後年評価された最高傑作、ダスティ・スプリングフィールドの『Dusty In Memphis』

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ダスティ・スプリングフィールドが残した傑作の中でも最高傑作として知られ、普遍的な名作として多くの聴き手に認められているアルバムは、1969年3月31日にリリースされた『Dusty In Memphis』だ。当時この作品は意外なほど話題にならなかったのだが、現在では彼女ならではのソウルを感じさせる歌声が堪能できる金字塔的な作品として圧倒的な評価を確立している。

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精神的、物理的な進化のタイミング

ヒット・シンガーとして認知されてからおよそ5年がたっていたダスティ・スプリングフィールドは、この5枚目となるアルバムで新たな方向性を打ち出した。彼女がアルバムのレコーディングをイギリス以外の国で行なったのはこの時が初めだった。レコーディングにはジェリー・ウェクスラー、アリフ・マーディン、トム・ダウドという、アメリカのソウルやロック界における重鎮プロデューサー3名が集結。よく知られているように難産の末の完成ではあったものの、その甲斐あって、楽曲、パフォーマンスとも最高の仕上がりになっている。

1966年の「You Don’t Have To Say You Love Me(この胸のときめきを)」の世界的なヒットで多くのオーディエンスを獲得したにもかかわらす、その翌年のダスティ・スプリングフィールドはUKチャートのTOP10にシングルもアルバムも送り込むことができなかった。

イギリスのソウル・ミュージック界を代表する屈指の歌手としての評価が確立していたこと、そしてアトランティックにいたジェリー・ウェクスラーの存在をきっかけとして、ダスティ・スプリングフィールドと彼女のマネージャーであるヴィッキー・ウィッカムは、精神的な意味と物理的な意味の両面での進化に絶好のタイミングだということで意見が一致した。

 

アメリカでの録音

イギリスでのフィリップスとの契約はそのままに、ついに念願のアメリカのアトランティックとの契約を交わしたダスティ・スプリングフィールドは、チップス・モーマンが設立したメンフィスのアメリカン・スタジオへと向かった。当時アトランティックが使用していたスタジオは南部に2箇所あったが、ひとつはマッスル・ショールズ、そしてもうひとつがこのアメリカン・スタジオで、ここはソウル・ミュージックの一大発信地点だった。

こだわりの強さで定評のあるダスティのために用意された楽曲は、バリー・マン&シンシア・ワイルの「Just A Little Lovin’」、ランディ・ニューマンの「Just One Smile」、バート・バカラック&ハル・デヴィッド「In The Land Of Make Believe」、そしてジェリー・ゴフィン&キャロル・キング の「So Much Love」「Don’t Forget About Me」「No Easy Way Down」「I Can’t Make It Alone」という、圧巻の豪華ソングライター達によるものだった。

ジェリー・ウェクスラー、トム・ダウド、そしてアリフ・マーディンの全員がアメリカン・スタジオのコンソール・ルームに居並び、メンフィス・キャッツとして知られる完璧なスタジオワークを誇る超一流プレイヤー陣が集合するというコンディションでレコーディングは行われた。

ヴォーカル力に優れたダスティ・スプリングフィールドではあったが、そうした新しい環境でのレコーディング状況下で彼女の不安や自信のなさが露呈してしまいセッション全体に悪影響を与えてしまった。どの楽曲にも南部らしさが濃厚ではあるが、実はアルバム・タイトル『Dusty In Memphis』にはひとつ偽りがあった。ダスティ・スプリングフィールドの最終ヴォーカル・トラックは後日ニューヨークでレコーディングし直したものなのだ。

 

成功しなかったが後に評価されたアルバム

1968年11月にアルバムに先行してリリースされたシングル「Son Of A Preacher Man」は、アルバムの売り上げを刺激するだろうと思われた。ジョン・ハーレーとロニー・ウィルキンスによる素晴らしい歌詞と耳に残るメロディを持つこの曲は、じわじわとくるグルーヴとそれにふさわしいダスティ・スプリングフィールドのセクシーなヴォーカルに見事にマッチしており、大西洋の東西で共にトップ・テンをものにするヒット作になった。

しかし、その後1969年3月31日にリリースされたアルバムは、期待に大きく反して悲惨な結果に終わってしまう。『Dusty In Memphis』のアメリカでの最高順位は99位、そして彼女の故郷イギリスではチャート入りすら果たせなかった。その後アメリカで続いてリリースされたシングルのうち「The Windmills Of Your Mind」はアダルト・コンテンポラリーではヒットとなったが、この曲はイギリスでは前年に映画『The Thomas Crown Affair』の中でノエル・ハリソンが採り上げて既にヒットさせていたものだった。

このアルバムを含め、1960年代の傑作とされるアルバムにはいくつか同様の例が見られるが (例えばザ・ゾンビーズの『Odessey & Oracle』)、『Dusty In Memphis』の真価が認められるのには新しい世代が必要だった。史上最も重要なアルバムとして何度もリストに挙げられているこのアルバムだが、2003年のローリング・ストーン誌「最も偉大なアルバム500」では89位に選ばれている。

2006年にBBCラジオ2で放送されたこのアルバムについてのドキュメンタリー番組で、ウェクスラーはこう述べている。

「(あのアルバムが)再評価され、これほどまでに愛されている――生きていてよかったと思うよ」

Written by Paul Sexton


ダスティ・スプリングフィールド『Dusty In Memphis』
1969年1月18日配信

  



 

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