ビートルズのシングル・ディスコグラフィー:世界を変えた22枚(+2枚)の全曲解説
ザ・ビートルズは、音楽の世界で”アルバムの時代”を切り開いたバンドだったかもしれない。しかしながら、彼らの残したシングルも、アルバムと同じようにポップ・ミュージックに多大なる影響を与えてきた。
ビートルズのキャリアを振り返ったとき、1963年から1969年までのあいだに彼らが作り上げた画期的なアルバムの数々に注目し、あのバンドが進化していく過程を辿ることになる。それはごく自然な態度だ。しかし、それだけでは重要な点を見落とすことになる。
ビートルズは、音楽界の主要なメディアがシングルからアルバムへと移り変わる流れを切り開いたバンドかもしれない。しかしキャリアをスタートさせた時点では、彼らはまず第一に、実にすばらしい驚異的なシングルを制作したバンドだった。そしてそうしたシングルの多くは、アルバムには収録されていなかった。1960年代中期のポップス界では、まだまだシングル・マーケットが中心。そんな中、ビートルズのシングルは、アルバムのディスコグラフィーと並行してまた別のディスコグラフィーを形作っていた。彼らのシングル・ディスコグラフィーを通してその活動を振り返れば、彼らのアーティスティックな変化の道筋をまた別の角度からたどることができるだろう。
1962年:「Love Me Do」
実のところビートルズは、パーロフォン・レーベルと契約を交わす前にシングルを1枚、レコーディングしていた。イギリスの歌手、トニー・シェリダンがリード・シンガーを務めた「My Bonnie Lies Over The Ocean」のロック・ヴァージョンがそのシングルで、彼らは同作でバックを務めていたのである。ここでは、ジョン、ポール、ジョージ、そしてリンゴ・スターの前任者であったピート・ベストが”ビート・ブラザーズ”の名義で演奏を担当していた。このシングルは、西ドイツのポリドール・レーベルから発売。このレコードをとある客がリバプールのレコード店で注文したことがきっかけとなり、その店のオーナーだったブライアン・エプスタインがビートルズに目を付け、やがてはマネージャーに就任することになった。
ブライアンは、EMI傘下のレーベルのひとつでジョージ・マーティンのパーロフォン・レーベルとの契約を取り付けた。そしてプロデューサーとなったマーティンは、デビュー・シングルの曲選びに取りかかった。「私が“Love Me Do”をデビュー曲に選んだ主な理由は、あのハーモニカのサウンドにあった」とマーティンは後に語っている。こうしてビートルズのデビュー・シングル「Love Me Do」が1962年10月5日にイギリスで発売され、シングル・チャートにランク入りした。数週間にわたって浮き沈みを繰り返した後、このシングルは1962年の最後の週に最高17位を記録。こうしてビートルズは本格的なスタートを切った。
1963年:「Please Please Me」「From Me To You」「She Loves You」「I Want To Hold Your Hand」
次のシングルとして、マーティンは安全策をとることに決め、ヒットになりそうな曲をレコーディングさせることにした。それは、ミッチ・マリーというソングライターが作った「How Do You Do It?」という曲だった。しかしひとつ問題がもちあがった。当のビートルズがこの曲を気に入らなかったのである。
とはいえ当時のビートルズは好青年のグループであり、彼らは一応曲を持ち帰って練習をした。そして再びEMIスタジオに入り、試しに演奏してみた。とはいえビートルズがまだこの曲に抵抗を感じていたため、マーティンは代わりの曲が何かあるかどうか尋ねた。ここでビートルズが披露したのが「Please Please Me」だった。これは1962年の夏に、ジョンがリバプールに暮らす叔母ミミの家で作った曲だ。当初この曲はロイ・オービソンの「Only The Lonely」と同じようなスタイルのスローなナンバーだったが、マーティンのアドバイスによりテンポはもっと速くなった。「ビートルズは“Please Please Me”を演奏して聴かせてくれたが、テンポがすごく遅くて、あまりパッとしなかった」とマーティンは振り返る。「それでこう伝えたんだ。テンポを倍にすれば、もっと面白くなるかもしれないとね」。
