ローリング・ストーンズ「Wild Horses」解説:60年代の夢が砕け散ったときに生まれた喪失の歌
ザ・ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)が、18年ぶりとなる新作スタジオ・アルバム『Hackney Diamonds』を2023年10月20日に発売することを発表した。
この発売を記念して彼らの過去の名曲を振り返る記事を連続して掲載。
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ブライアン・ジョーンズの死
ザ・ローリング・ストーンズはそれまで6年間にわたってスキャンダルと賛否両論の渦の中にあった。それでもなお、1969年は彼らにとって過去最高にドラマチックな年だったと言って間違いない。
やがて『Let It Bleed』のタイトルでリリースされるアルバムのレコーディング・セッションは既に始まっていたが、ほとんどのセッションに、ギタリストのブライアン・ジョーンズは参加していなかった。彼は常にドラッグで酩酊状態だったため、たとえその場にいたとしても役に立たなかったのである。
いやが応でも、何らかの対処が必要だった。この年の5月、ストーンズはオーディションを行い、まだ20歳だった若きギタリスト、ミック・テイラーを採用した。そして6月、ストーンズを結成した張本人だったブライアンはバンドから脱退するように求められた。それから1ヵ月が経ったころ、彼は自宅のプールで水死体となって発見されたのだった。
ブライアンの死は、当時のミック・ジャガーのガールフレンド、マリアンヌ・フェイスフルに大きな衝撃を与えた。ミックとマリアンヌはオーストラリアへ飛び、ジョーンズの葬儀を欠席した。その後、彼女は薬物の過剰摂取により昏睡状態に陥った。8月にはキース・リチャーズと恋人のアニタ・パレンバーグとのあいだに息子マーロンが生まれ、キースは一児の父親になった。
やがて10月、ストーンズはアレン・クラインと交わしていたマネジメント契約から解放されることになったが、その結果、このバンドの財政が厳しい状況にあることが明らかになった。とはいえ、バンドの生計を立てるという面では幸いだったことに、ストーンズは3年ぶりにアメリカ・ツアーを開催することが可能になった。それまでの3年間は、犯罪歴を持つブライアンのアメリカ入国が難しかったため、バンドがコンサート・ツアーを行うことは困難だったのである。
曲ができた時
再びアメリカ・ツアーに出られるというのはストーンズにとって喜ばしい展開ではあったが、必ずしも嬉しいことばかりではなかった。キースとしては、生まれたばかりだった息子と離れたくなかったのである。彼はこう語っている。
「アメリカに行って、また本腰を入れてコンサート・ツアーを始めなければならないとわかっていた。だけど [俺個人としては] 行きたくはなかった。とても難しい時期だったんだ。子供が生まれてからまだ2カ月しか経っていないのに、どこか遠くに行くっていうのはね。そういう立場にいる人は、いつだって何百万人もいる。それでもやっぱりな……」
キースは息子と引き離されることに対するそんな不安を抱えながら、ふと12弦ギターを手にして寂しげなマイナー・キーのコード進行をかき鳴らした。そしてサビの部分を考えたときに、突然、2つの言葉が脳裏に浮かび上がってきた。それが「Wild Horses」だったのである。キースはこう語る。
「あれは、何かがしっくりハマる魔法の瞬間だった。夢を見ていたら、突然、すべてを手にしていたんだ。“Wild Horses (野生の馬)”っていうイメージが浮かんだら、次はどんなフレーズを使うことになる?それは間違いなく“couldn’t drag me away (引っ張られても決して引き離されやしない)”ってやつだ」
キースは自分が思いついたアイディアをミックに伝え、それによってこの曲のヴァースが出来上がった。一方マリアンヌは自伝の中で次のように主張している。6日間の昏睡状態から目覚めたとき、心配するミックに向けて彼女が「Wild horses couldn’t drag me away (野生の馬に引っ張られても引き離されやしない)」と請け合ったというのである。当然のことながら、ミックはマリアンヌが回復したことに安堵したが、当時ふたりの関係にはヒビが入りつつあった。この事件も関係の修復にはつながらず、まもなく4年間の付き合いにピリオドが打たれることになる。
