ザ・ローリング・ストーンズはどのようにロックンロールを変えたか? 11個の要素で振り返る
2022年7月12日に結成60周年を迎えたザ・ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)はロックンロールを変えたバンドだ。だが、もともとは彼らも他のバンド同様に、小さな会場で演奏し、自分たちが影響を受けた音楽にオマージュを捧げるバンドの1つに過ぎなかった。では、彼らとそれ以外のバンドとは、一体何が違っていたのだろうか。
ご存知の通り、ストーンズは各地の巨大な会場を満席にする世界的なスーパースターになった。チャーリー・ワッツの爽快なドラミングや、キース・リチャーズのパワフルなギター、ミック・ジャガーのヴォーカルとパフォーマーとしての才覚がストーンズを音楽史上有数の重要グループにしたことは間違いないだろう。そしてその勢いは数十年経った今でも衰えていない。
特に、彼らが1960年代にレコーディングした楽曲の数々は今でも大きな影響力を持ち続けている。では、その10年間に、彼らがいかにしてロックンロールとポップ・カルチャーの様相を一変させたのかを11個の要素で振り返っていこう。
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1. ブルースを一般大衆に広めた
ストーンズは1960年代に、愛してやまない音楽であるブルースを一般大衆に広めた。ミック・ジャガーは、人生で初めて買ったアルバムが『Muddy Waters At Newport』であったと公言している。ギタリストのロン・ウッドはこう回想する。
「ミックとキースが初めて親しくなったのは、大学から帰る電車の中でのことだ。彼らはお互いが持っているレコードを見て『おい、マディ・ウォーターズを持っているのか。それならいい奴に違いない、バンドを組もう』となったんだよ」
彼らのバンド名が決まった経緯はよく知られている。それは1962年のこと。バンドのオリジナル・メンバーであるブライアン・ジョーンズは、彼らにとって初めての“ちゃんとした”ライヴの宣伝を載せるため、ジャズ・ニュース誌に電話をかけた。バンド名を聞かれた時、彼の目に入ったのが床に置かれたマディ・ウォーターズのアルバムの第1曲目の「Rollin’ Stone」だったのだ。
現在でも、憧れのミュージシャンたちの音楽を讃えようという彼らの情熱は少しも衰えていない。2016年にはブルースへのラブレターともいうべきアルバム『Blue & Lonesome』を制作。彼らに特に影響を与えた12曲をカヴァーした作品だ。
その2年後には、彼ら自身で選曲したブルースのコンピレーション・アルバム『Confessin’ The Blues』を発表している。そこにはハウリン・ウルフ、ジョン・リー・フッカー、チャック・ベリー、エルモア・ジェームス、ビッグ・ビル・ブルーンジー、ロバート・ジョーンズといったブルース界のパイオニアたちの楽曲が収録された。キース・リチャーズはこう断言する。
「ブルースを知らなければ、ギターを手にすることも、ロックンロールや他のポピュラー・ミュージックを演奏することもまったく意味がない」
2. 影響力ある無数の楽曲群
当初はブルース・ナンバーのカヴァーから活動を始めたストーンズだが、ミックとキースは作曲チームとして音楽界でも屈指の成功を収めてきた。1960年代を通して彼らは「Paint It, Black(黒くぬれ!)」「19th Nervous Breakdown(19回目の神経衰弱)」「Get Off Of My Cloud(一人ぼっちの世界)」「Lady Jane」「Jumpin’ Jack Flash」といった象徴的なヒット曲の数々を作曲。
加えて、「お前は、俺を雷雨に見舞われた猫のように逃げまわらせる(You got me running like a cat in a thunderstorm)」といった印象的な歌詞をいくつも生み出してきた。
3. 象徴的なアルバム・カヴァー
1960年代には、アルバム・カヴァーを芸術家や美術学校の友人に依頼するバンドが多かった。ザ・ビートルズがピーター・ブレイクやリチャード・ハミルトンと手を組んだように、ザ・ローリング・ストーンズもアンディ・ウォーホルやロバート・フランクと手を組んだ。
