの名曲は生まれていたのである。

 

3. サーフィン文化に関する曲を書くべきだと主張したのは、メンバーの中で唯一サーフィンをしたデニス・ウィルソンだった

サーフィンと聞けば真っ先に頭に浮かぶバンドであるビーチ・ボーイズが、自分たちではほとんどサーフィンをしなかったというのは皮肉なことだ。だが、デニスだけは例外だった。そんな彼こそが、地元ロサンゼルスで流行していたサーフィン文化に関する歌詞を書くべきだと言い出した張本人だったのである。

そしてそのことは、サーフ・ミュージックを演奏していたほかのアーティストとビーチ・ボーイズを差別化するのにも役立った。というのも当時、ほかのグループはインストゥルメンタルの楽曲ばかりを演奏していたのである。また、カールはサーフィンこそあまりしなかったが、彼がベンチャーズ、マーケッツ、ディック・デイル&デルトーンズらに代表されるサーフ・ロック・バンドの大ファンだったということも特筆に値するだろう。

 

4. ロネッツの「Be My Baby」におけるフィル・スペクターのプロデュース手法はブライアン・ウィルソンに衝撃を与え、それを契機に、彼はレッキング・クルーを起用するようになった

フィル・スペクターと、”ウォール・オブ・サウンド”と呼ばれるその有名なプロデュース手法もまた、ブライアンに多大な影響を与えた。その一番のきっかけとなったのは、ロネッツの言わずと知れたヒット曲「Be My Baby」を支える大編成のアンサンブルだった。

そしてこのシングルでは、伝説的なセッション・ミュージシャン集団であるレッキング・クルーが演奏していた。そのため、のちにブライアンも彼らを起用し、スケールが大きく複雑になりつつあった『Pet Sounds』の収録曲を制作している。

他方、スペクターからの影響は、ビーチ・ボーイズが1964年に発表したシングル「Don’t Worry Baby」で早くも感じ取ることができた。同曲はグループのサウンドの転換点となったと同時に、ブライアンがプロデューサーとして自信を深めた重要曲でもあるのだ。

 

5. グレン・キャンベルは一時期、ブライアン・ウィルソンの代役としてビーチ・ボーイズのツアーに参加していた

こちらもレッキング・クルーに関する逸話だ。ブライアンが技巧派集団である彼らとのスタジオ作業に集中するようになると、残りのメンバーは彼がツアーに参加しないことを了承。一方でライヴ・ステージを充実させるべく、ツアー・メンバーとなるミュージシャンを代わる代わる起用するようになった。

レッキング・クルーの一員で、のちにカントリー界のスターとなるグレン・キャンベルもそうした”代役”の一人だった。だがブライアンの才能に深い感銘を受けていたという彼も、ビーチ・ボーイズのライヴで女性たちからの叫び声を浴びる心の準備はできていなかったようだ。

 

6. バハマ諸島の伝統的な民謡である「Sloop John B」をカヴァーするというのは、アル・ジャーディンのアイデアだった

ビーチ・ボーイズには、ウィルソン兄弟の子ども時代のご近所さんだったデヴィッド・マークスが所属していた時期も短期間ながらあった。だが彼を除けば、黄金期のメンバーのうちでウィルソン家の親族でなかったのはアル・ジャーディンのみだ。

ブライアンの古くからの友人で、ハイスクールでは共にアメフト・チームに在籍していたアルも、美しいハーモニーや音楽に関するアイデアにかけてはほかに引けを取らなかった。キングストン・トリオが取り上げていた有名な民謡「Sloop John B」をカヴァーするという彼の案はその好例といえよう。

そしてブライアンはこのアイデアを大変に気に入り、「Sloop John B」をキーボードでアレンジするという挑戦に乗り出した。その結果、ポップ史に残る傑作にして、『Pet Sounds』のハイライトとなるトラックが完成したのである。

 

7. 『Pet Sounds』のプロモーションのために起用されたのは、ザ・ビートルズの広報係として知られるデレク・テイラーだった

ビーチ・ボーイズとザ・ビートルズが互いに切磋琢磨していたことはよく語られている。その始まりは、ブライアンがニュージーランドでのツアー中に『The Ed Sullivan Show』でのビートルズの演奏を見たことだった。彼はそれを見た瞬間、自身の音楽の完成度を高める必要性を感じたのである。だが、ビートルズの広報係として有名な人物がビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』に携わっていたことはあまり知られていないかもしれない。

当時、キャピトル・レコードはこのアルバムをどのように宣伝すべきかを図りかねていた。そこでテイラーは、ブライアンをビーチ・ボーイズの”孤高の天才”として売り出すアイデアを推し進めた。しかしこの戦略は、自分たちの功績が同等に評価されていないとほかのメンバーを落胆させることにもなったのだった。

 

8. キャピトル・レコードはアメリカ国内で『Pet Sounds』の宣伝に力を入れず、代わりにビーチ・ボーイズ初のベスト・アルバムを大々的に宣伝した

『Pet Sounds』はザ・ビートルズの広報係の助力を得たほか、関係者からも激賞された。特に、ポール・マッカートニーが「God Only Knows(神のみぞ知る)」を”完璧な楽曲”と評価し、『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』に直接的な影響を与えたと認めたことはよく知られている。だがそれでもキャピトルは同作を推さずに、シングル曲やそのB面曲を集めたグループ初の編集盤『Best Of The Beach Boys』を売り出したのだ。

いまでこそポップ史に残る名作として正当な評価を受けている『Pet Sounds』だが、ブライアンはアメリカでのセールスが芳しくなかったことに心を痛めたという。一方、同作はイギリスでは批評面・セールス面ともに大成功を収めている。

 

9. グループは若々しく楽天的だった過去のイメージを払拭するため、バンド名を”ザ・ビーチ”に短縮することを検討していた

『Pet Sounds』発表後の数年は、創造性が花開いた時期でもあったが、グループ内の緊張感が高まった時期でもあった。実際、『Smile』のレコーディングの中止後に制作された『Smiley Smile』は、ブライアンがビーチ・ボーイズを音楽的に牽引した最後の作品となったのである。そうして岐路に立たされたグループは、攻撃性を増す若者たちのカウンターカルチャーとも足並みを揃えられずにいた。

そこで、彼らは新たな時代の到来に合わせて、バンド名を”ザ・ビーチ”に短縮することを考えた。そうすることで過去の成功の重荷から自らを解放し、より成熟した音楽を作りたいという想いを目に見える形で示そうとしたのである。

 

10. 1974年発表の『Endless Summer(終りなき夏)』はチャートの首位を獲得し、新たな世代にビーチ・ボーイズの名を知らしめた

こうした不安定な時期に、キャピトルは『Endless Summer』をリリース。これは、『Pet Sounds』以前のグループのヒット曲を纏めた新しいベスト・アルバムだった。チャートの首位に輝いたこの大ヒット作は新たな世代にビーチ・ボーイズの名を知らしめ、それによってグループは、スタジアム級の会場で次々に演奏する人気のツアー・バンドへと変貌を遂げたのである。

以降、彼らは形を変えながら現在までツアー活動を継続し、ファンや音楽愛好家たちに幸せを届け続けている。

Written By Will Schube



ビーチ・ボーイズ『The Beach Boys: Music From The Documentary
2024年5月24日発売
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