その年の11月、ストーンズのアメリカ・ツアー中に、「マリアンヌがミックと別れ、イタリアのアーティスト/映画監督のマリオ・スキファノと交際開始」という記事が本国イギリスの新聞に掲載された。
このことが「Wild Horses」の痛烈な歌詞に織り込まれなかったとは考えにくい (この曲の中でミックは、“You know I can’t let you slide through my hands / するりと抜けていこうとする君の手を離しやしない”と歌っている) 。しかしそうした解釈をミック本人は過去にこう否定している。
「みんな、これはマリアンヌについて書いた歌詞だっていうけれど、俺は違うと思うね。あの時点では、どれもこれもすべて終わった話だったからだ。でも、自分がこの曲の中に感情的な面ですごくのめり込んでいたのは間違いない。この曲はとてもプライベートな作品であり、さまざまな感情を呼び起こす悲しい曲だ。今となってはかなり陰鬱に聞こえるけど、当時はかなり重苦しい時期だった」
ミックが抱いていた彼の苦悩は、この率直な歌詞の中にあまりにもあからさまに表れている。彼はここで“気品のない女性”のせいで“鈍く痛み”を感じていると歌っている。彼の声は、おそらく過去に例がないほどに儚げだ。ヴァースではとても暖かく切々とした表情を浮かべ、サビの部分ではとても愛情深く聞こえる。そこにキースの孤独なハーモニーが加わることで、そうした情感がさらに強調されている。ミックはこの曲の繊細さについて次のように語っている。
「こういう曲はこうでなきゃいけないんだ。こういう風に感情を表現しないことにはまるで意味がない。この歌詞を書いたとき、俺はか弱い感じになっていたんだよ」
マッスル・ショールズでの録音
フロリダ州パーム・ビーチでアメリカ・ツアーを終えてから数日が経過した12月2日、ローリング・ストーンズはアラバマ州フローレンスのマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオでレコーディングに着手した。
ここは、かつてリック・ホールのFAMEスタジオのハウス・バンドとして活動していた4人のミュージシャンが新たに開設したスタジオだった (彼らは、エタ・ジェイムス、ウィルソン・ピケット、アレサ・フランクリンらとの仕事で高く評価されていた) 。ストーンズは、ここで3日間に亘ってレコーディングを行い、3曲を吹き込んでいる。当時を振り返り、チャーリー・ワッツはこう語っている。
「ツアーの最中でいい演奏ができる状態のときにレコーディングをするっていうのは、キースの得意技だ。とはいえ、マッスル・ショールズ・スタジオがとても特別な場所だったってことも重要だ。あそこはとても素晴らしいスタジオで、流行の最先端をいっていた。ドラム・セットが高い位置のライザーの上に配置されていたんだ。しかも同じスタジオで働いていた連中が設立したスタジオだったから、そういう場所でレコーディングをやってみたかった」
エンジニアのジミー・ジョンソンをプロデューサーに迎え、ストーンズはいつものように曲作りに取り掛かった。何時間もかけて根気強くリハーサルを重ね、徐々に曲を洗練させていったのである。レコーディング初日が終わるころにはフレッド・マクダウェルの「You Gotta Move」のカヴァー・ヴァージョンが完成し、2日目には「Brown Sugar」が完成した。そしてスタジオでの作業を始めてから3日目に、彼らは「Wild Horses」に挑戦した。
「Wild Horses」のレコーディング
アメリカ深南部 (ディープ・サウス) のスタジオに入ったストーンズは、インスピレーションを感じずにはいられなかった。FAMEスタジオの壁にはR&Bのサウンドが染み込んでいたのだ。