だが、ストーンズはまた違ったやり方でアルバム・カヴァーの新天地を切り開いたといえよう。それは、彼らがいつも自信に満ちていたからこそ為せる業だった。デビュー・アルバムのジャケット写真(ニコラス・ライトが撮影している)における彼らの反抗的なポーズはその好例だ。そのジャケットには、バンド名すら記載されていなかった。
続く1965年の『The Rolling Stones No.2』のカヴァーには、著名な写真家であるデヴィッド・ベイリーが撮影した写真を使用。そこでは、フロントマンであるはずのミック・ジャガーがメンバーの後ろに佇んでいる。この写真についてデヴィッド・ベイリーはこう述べている。
「ザ・ローリング・ストーンズとは縁があったんだ。彼らが街にいる普通の人みたいな格好をするというアイディアも気に入ったよ」
4. ファッションにおける新たな流行の創出
「衣装を着ることでパフォーマーに変われるんだ」と話すミック・ジャガーは長年に亘る活動の中で、現在もよく知られる衣装をいくつも身につけてきた。
当初、彼らの背中を押したのはマネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムだった。彼の主導で彼らは1950年代のポップ・スターのような堅苦しい外見から、無骨で不良じみたイメージに変貌し、それが定着していった。
振り返れば、1960年代のストーンズのルックスは見事だった。特にミックは、大胆な服装に身を包むことを決して恐れなかった。タイトなスパンコールのジャンプスーツや、シルクハット、そして1969年のハイド・パーク・コンサートで着ていたことで知られる白いヴェールの“ドレス”などを、彼は堂々と着こなしてみせたのだ。彼はオジー・クラークのジャンプスーツ時代を振り返って、「あれは本当にセクシーで、ぴっちりとタイトだったけど、とても動きやすかった」と語っている。
1968年のアルバム『Beggars Banquet』で彼らは、ポートレイト写真の撮影をマイケル・ジョセフに依頼。ヒエロニムス・ボスやピーテル・ブリューゲルら巨匠の名画を思わせる作品で知られる写真家だ。
彼が撮影した写真には、1960年代のスウィンギング・ロンドンと、ディケンズの小説に出てくる悪党を融合させたような奇妙な出で立ちのメンバーが写し出されている。また、後年に作られた”舌と唇”のロゴ・マークは、”史上最もアイコニックなデザイン”にも選出された。
5. ロックンロール界の元祖反逆者
「(I Can’t Get No) Satisfaction」は、上品ぶった中流階級に反感を持った若いミュージシャンたちによる、きわどいプロテスト・ソングといえる1曲だ(実際には、ミックは裕福な家庭に育ち、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに通っていたが)。
実際、ストーンズは、クリフ・リチャードやアダム・フェイスといった既存のスターたちよりも刺々しく反抗的に見えた。キース・リチャーズは1960年代を振り返ってこう話す。
「とても荒々しくて、暴力的な時代だった。テレビに映し出される暴力の数々、強奪や焼き討ち。そしてベトナムで起こっていたことは、俺たちが知っている従来の意味での戦争とはまったく違っていた」
ストーンズは既成概念にもとらわれなかった。例えば「Have You Seen Your Mother, Baby, Standing In The Shadow?」のアメリカ盤のジャケットには、女装姿のメンバーが写っている。
また、1967年のアルバム『Their Satanic Majesties Request』のタイトルは、UKのパスポートの中に書かれている以下の文言を揶揄したものだ。「英国女王陛下の国務長官が要請し命令する (Her Britannic Majesty’s Secretary Of State requests and requires…)」