このシングルは1962年11月26日にレコーディングされた。レコーディング・セッションが終わろうとするころ、マーティンはビートルズの面々にこう告げた。「きみたちの最初のナンバーワン・ヒットが完成したよ」。1963年1月11日に発売された「Please Please Me」は、”New Musical Express”、”Melody Maker”両誌のシングル・チャートで首位を獲得したが、”Record Retailer”のチャートでは最高2位に止まった。のちにイギリスの公式チャートになったのはこちらのチャートだった。
「Please Please Me」を皮切りに、1963年のビートルズは合計4枚の驚異的なシングルを発表した。「Please Please Me」に続く3枚のシングルは、いずれもイギリスのシングル・チャートの1位に到達している。そのうち最初の1枚「From Me To You」は、ヘレン・シャピロらと行ったイギリス・ツアーの最中にジョンとポールが作った曲だった。この時期になると、ビートルズはひっきりなしにツアーに出ていた。イギリス各地を小さなバンでまわり、1日に何本もライヴをこなすことが多々あった。さらにはテレビやラジオへの出演もこなしていた。こうした旅暮らしの中、ジョンとポールは移動中に曲を作ることしかできなかった。
ポール・マッカートニーによれば、パーロフォンでの4枚目のシングルは、ニューカッスルのホテルの部屋で作った曲だった。「ライヴの開演までに何時間か余裕があったんだ。それで『そいつぁいいや! タバコでも吸って曲を作ろう』ってことになった」。
そうしてできあがった楽曲「She Loves You」は記録破りの大ヒット曲となり、1960年代のイギリスで最も売れたシングルとなった。そしてキャッチーな「Yeah! Yeah! Yeah!」というコーラスは、世界の誰もが知るリフレインとなった。わずか数ヶ月のうちに、ビートルズは地方の駆け出しバンドから国宝級の大物に変身したのだ。ただしこの曲をすべての人が気に入ったわけではなかった。ジョンとポールはリバプールのポールの実家でこの曲を完成させ、誇らしげにポールの父親に聞かせた。ポールはこう回想している。
「父はこう言ったんだ。“とてもいい曲だな。でもアメリカ風の歌はもうたくさんだ。”She loves you. Yes! Yes! Yes!”と歌えないものかね?」
このころになると、ジョージ・マーティンはEMIのアメリカ側のレーベル、キャピトルの反応に苛立ちを募らせていた。キャピトルは、ビートルズのシングルをアメリカでリリースすることを頑固なまでに拒んでいたのだ。しかし次のシングルは、そんなキャピトルにとっても抵抗できないほどの魅力的な作品だった。もはや「I Want To Hold Your Hand」がまたもや首位を獲得するのは疑いようのないことのようだった。これはこの年ビートルズがリリースした4枚目のナンバーワン・シングルだった(一部のチャートでは3枚目だったが)。しかしこれは単なるヒット曲ではなかった。この「I Want To Hold Your Hand」で、ビートルズがついにアメリカでも大成功を収め、やがては世界を制覇することになったのだ。
1964年:「Can’t Buy Me Love」「A Hard Day’s Night」「I Feel Fine」
1964年のビートルズは、幸先良いスタートを切った。ほんの1年前はレノン & マッカートニーの作品をシングルA面に採用してもらうために苦労していたが、この1964年になると注文に応じてヒット・レコードを書き下ろしているような風情となり、初めてのアメリカ訪問は旋風を巻き起こし、ショービジネスの歴史の中でも最高の大成功となった。
そうしてイギリスに戻ったビートルズは、ユナイテッド・アーティスツ制作の初主演映画の撮影に取り掛かった。この映画のサウンドトラックから最初にリリースされたレコードがシングル「Can’t Buy Me Love」だった。これはパリのオランピア劇場でボールが作った曲で、レコーディングはやはりパリのパテ・マルコーニ・スタジオで行われた。ちなみにロンドン以外の場所でレコーディングされたビートルズのシングルはこれしかない。
この映画にはたくさんの仮タイトルが付けられていたが、最終的には『A Hard Day’s Night』に落ち着いた。これはジョンが作った曲の題名で、フレーズそのものはリンゴが口にした言葉が元になっていた。
「撮影現場から車で帰る途中、監督のディック・レスターがリンゴの言葉を題名にしたらいいんじゃないかと提案したんだ」と後にジョンは語っている。「あのフレーズは僕も執筆中の本の中で使っていたんだけど、もともとはリンゴが何気なく口にした言葉だった。よくある言い間違い、いかにもリンゴらしい言い間違いでね。彼は別にふざけて言ったわけじゃなく、ふとあの言葉を口にしたわけ。それでディック・レスターが『あれを映画のタイトルにしよう』と言い出した。あくる日の朝には、僕は曲を作ってきた」。
