37歳で亡くなったシンガー、ボビー・ダーリンを偲んで

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ボビー・ダーリンの人生は、素晴らしい才能と業績によって彩られていた。しかし同時に彼は、プライベートでの問題と健康状態の悪化に苦しんでもいた。1973年12月20日、心臓手術を受けたあと、彼は37歳という若さで亡くなった。

上に挙げたキャッシュボックス誌の訃報を伝える当時の記事の写真によれば、ダーリンが大きな手術を受けるのそのときが二度目だった。どちらの手術も、心臓の不調を直すためのものだった。このときの手術では、心臓弁の異常を直すため、4人の外科医が6時間の大手術を行った。しかし病院のスポークスマンはこう述べている「彼はあまりに衰弱していたので、回復には至りませんでした」。

ボビー・ダーリンは、亡くなった時点で既にグラミー賞を二度受賞していた。残したレコードのうちゴールド・ディスクの認定を受けたものも4作あり、1963年の出演映画『ニューマンという男 』では、俳優としてアカデミー賞にもノミネートされていた。ダーリンは41曲もの曲と15枚のアルバムをアメリカのヒット・チャートに送り込んでいる。その中には、彼の最後の契約レーベルとなったモータウンがダーリンの没後にリリースしたコンピレーション・アルバムも含まれている。

ボビー・ダーリンというと、思い出されるのはまず間違いなくポップス系のヒット曲かもしれない。たとえば本人は、12分で書き上げた曲だと語っていた「Splish Splash」や「Things」などがその良い例だ。さらに彼は、素敵なジャズ風のイージー・リスニング作品もたくさん残している。「Mack The Knife」や「Beyond The Sea」はその一例である。

 

しかし彼はそうしたイメージの束縛から逃れようと努力し、フォーク/カントリー風のシンガー・ソングライター、プロテスト・シンガーに変身しようとした。キャリア後期の作品の中には、過小評価されているシングルやアルバムがたくさんある。たとえばラヴィン・スプーンフルの「Darling Be Home Soon」やティム・ハーディンの「The Lady Came From Baltimore」のカヴァー・ヴァージョンをレコーディングしたのもこの時期のことだ。ダーリンがアメリカのチャートのトップ10に最後にその作品を送り込んだのは1966年のことだったが、その曲もやはりティム・ハーディンのレパートリーをカヴァーした「If I Were A Carpenter」だった。

ダーリンが急逝する数カ月前、彼が司会を務めるテレビ番組が放送されていた。また1973年初頭、彼はビルボード・ホット100にも「Happy」で返り咲いていた。この曲は、ビリー・ホリデイの伝記映画『ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実』(主演はダイアナ・ロス)の挿入歌だった。

 

ダーリンのマネージャーで親友だったスティーヴ・ブラウナーは、1995年にゴールドマイン誌でこう語っている。「彼が歌っていたさまざまな曲をすべて歌いこなせる人というのは、もう存在しない。確かにビッグ・バンドの曲ならフランク・シナトラのほうがうまかったかもしれないが……けれどもシナトラはカントリー&ウェスタンなんてものは歌わなかったよね。それにプロテスト・ソングも歌わなかったし、フォーク・ソングとも縁がなかった。ボビーはそういったジャンルの楽曲も歌うことができたんだ。私の言いたいことはわかってもらえるかな」。

Written By Paul Sexton



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