さらに、1967年、バンドは警察との揉め事も起こしている。ウェスト・サセックスにあるリチャーズの自宅”レッドランズ”で行われたパーティに、麻薬絡みの強制捜査が入ったのだ。
事件を担当した部長刑事のスタンリー・カドモアは、ソファに座っているジャガーとその元ガールフレンド、マリアンヌ・フェイスフルを発見したという。同刑事はこう報告した。
「その女性は淡い色の毛皮の敷物を身にまとっており、時折それを下ろして裸体を見せていた。その左側に座っていたのがジャガーで、私が思うに彼は化粧をしていた」
ミック・ジャガーとキース・リチャーズにはそれぞれ3ヶ月と12ヶ月の実刑判決が下されたが、結果的にそれは厳しすぎると判断され、首席裁判官のパーカー氏によって判決が取り消されることとなった。
ミックはかつてエリザベス女王を“魔女の長 / Chief Witch”と呼び、「アナーキーこそが唯一のわずかな希望の光だ」と高らかに宣言していた。だが、そんな彼も2003年にはナイトを叙勲されている。
そうして彼は“サー (Sir)”の称号を得たが、2016年にサーチ・ギャラリーでザ・ローリング・ストーンズのトリビュート展が行われた際には、「まず奴らにショックを与えてやるんだ、そうしたら博物館に入れてくれるのさ」とコメントしている。
6. アメリカのカルチャー形成への貢献
ザ・ローリング・ストーンズのアメリカでの人気は当初から高く、1960年代には以下の5枚のシングルで全米チャートを制した。
・「(I Can’t Get No) Satisfaction」(1965年7月)
・「Get Off Of My Cloud(一人ぼっちの世界)」(1965年11月)
・「Paint It, Black(黒くぬれ!)」(1966年6月)
・「Ruby Tuesday」(1967年3月)
・「Honky Tonk Women」(1969年8月)
1964年の初め頃にはシカゴにあるチェス・レコードのスタジオを訪れ、同年10月には『エド・サリヴァン・ショー』に出演。そこで披露した「(I Can’t Get No) Satisfaction」の演奏は大きな反響を呼んだ。
番組中には、何千人もの若者から応援メッセージが届いていることをメンバーに伝えていたサリヴァンだったが、個人的にはあまり好意を持たなかったようだ。裏では彼らを“不潔な連中”と呼び、「薄汚いストーンズが我々の番組に出演することは二度とないだろう」とはっきり述べたという。
アメリカでは、1960年代を通してアルバムの売れ行きも好調だった。また、彼らの存在は1967年に創刊された有名音楽雑誌“ローリング・ストーン”の名前にも影響を与えている。共同創刊者のヤン・ウェナーは同年11月号の編集後記にてこう綴っている。
「マディ・ウォーターズは、自らの楽曲にこの名前を付けた。ザ・ローリング・ストーンズは、バンド名をそのマディの楽曲から取った。そしてボブ・ディランは、自身初のロックンロール・ナンバーを“Like A Rolling Stone”と名付けた。我々はこの新たな雑誌に、我々が目にしてきたロックンロールの変化と、ロックンロールにまつわるあらゆるものの変化を反映させるのだ」
7. 最先端の映画への出演
1968年、ジャン=リュック・ゴダールはヨーロッパ映画界屈指の鬼才として名を馳せていた。パリで五月革命が起こった後、彼はフランスからロンドンへと移り、“革命と救済”についての映画を撮ろうとしていた。そこから生まれたのが映画『ワン・プラス・ワン』であり、当時『Beggars Banquet』の制作中だったストーンズはアナーキーの代名詞としてこれに出演した。
同年、ミック・ジャガーはニコラス・ローグとドナルド・キャメルが監督を務めた映画『パフォーマンス/青春の罠』にも出演。暴力やセックス、ドラッグの使用などが生々しく描かれた同作の公開は、1970年まで見送られることになった。
8. ダークな世界観が及ぼしたヘヴィ・メタルへの影響
以前からミック・ジャガーは、道教の手引書『黄金の花の秘密』をはじめとする神秘主義的な書物も読んでいた。ゴダールも特に興味を持ったという「Sympathy For The Devil(悪魔を憐れむ歌)」はその影響を感じさせる1曲だが、同曲は1968年12月にリリースされるやいなや大きな物議を醸した。