「A Hard Day’s Night」は、「Can’t Buy Me Love」に続くシングルのA面に選ばれた。言うまでもなく、この映画から生まれたシングルはどれもチャートの首位に立っている。
しかしながら、アルバムの収録曲をシングルとして発売するのはビートルズの意向に反したことだった。このバンドのメンバーは、そうしたやり方をファンに対する裏切り行為だと考えていたのである。当時作られたビートルズの主演映画では、こうした形でシングルとアルバムをリリースすることが契約で定められていた。それを除けば、ビートルズはアルバム未収録曲をシングルとして出すほうを好んでいた。1964年最後のシングルも、やはりアルバム未収録曲だった。
後のビートルズは革新的なサウンド作りがトレードマークとなっていったが、「I Feel Fine」はその先駆けとなったシングルである。このシングルは爆発的なフィードバックで幕を開ける。これは、ポップスのシングルで初めて意図的に使われたフィードバックだと考えられている。後にジョージ・ハリスンは次のように説明していた。
「ジョンがうっかりフィードバック・ノイズを出したんだけど、彼はそのサウンドを気に入って、あの曲のイントロにちょうどいいんじゃないかと思ったんだ。そこからあとのテイクでは、ジョンは必ずギターでフィードバックを出すようにしていた」
1965年:「Ticket To Ride」「Help!」「We Can Work It Out / Day Tripper」
前の年から引き続き、ビートルズはまず映画俳優として活動を始めた。2本目の主演映画『Help!』の撮影は、2月からバハマ諸島で始まった。映画の公開はこの年の夏になったが、サウンドトラック・アルバムからの最初のシングルは1965年4月に発売された。ここからビートルズのシングルは、新たな時代に入っていった。
「Ticket To Ride」は、実にさまざまな意味で、ほんの数ヶ月前にリリースした自らの作品からもアーティスティックな面で大きく飛躍した曲だった。ライターのイアン・マクドナルドは自らの著書『Revolution In The Head』の中で次のように書いている。「サウンドの強烈さという点で、“Ticket To Ride”は当時としては常識外れだった。鳴り響くエレキギター、重いリズム、地響きを立てるフロアタムは強力だった」。
ジョン・レノンは、この曲を「ヘヴィ・メタル・レコードの最初期の1枚」と表現している。
この2本目の主演映画『Help!』からは、サウンドトラック・アルバムと主題歌が生まれている。映画そのものはコミカルな内容で、ビートルズが世界中のエキゾチックな場所を駆け巡って騒動を巻き起こすというものだった。とはいえ主題歌の「Help!」には隠されたテーマがあった。ビートルズのメンバーは、途方もないプレッシャーの中で苦しんでいたのである。特に大きな重圧を感じていたのはジョン・レノンだった。
「あの当時は自分でも気づいていなかった。あの曲を作ったのは、映画のために曲を作る仕事が回ってきたから。でも後になって気づいたんだけど、実のところ僕は『助けて!』という叫び声をあげてたんだ。”Help!”というのは自分自身のことだった」
シングル「Help!」のB面はリトル・リチャード風の「I’m Down」 だった。ビートルズがシングルの曲で過去に目を向けるのは、これ以降はなくなった(ただし1969年には、意識的に過去を振り返るようなシングルをリリースすことになるが)。ここからのシングルは、どれもグループの進歩を象徴するような画期的な作品になった。その最初の例となったのは、両A面シングル「We Can Work It Out / Day Tripper」だった。
ポールが作曲した「We Can Work It Out」は、元々は「もっとアップテンポで、カントリー&ウエスタン調」の曲だった。しかしメンバー全員がアイデアを出し合った結果、この曲はさらに進化していった。ジョンは”Life is very short / 人生はとても短い”という中間部を思いついた。
