“ブルースの女帝” ベッシー・スミスの人生と悲劇的な死、そして長年に亘って流布している噂
1894年4月15日に生まれ、1937年9月26日に43歳でこの世を去ったベッシー・スミス(Bessie Smith)。 彼女に纏わる伝説はその華やかで魅力的なキャリアを彩り、より印象的なものにしてきた。
いろいろな場所をあてもなく旅してきた
ほんの少しの幸せを求めて
でも そこにあったのは不安と悲しみばかり
争いばかりのこの世界に苦しむばかり
ああ どんな終わりが待っているのかしら
ああ 悲しみの中で 私はどんな結末を迎えるのかしら
(「Worried Life Blues」より)
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1923年のバレンタインデーの翌日、28歳だったベッシー・スミスは彼女のデビュー作となるはずのレコーディング・セッションで「Taint Nobody’s Business If I Do」と「Down Hearted Blues」を録音。しかし満足のいかないセッションだったために、翌日またスタジオに戻り、この時に「Down Hearted Blues」と「Gulf Coast Blues」の2曲を録っている。
もしもあなたがこのセッションに参加していたとしたら、とにかくまずはベッツィー・スミスの自信に満ちた歌い回しと、何年にも亘る巡業をマイクなしで歌い続けた経験が育てた説得力ある声に圧倒されたことだろう。そして、約182cmという身長と90kg近くある体重という彼女の大きさに驚いたはずだ。そして彼女はあらゆる意味で驚くべき女性だった。1923年6月の頃にはベッシー・スミスは更に大きなスターになっていた。ヒット・チャートというものが存在する以前の時代ではあったが、「Down Hearted Blues」がアメリカでナンバー・ワンの曲になったのだ。
1923年12月の時点で、彼女が最初のセッションで試みたクラレンス・ウィリアムズの「Taint Nobody’s Business If I Do」のリメイクを含む5枚のヒット・レコードをベッシーはものにしていた。やがてベッシーは”ブルースの女帝”と呼ばれるようになり、同じ年にジャック・ジーという夜間警備員と結婚した。因みに二人は1929年に離縁している。
ベッシーは1923年から1933年までの間にコロンビア・レコードで150曲をも超える楽曲を録音し、当時最も多作なレコーディング・アーティストの一人になった。彼女の初期作品の多くは、彼女のパワフルな声とピアノの伴奏のみというスタイルだったが、その後は少人数編成グループを起用するようになり、ピアニストのフレッチャー・ヘンダーソンやジェームズ・P・ジョンソン、サックス奏者のコールマン・ホーキンス、そしてルイ・アームストロングなど、錚々たるミュージシャン達と共演した。
1929年、ベッシーは彼女の”パーソナルな墓碑銘”と呼ばれることもある作品「Nobody Knows You When You’re Down & Out」をレコーディングした。彼女の唯一の映画出演作品である『セントルイス・ブルース』の撮影も同じ1929年のことだった。
その2年後にコロンビアは彼女を解雇したが、それは事実上レコーディング・アーティストとしてのベッシーの終わりを意味した。彼女は1933年11月にジャズライターでありプロデューサーでもあるジョン・ハモンドの手配によってOkeh Recordsで4曲をレコーディングしているが、それが彼女にとって最後のレコーディングになった。
1934年の彼女は各地を巡業して回り、1935年にはニューヨークのアポロ・シアターで歌って高い評価を受けている。そしてベッシーは再び自身の音楽的なルーツである南部音楽へ回帰した。より洗練された音楽を求める大衆にとって彼女の歌唱スタイルは時代遅れなものになっていたが、ステージで歌うライヴの彼女は相変わらず好評を博していた。
ベッシーが最後にニューヨークで歌ったのは、1936年2月の寒い日曜日の午後、52番通りにあるナイトクラブFamous Door。ミルドレッド・ベイリーがベッシーのパフォーマンスの後で自分が歌うのを拒否したという話もよく耳にするエピソードだ。
その悲劇的な死
それから1年半後の1937年9月26日、ジョン・ハモンドがベッシーをニューヨークに連れて行ってレコーディングするためにミシシッピに出発する前日、ベッシーは恋人のリチャード・モーガン(ジャズマンのライオネル・ハンプトンの叔父)と一緒にミシシッピ州クラークスデールの北に位置するコアホマ郡のルート61を走っていた。そのときに車が事故に遭い、モーガンが運転していた車が道を外れたのだ。
月明かりに照らされた電柱に沿って走っていたのだが、不幸にも、電柱がそのまま直線に並んでいるのに対して道路が大きく右に曲がっていることに気がつかなかったのだと言われている。彼らの車は道を外れ、ヤズー川の氾濫原によってできた急勾配の土手を落ちていった。車の落下の衝撃で肋骨を折ったベッシーは道路脇に寝かされて介抱を受けていたが、そこへ通過するトラックが彼女の右腕を轢いてしまい、右腕は切断寸前になったという。
この事故に関して長年に亘って流布している噂で、もし事故現場から14キロの地点にあるクラークスデイルの病院が彼女の治療を拒否していなければ彼女の生命は救われた、というものがある。この誤った噂について責められるべきはジョン・ハモンドだ。彼女はその肌の色のせいで病院側に受け入れを拒否された後に死亡したのだ、という記事を彼自身がDownBeat誌に書いたのだ。ハモンドは後に自分の記事は当時の噂に基づいて書いたものだと認めている。事実は、クラークスデイルにある黒人限定のGTトーマス病院で、ベッシーは白人の医師ヒュー・スミスによって手当てを受けていた。
1943年、Z.ラトリフという女性が、サンフラワー・アベニューにあるこのかつての病院をThe Riversideというホテルに改装した。ロバート・ナイトホーク、デューク・エリントン、ソニー・ボーイ・ウィリアムソン、アイク・ターナーなど、ブルース・コネクションを持つ人々が大勢訪れている場所だ。最近では1990年代にジョン・ケネディ・ジュニア、そしてザ・バンドのレヴォン・ヘルムも滞在している。ベッシーが内臓の損傷によって亡くなった部屋は、彼女を偲ぶ祭壇のように常に大切に保存されている。
ベッシー・スミスは単なるブルース・シンガーという以上の存在だった。彼女は彼女と同じ人種を代表するアイコンだった。アルコール、ケンカ、異性あるいは同性とのセックス……彼女の人生はいつも危ういものだった。ベッシー・スミスは彼女自身の人生を歌ったのだ。
Written By Richard Havers
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