ミック・テイラーがアコースティック・ギターをナッシュヴィル・チューニングにすると、曲ははっきりとしたカントリー・テイストを帯びるようになった。「あそこにいると、確かにちょっと違うことをやってみようっていう気になる」とジャガーは語っている。
ストーンズの忠実なピアニストであり、ロード・マネージャーでもあるイアン・スチュワートは「マイナー・キーの曲では演奏したくない」と言って、ピアノの定位置から降りていた。その代わりを務めたジム・ディッキンソンはプロデューサーのジミー・ジョンソンの友人で、このときはちょうどメンフィスから足を伸ばしてスタジオを訪れたところだった。ジョンソンは次のように振り返っている。
「ジムは、ギター・アンプの後ろにいた。うちのスタジオにはタック・ピアノがあった。古いアップライト・ピアノで、そのハンマーに鋲を打って、ホンキートンクのような音を出せるようにしていたんだ。とにかく、ストーンズが作り上げたグルーヴに合わせて、ジムがそのピアノをちょこちょこ弾いていたら、キースがそばに来て、“おい、それを弾いてくれよ!”って言ったんだ」
ミックはリハーサルを進めているあいだに歌詞を固めた。そしてヴォーカルの吹き込みが完了して楽曲は完成した。メイズルズ兄弟が1970年に制作したドキュメンタリー映画『ギミー・シェルター』では、ストーンズが「Wild Horses」のマスターを聴き直しながら、その見事で繊細な仕上がりに浸っている姿が映し出されている。その後の彼らは消耗していた。ジム・ディッキンソンはこう明かしている。
「セッションが終わって、ラフ・ミックスが出来上がると、ジャガーはそこに座って、マスター以外のテープをズタズタにしてしまった。彼は、ボツになったミックスとアウトテイクをすべて消去したんだ。そして、マスター以外の8トラック・テープをズタズタにして、床にばらまいた。だから、あのときのセッションのブートレグは存在しないんだよ」
オルタモントの悲劇のあとにグラム・パーソンズが聞いた
12月7日未明、ストーンズはサンフランシスコのホテルで、直前に経験した事態に向き合わざるを得なくなっていた。その日、オルタモント・スピードウェイで開催した無料コンサートは、ツアーの成功を受けてストーンズがファンに送る感謝イベントとして企画されていた。しかしこのコンサートは開始直後から暴力沙汰に苛まれ、荒れ模様となった (その原因は、手荒な暴走族集団ヘルズ・エンジェルスが警備を担当したことにあった) 。
それが最高潮に達した結果、ステージの目の前でファンが刺し殺されるという事件が発生した。その現場から無事脱出したストーンズは、ホテルの部屋で友人たちと一緒に緊張をほぐしていた。その中には、フライング・ブリトー・ブラザーズのグラム・パーソンズもいた。
グラム・パーソンズがストーンズと出会ったのは1968年のことで、その当時の彼はバーズのメンバーとしてロンドンにわたっていた。グラムとキースはカントリー・ミュージックが大好きだという共通点があり、それがきっかけとなってふたりのあいだに友情が芽生えた。
フォーク・ロック・バンドだったバーズは、フロリダ生まれのグラムが加入したあと、純粋なカントリー・ミュージックへと方向性を転換させていた。しかしグラムはツアーを続ける代わりにロンドンでキースと一緒に過ごすことを選んだため、すぐにバーズから解雇されてしまっていたのだ。
その後の彼は、やはりバーズのベーシストだったクリス・ヒルマンとフライング・ブリトー・ブラザーズを結成。オルタモントのコンサートに出演した前座バンドの中には、ブリトー・ブラザーズも含まれていた。パーソンズは、その夜のことを次のように振り返っている。
「あんな出来事を体験して、僕たちはみんな震えていた。ストーンズは次の日に出発する予定だった。やがて [ミックが] こう言ったんだ。“この曲を聴いてくれよ。気に入ってくれるんじゃないかな”。そうして“Wild Horses”を聴かせてくれたんだ」
それからまもなく、どうやらグラムは「Wild Horses」のマスターテープを受け取ったようだ。これには、グラムかブリトー・ブラザーズのペダル・スティール奏者”スニーキー”・ピート・クレイナウのどちらかに演奏を追加してもらうという狙いがあったらしい。彼らの加えた演奏がどんなものであったにせよ、結局ストーンズはそれを採用しなかった。とはいえ、グラムとブリトー・ブラザーズはこの曲を覚え、自分たちのセカンド・アルバムでカヴァー・ヴァージョンを録音した。