ジョンはこう言っている「ポールが作ったのは”We can work it out /うまくいくよ”という楽観的なパート。僕が作ったのはイライラした感じの部分だ。つまり、”Life is very short and there’s no time for fussing… / 人生は短いし喧嘩なんかしてる暇はない”というところ」。一方ジョージは、ワルツ風の三連符のセクションを提案していた。
ジョンの「Day Tripper」では、ポールの猛烈なベースがすばらしいR&Bの曲を下から支えている。中間部では彼がシンプルでリズミカルな演奏を披露し、それが熱狂的なクライマックスへと盛り上がっていく。こうした仕上がりのおかげで、ビートルズがこの年3枚目のナンバーワン・ヒット・シングルを手にした。この1965年という年、彼らはアルバムを2枚発表し、カラー映画で主役を務め、全米ツアーを行った。このツアーでは、ニューヨークのシェア・スタジアムで記録破りのコンサートも行われている。そして女王エリザベス2世からは、MBE勲章を授与された。
1966年:「Paperback Writer」「Yellow Submarine / Eleanor Rigby」
1965年とは対照的に、1966年は表面的には穏やかな年に見えた。グループがリリースしたニューアルバムは『Revolver』1枚だけで、主演映画も作られなかった。シングルも2枚しかリリースされていないし、そのうち1枚はビートルズとしてはめずらしくアルバム収録曲からのシングル・カットだった。ただし、発表する作品の量は少なくなったとはいえ、その質の高さは想像をはるかに超えるレベルにまで高まっていた。
ビートルズは4月から6月にかけてEMI のスタジオで革新的なニュー・アルバムのレコーディングを行った。この年最初のシングルは、そのエネルギーと画期的な音作りの両面で驚異的な内容になっていた。A面の「Paperback Writer」は、サリー州にあったジョンの家に車を走らせるあいだにポールが作り始めていた曲だった。
「到着するまで長いドライヴだったから、そのあいだに色々アイデアをこねくりまわして曲作りをすることがよくあったんだよ。あの曲のアイデアは車の中で練り上げた。ジョンの家に着くと、コーンフレークを一皿平らげて、こう言ったんだ。“手紙を書くという設定の歌詞はどうかな? “Dear Sir or Madam”で始まって、そこから続いて行くという感じで”。そうして歌詞を全部書き上げたら、ジョンが『ああ、それはいいね』って言ってくれた。スラスラと出来上がったよ」
「Paperback Writer」では、ハーモニー・ヴォーカルが幾重にも重ねられ、ジョージが痛烈なエレキ・ギターを弾いていた。そのB面に収められたのはジョンが作った曲「Rain」で、これはテープの逆回転録音を使った初めてのビートルズの曲となった。ここでは、リンゴのドラムスとポールのベースが奏でるすばらしいリズム・セクションの演奏も堪能できる。
1966年6月10日に発表されたこのシングルは、猛暑に見舞われたイギリスの夏のサウンドトラックとなった。この年の夏は、ウェンブリースタジアムで行われたサッカー・ワールドカップの決勝でイングランドが優勝した。またスウィンギング・ロンドンの全盛期となり、カーナビー・ストリートやキングズ・ロードのおしゃれなブティックには、最新のファッションに身を固めた若者たちがあふれかえっていた。
とはいえビートルズにとって、この夏はそうした雰囲気とはまったく無縁のものになった。世界各地を回ったワールド・ツアーでさまざまな騒動に巻き込まれたのである。日本では東京の武道館でコンサートを行ったが、ここは伝統的な武道の大会が行われる由緒ある場所だったため、外国のバンドがライヴをやることに反対する抗議行動が起こった。さらにフィリピンでは、マルコス大統領夫妻にそっけない対応をした結果、暴徒に襲われ、命からがら国外に脱出することになった。またジョン・レノンが「ビートルズの人気は、イエス・キリストよりも高くなりつつある」と発言したことが神への冒涜だと受け取られ、アメリカ・ツアーでも抗議行動に見舞われた。
ビートルズは8月31日にイギリスに帰国したが、それからはもうツアーをやらないと決意した。そしてメンバー全員が数ヶ月間の休暇に入った。
クリスマス・シングルとニュー・アルバムへの需要はどんどん高まっていったが、新曲のレコーディングのめどは立っていなかった。このためブライアン・エプスタインとジョージ・マーティンはアルバム『Revolver』と同時にシングルを発表するという決断を下した。そのシングルは、『Revolver』に収められていた「Eleanor Rigby」と「Yellow Submarine」のカップリングだった(メンバー自身は、同じ曲をファンに2度売りつけることに気が進まないでいたが)。このクリスマスには、過去のシングル、B面の曲、アルバム収録曲を集めたコンピレーション・アルバム『A Collection Of Beatles Oldies (But Goldies!)』も発売された。さすがのビートルズも、ついにアイデアが尽きたのだろうか。