ミックとキースは、キリストの磔刑、ロシア革命、第二次世界大戦やケネディの暗殺など、歴史上の重要な瞬間に悪魔が関わっていたことを想像してこれを作曲。のちのヘヴィ・メタルにも影響を与える1曲になった。この曲が収録されたアルバム『Beggars Banquet』についてミックはこう語っている。
「何しろこの1曲だけだから、本当に奇妙な感じがした。アルバム全体がこんな感じで、裏面にオカルト的な記号がたくさん書かれているならまだしも、そういうわけじゃない。だが人々はすんなり受け入れてくれて、そのイメージはヘヴィ・メタルのバンドたちに受け継がれているんだ」
9. サウンドの革新者
『Beggars Banquet』に収録されている「Street Fighting Man」は、ストーンズのミュージシャンとしての独創性が花開いた1曲だ。キースはギター・パートをモノラルのカセット・レコーダーで録音し、それをオーバーダビングすることでローファイなサウンドを作り出した。
チャーリー・ワッツはLudwig社の1965年製ドラムセット“スカイブルー・パール”ではなく、アンティーク・ショップで購入した30年代のおもちゃのドラムセット“ロンドン・ジャズ・キット・セット”を使用。プロデューサーのジミー・ミラーは、そこにエキゾチックな楽器の音色を重ねていった。例えば、ジョーンズが弾くシタールやタンブーラ、トラフィックのデイヴ・メイスンによるシェーナイなどだ。「あの楽曲は群を抜いて冒険的なんだ」とキースも認めている。
10. 一流のパフォーマー
ザ・ローリング・ストーンズは1960年代に数多くのスタジオ・アルバムを制作し、わずか5年の間にアメリカとUKで計15作品もリリースしている。だがそれと同時に、この10年は彼らが音楽史上最高峰のライヴ・バンドに変貌を遂げた期間でもあった。1962年にマーキー・クラブのステージに立ったとき、キース・リチャーズは日記にこう記していた。
「労働者が発電所でサボタージュをしていて音量が足りず、ブライアンと俺はちょっとやる気を失った」
だがそれから10年も経たないうちに、ストーンズはライヴ・ツアーの手法に革命を起こした。最新のアンプ技術とスピーカー技術を駆使することで、大きな会場にふさわしいショーを作り出すことに成功したのだ。
1962年当時、ミック・ジャガーは新聞のインタビューで“ロックンロール・バンド”として見られたくないと述べていたが、彼らは1969年の有名なハイド・パークでのライヴで、“世界最高のロックンロール・バンド”と紹介されるまでになった。
1966年には、敬愛するスリム・ハーポの楽曲をもじったタイトルのライヴ盤『Got LIVE If You Want It!』をリリース。だが彼ら自身は、1969年11月に録音された『Get Yer Ya-Ya’s Out!』の方が、1960年代の彼らのライヴ・パフォーマーとしての実力が表れていると考えているようだ。
11. 悲劇を乗り越え、さらに力強く
1960年代はザ・ローリング・ストーンズにとって大成功の時代だったが、同時に悲劇も経験していた。1969年7月には、ブライアン・ジョーンズが自宅のプールで溺死。27歳という若さだった。
その4ヶ月後の12月6日には、ストーンズが出演したオルタモント・フリー・コンサートの会場で観客が死亡する痛ましい事件が発生。当日の警備を務めていたといわれるギャング集団、ヘルズ・エンジェルスの一員に殺害されたのだという。
その前日に彼らがレコーディングを終えていた『Let It Bleed』は、1969年12月20日に全英アルバム・チャートで首位を獲得。同作は時を経て、ストーンズのキャリアを代表する傑作といわれるようになった。中でもロバート・ジョンソンの楽曲をカヴァーした「Love In Vain(むなしき愛)」は、彼らの長きに亘るブルースへの愛がはっきりと表れたトラックだ。そしてその愛は、ストーンズが音楽を作り続ける限り失われることはないのである。
Written By Martin Chilton
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