そのアルバム『Burrito Deluxe』は1970年5月にリリースされた。ストーンズ自身の「Wild Horses」が世間の人の耳に触れるのは、それよりさらに1年ほど先のことだった。こうした経緯をふまえて、この曲の制作過程にグラムが関わっていたのではないかと考える人がたくさんいる。真相を解き明かすのは難しい。ただしブリトー・ブラザーズのカヴァーは、ストーンズのヴァージョンと同じように甘い仕上がりではあるけれど、身にしみるような痛切さが欠けている。その点ははっきりしている。
リリース
ザ・ローリング・ストーンズは、さらなる新曲をリリースする前に、ビジネス面を整理したいと考えていた。アレン・クラインと結んだ契約には、1960年代にストーンズが録音したジャガー/リチャーズ作品全曲 (これには「Brown Sugar」や「Wild Horses」なども含まれていた) の所有権がクラインにあると明記されていた。このため、彼をマネージャーから解任することが何より先に必要だったのである。
ストーンズは1970年に自らのレーベルである”ローリング・ストーン・レコード”を立ち上げ、1971年4月に『Sticky Fingers』をリリースした。このアルバムの3曲目に収録されている「Wild Horses」は、そのほろ苦い美しさがすぐに評価されるようになった。
この曲は、当時カナダとアメリカでのみシングルとしてリリースされた。その後1995年にストーンズのアルバム『Stripped』で再録音され、その新しいヴァージョンがシングル・カットされると、ヨーロッパではオリジナル版よりも好成績を収めた。
「Wild Horses」は、長年のあいだにさまざまなアーティストたちがさまざまなスタイルでカヴァーし、レコードやライヴで披露している。その例としては、ザ・サンデーズの浮遊感のあるインディー・ヴァージョン、アリシア・キーズのR&Bピアノ・バラード、ガンズ・アンド・ローゼズの燃え立つようなギター・バトル、シャロン・ジョーンズ&ザ・ダップ・キングスのビンテージ・ソウル・アレンジなどが挙げられる。そしてスーザン・ボイルまでもがこの曲を歌っている。こうしたカヴァーを聞けば、すぐに人の心を動かす感動的な要素がこの曲に含まれていることがわかるだろう。
この曲の魅力は繊細なところにある。そのせいか、ストーンズのコンサートではセットリストの定番にはなっておらず、演奏される回数も少ないほうだ。ただしステージで披露される場合、「Wild Horses」は曲にふさわしい気高さをもって扱われる。時には特別なゲストが情熱的な歌声を披露し、曲をさらに高貴なものにしてきた。
たとえばデイヴ・マシューズ、エディ・ヴェダー、フローレンス・ウェルチがゲスト・ヴォーカリストとして参加し、ミックの力強いヴォーカルと共演している。そうした演奏を聞けばわかるとおり、ストーンズがプライベートな側面と魂を最高にさらけ出したこのバラードは、時代を超える魅力を持っているのである。
Written By Simon Harper
最新アルバム
ザ・ローリング・ストーンズ『Hackney Diamonds』
2023年10月20日発売
① デジパック仕様CD
② ジュエルケース仕様CD
③ CD+Blu-ray Audio ボックス・セット
④ 直輸入仕様LP
iTunes Store / Apple Music / Amazon Music
シングル
ザ・ローリング・ストーンズ「Angry」
配信:2023年9月6日発売
日本盤シングル:2023年10月13日発売
日本盤シングル / iTunes Store / Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music
- ザ・ローリング・ストーンズ アーティスト・ページ
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