1967年:「Strawberry Fields Forever / Penny Lane」「All You Need Is Love」「Hello, Goodbye」
1966年12月、ビートルズのメンバーは再びEMIのスタジオに集結し、次のプロジェクトに取り掛かった。当初のアイデアは、自分たちの子供時代をテーマとしたコンセプト・アルバムを作るというものだった。そうして彼らは、手始めにいくつかの曲をレコーディングした。その中で最初に完成したのが「Strawberry Fields Forever」である。ジョンがこの曲を作り始めたのは、俳優として出演した映画『ジョン・レノンの僕の戦争』のスペイン・ロケが中断していた時期のことだった。曲名にあるストロベリー・フィールドとは、リバプールの郊外にあった救世軍の孤児院で、ジョンが子供時代に住んでいた叔母ミミの家の近くにあった。そこは子供時代のジョンの遊び場となり、ティーンエイジャーとなったジョンの隠れ家にもなった。
この曲はふたつのヴァージョンがレコーディングされた。そのうちのひとつはジョージ・マーティンがオーケストラ編曲を施したヴァージョン。そしてもう一方はフル・バンドによるよりヘビーでテンポの速いヴァージョンだった。ジョンはどちらを採用テイクにするのか決められず、マーティンにこう頼んだ。ふたつのヴァージョンを編集して繋げてもらえないだろうかと。このふたつのヴァージョンはそれぞれキーもテンポも違っていたが、幸運なことにうまく編集することができた。再生速度を調整してそれぞれのテンポを合わせてみると、キーがぴったり一致したのである。
一方ポールが作った曲は「Penny Lane」だった。曲名にあるペニー・レインとは、彼がリバプール中心部に行く時によく通っていた一地区のことだった。この曲を聴くと、郊外の青空、消防士、理髪店、バス停のそばにあるパイの店といった情景がありありと浮かんでくる。ポールはピアノを何度も重ねて朗らかな明るいポップ・ソングを作り上げ、さらに「テレビで聞いたものすごく高いトランペット」を加えたいと言い出した。そこでジョージ・マーティンは、テレビでそのトランペットを吹いていたデヴィッド・メイソンを呼び寄せ、ピッコロ・トランペットのパートを演奏させた。メイソンはイギリスきっての名トランペット奏者だったが、そんな彼でさえ、このパートは限界に挑戦するような難しさだった。
この時期になると、ビートルズのレコーディングは以前よりもずっと長い時間がかかるようになった。また、メンバーの方にもアルバムを慌てて完成させる考えはなかった。その一方で、ビートルズの新譜に対する需要は高まるばかりだった。そのためエプスタインとマーティンは、「Strawberry Fields Forever」と「Penny Lane」を両A面シングルとして1967年2月に発売するという決定を下した。現在では、これは歴史に残る傑作シングルのひとつとして数多くの評論家から評価されている。そんな今から考えると信じられないようなことだが、このシングルはチャートで1位に到達できなかった。ビートルズのシングルが首位獲得を逃すのは、「Love Me Do」以来のことだった。
ビートルズの1位到達を阻んだのは、エンゲルベルト・フンパーディンクの「Release Me」だった。とはいえビートルズはそれについて理性的な反応を示した。ポールは次のように語っている。「“Release Me”のようなレコードのおかげで首位獲得を阻まれてもどうってことない。僕らは同じことをしようとしていないからね。そもそもまったく違う世界の話なんだ」。
この時点まで来ると、ビートルズはアルバム『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』の完成に全力投球していた。それはあたかも、活動の重点をシングル・マーケットからアルバムへと移そうとしているかのようだった。それでもなお、『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』が完成するやいなや、彼らは再びスタジオ入りし、またもやヒット・シングルを作り始めた。
