14週連続全米1位だった多忙なザ・ビートルズと、彼らを首位から蹴落としたルイ・アームストロングの「Hello Dolly!」
当初アメリカのキャピトル・レーベルは、ザ・ビートルズとの契約に興味を示していなかった。キャピトルの代わりにこのバンドと契約を結んだのは、ヴィージェイという小さなインディ・レーベルだった。やがてキャピトルもザ・ビートルズに将来性があるということに気づき、1963年のクリスマスの翌日、シングル「I Want To Hold Your Hand(邦題:抱きしめたい)」を発売する。3週間後、この曲はBillboard誌のチャートに入り、1964年2月1日には首位に到達。7週間に渡ってそこに留まった。この「I Want To Hold Your Hand」から首位の座を奪ったのは、ヴィージェイの子レーベル、スワンから出た同じくザ・ビートルズシングル「She Loves You」で、こちらは2週間に渡って1位を保っている。当時の弱小インディ・レーベルというと短命に終わるものが多かったが、ヴィージェイは「She Loves You」がヒットしたおかげで競合他社よりも長続きしたと言われている(これは余談)。
やや出遅れたキャピトルは、その遅れを取り戻すため、1964年1月20日に慌ててザ・ビートルズの米国盤アルバムを出すことにした。その『Meet the Beatles!』は、ジャケットで「ザ・ビートルズ初の米国盤アルバム」とうたわれていた。確かに、キャピトルから出た最初のビートルズのアルバムだったことは事実である。これは1964年2月15日にBillboard誌のアルバム・チャートの1位に到達。それから11週間もその位置に留まったあと、『The Beatles’ Second Album』に首位の座を明け渡している。全米アルバム・チャートの首位を同一アーティストが続けざまに獲得するのは、前代未聞のことだった。
しかし『Meet the Beatles!』は初の米国盤アルバムではない。なぜなら、これが発売される10日前、ヴィージェイが『Introducing… The Beatles』を発表していたからである。カルヴィン・カーター(ヴィージェイのオーナーだったヴィヴィアンの弟)はこう語っている。「ヴィージェイがあのアルバムを出すと、EMIがキャピトルを通して販売停止を求める法的措置を執ってきた。毎週のように販売停止命令が来たよ。月曜日にその命令が来たら、こちらも裁判所に訴え出て、金曜日には命令が取り消される。だから週末にレコードをプレスして月曜日に出荷してしまう。週末になるたびに、休みなしでプレスを続けていた」。
『Introducing… The Beatles』はアルバム・チャートで2位に達し、そこに9週間留まった。ヴィージェイはアルバムを出すだけに飽き足らず、まだ販売権を有していたシングルも再発することにした。1964年1月30日、ヴィージェイからシングル「Please Please Me」/「From Me To You」(VJ581)が発売される。このシングルのプロモ盤には特製のピクチャー・スリーヴが付いており、「ザ・ビートルズ旋風に火を付けたレコード」との売り文句が書かれていた。またこのスリーヴでは、「エド・サリヴァン・ショー」にザ・ビートルズが出演することも宣伝されていた。
1964年1月、ザ・ビートルズはフランス・パリのオランピア劇場に3週間出演している。それからロンドンに戻り、次の旅支度に1日だけ費やしたあと、2月7日にアメリカに向けて出発。ロンドンのヒースロー空港からパンアメリカン航空のボーイング707で飛び立ち、ニューヨークのJFK空港に到着すると今度は記者会見に臨んだ。アメリカのメディアは、このリヴァプール出身の若者4人組をどう扱うべきかまだ迷っていた。そのためこの時点では、皮肉から騒々しい疑いの声に至るまで、ありとあらゆる声が記者から浴びせかけられていた。
その翌日、寒々しい雪模様のセントラル・パークで記者会見を行ったあと、ザ・ビートルズの面々は「エド・サリヴァン・ショー」のリハーサルに参加したが、体調不良のジョージは欠席していた。幸い彼は翌日には回復し、午後8時には4人揃って7,300万人の視聴者の前に姿を現した(そのちょうど1年前の段階では、ザ・ビートルズはまだイングランド北部の町サンダーランドの映画館で数千人の観客を前に演奏していた。しかもそれは、ヘレン・シャピロの前座というごく地味な仕事だった)。
この日は「エド・サリヴァン・ショー」の生出演だけでなく、別の回の出演シーンの収録も行っていた。その翌日、ザ・ビートルズは記者会見を行い、その場でキャピトルの会長アラン・リヴィングストン(ザ・ビートルズとの契約を決定した人物)から2枚のゴールドディスクを贈呈された。うち1枚は販売枚数が100万枚に及んだシングル「I Want To Hold Your Hand」、もう1枚は売り上げが100万ドルに達したアルバム『Meet the Beatles!』だった。翌日、ザ・ビートルズはアメリカでの初コンサートを行うため、首都ワシントンD.C.に向かう。ただしこの日は米東海岸が大雪に見舞われ、すべての航空便が運航中止になったため、鉄路での移動になった。会場のワシントン・コロシアムは、ステージがぐるりと観客席に囲まれるかたちになっていた。このためリンゴがどの観客席からも見えるように、曲間の休憩になるたびにドラム・キットの向きが変えられることになった。この日の夜、ザ・ビートルズの面々はイギリス大使館でカクテル・パーティに出席。翌日にはニューヨーク・シティに戻り、カーネギー・ホールで全席完売の客席を前にライヴを行っている。その後はマイアミに空路移動し、またもや「エド・サリヴァン・ショー」の収録に参加。そのときの演奏は、2月16日にアメリカ全土で放送された。
その5日後、スワン・レーベルから出たシングル「She Loves You」が全米チャート1位の座をうかがっているころ、ザ・ビートルズは帰国の途に就き、翌朝ロンドンに到着した。 4人は疲れ果てていたが、有頂天になっていた。スケジュールは多忙を極めていたが、このバンドが活動のスピードを緩める気配はまったくなかった。帰国した翌日にはテレビ番組の収録を行っている。2月25日、ジョージが21歳の誕生日を祝ったその日に、ザ・ビートルズはアビイ・ロードで「Can’t Buy Me Love」を録音している。まさに働き詰めの一日だった。
全米チャートの首位を2週間守った「She Loves You」と入れ替わりに1位に達したのは、その「Can’t Buy Me Love」だった。こちらは5週間に渡って1位の座に留まっている。しかし全米シングル・チャートの首位を独占し続けたザ・ビートルズの大記録は、5月9日についに途切れた。ザ・ビートルズの代わりに首位に立ったのは、誰あろうサッチモ、ことルイ・アームストロングだった。サッチモの「Hello Dolly!」は1週間だけ1位を獲得している。それからずっと、彼は「ザ・ビートルズを首位から蹴落とした男」というキャッチフレーズを好んで使っていた。