ガールズ・パンク・バンク、スリッツは“ガールズ・バンドがやってはいけない”ことを全てやった
パンクが公平な場とされる前、生意気で都会慣れしたスリッツにとって、“ガールズ・バンドがやってはいけない”とされていることが全てだった。
ロンドンを拠点とする生意気な4人組はパンクの最初の波にうまく乗った。ドレッドヘアでエネルギッシュなヴォーカリストのアリアン・フォスター(通称: アリ・アップ)の母はセックス・ピストルズのジョニー・ロットンと後に再婚するノラ・フォスターであったり、ギタリストのヴィヴ・アルバータインはクラッシュのミック・ジョーンズとデートをしたりシド・ヴィシャスと親しくしていたりといったプライベートではあったが、スリッツは、誰の付属品にもなることなく、自分たちの思うがままに自らの歴史を作ることを固く決意しており、パンクの同世代に劣らないほど攻撃的で血気さかんだった。
彼女たちの音楽スキルは痛々しいほど最初は不完全だったが、それも次第にかなり鍛えられ、ベーシストのテッサ・ポリットとドラマーのパロマ・ロマーノ(通称: パルモリヴ)の加入後には彼女たち自身の方向性を見つけることになった。
彼女たちはこのラインナップで、想像力に富んだフライヤーとともにバズコックスとサブウェイ・セクトも巻き込みながら、イギリスで初めて成功した全国的パンク・ツアーと言われる1977年の春頃に開催されたクラッシュのホワイト・ライオット・ツアーをサポート。この一ヶ月間にわたるツアーの評判で、スリッツは幅広い注目を得ることになった。好評を博したBBCのラジオ番組「ジョン・ピール・セッションズ」によってその注目が強まる中、バンドがアイランド・レコードと契約を結ぶ前に、時代はパンクからニューウェイヴへと変化をしてしまっていたのだが。
スリッツがデビューLP『Cut』をレコーディングする前にバンドを脱退したパルモリヴは、その後、ラフ・トレードがスポンサーする女性ポップDIY保守派、ザ・レインコーツで再び表舞台に現れた。彼女の脱退の結果、後のスージー・アンド・ザ・バンシーズのドラマー、バッジーがセッションに採用。レコーディングはバルバドス生まれのプロデューサーであり、ダブ・レゲエの詩人リントン・クウェシ・ジョンソンとの作品で最も知られているデニス・“ブラックベアード”・ボーヴェルに見守られながら行われた。
1979年9月にリリースされた『Cut』は、スリッツのメンバー3人が泥の中で腰巻だけをまとった物議を醸すアルバム・ジャケットにより、すぐに悪評を得てしまう。しかしながら、収録された音楽はどの点から見ても印象深いものだった。
アルバムはバッジーの新鮮で創意に富んだドラミングによって高められ、女の子たちの自然でひとくせある楽曲はすごいスピードで疾走しており、「So Tough」や大量消費に反対するぶしつけな「Shoplifting」といった熱狂的なポップ・パンクの曲が収録されていた。しかしアルバム全体の宇宙的で聞く者を振動させる効果とは、「Adventures Close To Home」や輝かしいフットボールとTVを侮辱した「Newtown」といったハイライトの楽曲に装飾音を加えたデニス・ボーヴェルのチャンネル・ワン(*有名レゲエスタジオ)っぽいダブ技術を使った巧みなスタジオ・テクニックがあってのものであった。
最もポップな曲「Typical Girls」が45回転盤シングルとしてリリースされたとき、余分なものを一切取り除きながら、非常に印象的にカヴァーしたモータウンの一曲「I Heard It Through The Gravevine(邦題: 悲しいうわさ)」とともに、アルバムからの少ないヒット・シングルとなった。
アルバムの『Cut』はイギリスのトップ40にも登場、トリップホップのフューチャリスト、マッシブ・アタックからフェミニスト・パンクのスリーター・キニーまで、先駆的なミュージシャンたちに熱狂的に支持され、スリッツの芸術的頂点としてあり続けている。『Cut』の次の作品で、彼女たちは当時10代だったネナ・チェリーを含むラインナップで新しい活動の場に向かったが、アヴァン・ギャルドな傾向の作品『Return Of The Giant Slits for CBS』をレコーディング後、1982年に解散した。
Written by Tim Peacock
スリッツ『CUT』