このころブライアン・エプスタインのもとには、世界初の国際衛星生中継番組『Our World』にイギリス代表としてビートルズに出演してもらいたい……という依頼が舞い込んでいた。この番組のためにジョンが書き下ろしたのが「All You Need Is Love」だった。ジョージ・ハリスンは後にこう振り返っている。
「当時はああいう雰囲気だったから、カナダで編み物をする人とかベネズエラでアイリスダンスをする人の合間にあの曲を演奏するのはすばらしいアイデアのように思えたんだ」
「All You Need Is Love」は、その後「サマー・オブ・ラヴ」と呼ばれるようになったこの年の夏を象徴する歌になった。このシングルのB面には「Baby, You’re A Rich Man」というすてきな曲が入っていた。この曲にも、「How does it feel to be one of the beautiful people? / ビューティフル・ピープルのひとりになるのはどんな気分?」といういかにも「フラワー・パワー」風のリフレインが入っていた。
しかしこの年のビートルズの活動はこれで終わりにならなかった。マネージャーのブライアン・エプスタインが8月に急死した後、彼らは最新プロジェクトである自主制作テレビ番組『Magical Mystery Tour』に取りかかった。現在では、『Magical Mystery Tour』のことをビートルズのアルバム・ディスコグラフィーの一部として考える人がほとんどだろう。しかし実のところ、これがアルバムとして出たのはアメリカだけだった。イギリスでは、豪華パッケージの2枚組EPとして発表されている。
しかしその前に、シングル「Hello, Goodbye」が発表されていた。このレコードもまたシングル・チャートで首位を獲得。そしてB面の「I Am The Walrus」は、歴史に残る優れたB面曲として広く記憶されることになった。このレノンが作り上げたルイス・キャロル風の曲には、ありとあらゆる種類のサイケデリックな効果音、ラジオの音の断片、テープの逆回転といったギミック、シュールな歌詞といったもので構成されていた。ジョンのアイデアは、尽きることがないように思われた。
1968年:「Lady Madonna」「Hey Jude」
1968年は、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴにとって大きな出来事がふたつ起こった。まず2月中旬から、4人はそれぞれの妻やガールフレンドや友人たちを伴ってインドのリシケーシュに渡り、マハリシ・マヘッシュ・ヨギの下で超越瞑想法を学ぶことにした。それから1ヶ月ほどのあいだにまずリンゴが帰国し、さらにはポールもインドから離れたが、ジョンとジョージはマハリシのアシュラムに4月中旬まで滞在した。
この1968年のもうひとつの大きな出来事は、『The Beatles (The White Album)』のレコーディングだった。その収録曲の多くはインドで作られたものだった。2枚組の大作となったこのアルバムは、5月からレコーディングが始まり、10月までかかってようやく完成した。
このため、1968年はインド滞在と新作アルバムのレコーディングに一年間の4分の3が費やされた。そんな多忙な時期の最中にビートルズはシングルをさらに2枚レコーディングし、どちらもナンバーワン・ヒットになっている。そのうち1枚は、メンバーのインド滞在中に発売されたが、これには世間からの関心をつなぎとめておくという狙いがあった。
A面に収録された「Lady Madonna」はポールがピアノで作った曲で、ファッツ・ドミノからインスパイアされた作品だった。それゆえ、はっきりとニューオーリンズ風の雰囲気が感じられる曲に仕上がっている。一方B面はインドからの影響が色濃く出た曲「The Inner Light」だった。ビートルズがイギリスでリリースしたシングルにジョージ・ハリスンの曲が採用されるのはこれが初めてのことだった。またバッキング・トラックにはビートルズのメンバーはひとりも参加していない。バックの演奏は、すべてインド人ミュージシャンによるものだ。
ビートルズの次のシングルは彼らにとって最大級の大ヒット・シングルのひとつとなり、長くにわたって親しまれる曲になった。これはまた、彼らが新たに設立したアップル・レーベルの第1弾シングルでもあった。その曲「Hey Jude」はポールが書いた曲で、今度はジョンと別居していた妻シンシアと息子ジュリアンを訪問した後に作られ、もともとは「Hey Jules」というタイトルだった。7分以上あるこの曲はシングルとしては異例の長さだったが、アメリカのヒット・チャートの1位に9週に亘って、ビートルズのシングルの中で最も長く首位の座を維持したレコードになった。
この曲の有名なエンディングの合唱が初めてライヴで歌われたのは、意外にも片田舎のパブでのことだった。その舞台となったのは、ベッドフォードシャー州のハロルドという村のパブ。ここが選ばれたのは、ポールと友人達がその名前を気に入ったからだった。広報担当のデレク・テイラーは次のように回想している。
「あのパブで、ポールはピアノの前に座って、合唱のパートを歌い始めたんです。彼はいつだってああいうことが上手でした。“これから新曲をやるよ”と言って、“Hey Jude”を演奏したんです。そうしてパブの客に、あの”Na, na, na, na, na, na, naa…”っていうパートの歌い方を教えた。そうしたら、そこにいた全員が合唱を始めたんです! あれが『Hey Jude』のお披露目でした。信じられないくらいすてきな夜でしたよ。店を出たのは、夜明け近くなってからでした」
「Hey Jude」のB面に入ったのは、ジョンが作った猛烈なロックンロールの曲「Revolution」。この曲は当時激しい変動の最中にあった社会の雰囲気を反映していた。この1968年という年には、パリ、シカゴ、ロンドンなどで暴動が起こり、アメリカその他の国でも公民権運動やベトナム反戦運動が激化していた。ジョンが作った「Revolution」は変化を呼びかける作品だったが、それでいて彼自身は社会運動への直接的な参加から一歩身を引いたような態度をとっていた。この曲のシングルヴァージョンでは、「破壊を活動するというのなら、俺を仲間から外してくれてもいいよ」と歌われている。ただし他のヴァージョンでは、彼は「仲間から外して、入れてくれてもいいさ」とどちらにでも取れるような歌い方をしている。
このシングルでは、A/B面両方の曲のプロモーション映像が撮影された。その映像は観客の前での演奏シーンになっていたが、ビートルズが観客の前で演奏を披露するのは2年ぶりのことだった。そこで観客とのやり取りを楽しんだことがきっかけとなり、彼らの次のプロジェクトが始まった。
1969年:「Get Back」「The Ballad Of John & Yoko」「Something」
1968年の大部分をスタジオで過ごしたビートルズは、その成果を『The White Album』として発表。これもまたチャートの首位を獲得したが、彼らの活動が一休みする気配はなかった。メンバーは早くも1969年1月2日に再集結し、新たなプロジェクトに取り掛かった。ここではビートルズが新曲をリハーサルする様子を映画として撮影し、最終的にはその新曲をライヴで披露し、アルバムとしてまとめるという予定になっていた。一般に”Get Back Sessions”の名前で知られるこのレコーディング・セッションは、トウィッケナム・フィルム・スタジオで始まり、やがて彼らの本拠地であるアップル・スタジオ(アップル本社ビルの地下に設置されたばかりのレコーディング・スタジオ)に移っていった。アップル本社ビルの屋上は、かの有名な”ルーフトップ・コンサート”の舞台にもなった。
このセッションは、その後ファンのあいだでビートルズの最悪の時期として語り草になった。とはいえ、ルーフトップ・コンサートの映像を見る限りでは、メンバーは一緒に演奏することを楽しんでいるように見える。そこで演奏されていたのは、後にアルバム『Let It Be』で発表されることになる曲だった。しかしこのコンサートの後、”Get Back Sessions”の音源は未完成のプロジェクトとしてお蔵入りとなってしまう。とはいえ、シングル「Get Back / Don’t Let Me Down」はこの年の4月に発表されている。
ルーフトップ・コンサートには、アメリカ人キーボード奏者のビリー・プレストンがゲスト参加していた。彼の存在感が非常に大きかったため、このシングルは”ザ・ビートルズ・ウィズ・ビリー・プレストン”という名義になっていた。ビートルズのシングルでゲスト・アーティストが一緒にクレジットされたのはこの時だけだった。
「Get Back」がまだチャートの首位に止まっているあいだに、ビートルズは次のシングルを発表した。それまでとは打って変わって、そのシングル「The Ballad Of John & Yoko」には4人のメンバーのうち2人しか参加していない。この曲では、ジョン&ヨーコの波乱続きだった結婚式と新婚旅行の思い出が語られている。ジョンは、この曲を出来る限り素早くレコーディングして発売しようと考えていた。ポールは次のように回想している。
「ジョンとヨーコが会いに来たんだ。ジョンは『俺とヨーコの曲ができた。すぐにでもレコーディングしたいんだ。これからスタジオを押さえるから、一緒にすぐにレコーディングしよう。そっちはベースも演奏できるし、ドラムスも演奏できるだろう?』っていうわけ」。この曲のレコーディングは、まさにそうした形で行われた。
ビートルズの活動は終わりに近づいていたが、それでも彼らの創作意欲は衰えていなかったようだ。アルバム1枚分、映画1本分の素材があるにも関わらず、彼らは1年間で3枚目となるアルバムのレコーディングをこの年の夏に始めた(ただしそのアルバム『Abbey Road』には、1969年2月にレコーディングされた音源も収録されている)。このアルバムが9月に発売された後、「Something / Come Together」がシングルとして10月に発表された。ビートルズが既に発表済みの曲だけでシングルを出したのはこの時だけだった。
1970年:「Let It Be」
ここまで来ると、ビートルズのエネルギーや熱意はしぼみつつあった。メンバーそれぞれが別々の方向に進み始める中、『Abbey Road』の最後のセッションが1969年8月に行われた。ビートルズの4人が一緒に活動するのはこれが最後となった。
1969年にはそれ以上のレコーディング・セッションは行われなかったが、1970年1月3日には、ポール、ジョージ、リンゴが再びスタジオ入りし、2日間に亘って『Get Back』プロジェクトの音源に手を加えた。ここでは次のシングルとなった曲、つまり「Let It Be」のオーヴァーダビングが行われている。この曲はボールが作ったゴスペル風のバラードで、1968年9月に「While My Guitar Gently Weeps」のレコーディングの休憩中に初めて披露されていた。
そして終わりが訪れる。1970年4月、ファースト・ソロアルバム『McCartney』のプレスリリースで、ポールはビートルズのメンバーとしての活動を休止すると発表した。それが「一時的」な休止なのか、それとも「半永久的な」休止なのかと尋ねられた彼は、「わからない」と答えた。いずれにせよ、これをきっかけに世界中のマスメディアは「ビートルズ解散」を報じた。その後、再結成の噂は絶えず持ち上がったが、1980年12月にジョン・レノンが射殺されるとそうした噂もピタリと止んだ。しかし……。
1990年代:「Free As A Bird」「Real Love」
グループの解散前から、マネージメントであり自身のレーベル、アップルのニール・アスピノールはビートルズの映像の権利を取得するという仕事に携わっていた。これは、メンバー自らがドキュメンタリー・スタイルでこのグループの歴史を振り返るという企画のためだった。しかしそれがようやく『Anthology』シリーズとして実現したのは、解散から四半世紀が過ぎた90年代なかばのこと。このころ、ジョンを除く3人の元ビートルズのメンバーは、再び集結した。それは単に、自分たちの過去を回想するだけのセッションではなかった。
ポールは、ジョンが残した未完成曲のホーム・デモ・カセットテープをオノ・ヨーコから受け取っていた。そしてその未完成曲を完成させるため、ジョージとリンゴと共にスタジオ入りした。こうして出来たのが、ビートルズの新曲2曲だった。これは実に25年ぶりの新曲発表になった。最初に出た「Free As A Bird」は1995年のクリスマス・シーズンに発売され、続いて「Real Love」も発表された。ビートルズはいつも完璧なタイミングで作品を発表していたが、この時も例外ではなかった。なぜなら、当時のイギリスの音楽シーンは”ブリットポップ”のブームにより、久々に盛り上がっていたからだ。このころ、「ブリットポップ」の担い手だったブラー、パルプ、そして大のビートルズ・マニアだったオアシスなどは1960年代のすばらしさをインタビューで折に触れて語っていた。1960年代、ビートルズと彼らが次々に放ったヒット・シングルのおかげで、イギリスは世界で一番のポップ・ミュージックの国になっていたのだ……。
By Paul McGuinness
★最新リマスター完全限定盤7インチ・ヴィニール・シングル・コレクション発売中!>>
★『Abbey Road』50周年記念エディション:フィジカル6形態とデジタルにて発売中!>>