ビートルズ『Let It Be』はどうやってできたのか:ゲット・バック・セッションと屋上ライヴ、そして最後の作品へ
1969年1月30日、ロンドンの高級住宅地サヴィル・ロウにあるアップル社のオフィスの屋上でザ・ビートルズ(The Beatles)が行ったゲリラ・ライヴを、彼らのフェアウェル・ライヴと考えてもおかしくはないだろう。演奏後に、バンドは静かに階段を降りて通りに出て、集まった人たちは仕事に戻り、ザ・ビートルズのメンバーはそれぞれの道を進んでいき、そうしてバンドの物語は終わり。ということを想像するのは難しくない。しかしそこで物語は終わらなった。
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その数週間後、ザ・ビートルズはスタジオに戻り、そのまま春の間もレコーディングを続け、その後、7月と8月のほごぼ全期間を『Let It Be』が発売される何か月も前るリリースされたアルバム『Abbey Road』の完成に費やした。
映画『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズを手掛けた名監督ピーター・ジャクソンが新たに手掛けているドキュメンタリー映画『The Beatles: Get Back』は、1969年1月に撮影された何時間ものフィルムから、今までとは異なるバンドの物語を提示することになるだろう。「現実は神話とは全く異なるものです」と監督は最近明らかにしている。
映画についてリンゴ・スターはこのようにコメントしている。
「バンドが解散する18ヶ月前、マイケル・リンゼイ=ホッグによって撮影した映像と音声をすべて見直してみましたが、驚くべき歴史の宝庫でした。確かにドラマチックな瞬間もあったけど、このプロジェクトで長い間言われてきた僕らの不仲なものはない。たくさんの喜びがありましたし、ピーターはそれを見せてくれると思います。今回のバージョンは、私たちが本当にそうだったように、もっと平和で愛に満ちたものになると思います」
そしてポール・マッカートニーもリンゴの意見に同意してこう付け加えている。
「明らかに僕らに一緒にいて楽しんでいました。お互いに尊敬し合い、一緒に音楽を作っているのが皆さんも見ることができます、それがひもとかれていくのがとても楽しみです」
では、なぜ『Let It Be』のアルバムが彼らの解散と結びつけられるようになったのだろうか?
ゲット・バック・セッション
1969年は、ザ・ビートルズの名を冠した2枚組のアルバム、通称『White Album』がチャート1位にランクインしたことで始まった。それだけでは十分ではなかいかのように、アニメーション映画『イエロー・サブマリン』のサウンドトラックが、1月17日に発売されている。
そんな中、彼らは元旦の翌日、次のプロジェクトの準備をしているところを撮影されるために、トゥイッケナムのスタジオに向かうために、夜明け前に起きていたのだ。
トゥイッケナムには少なくともアルバムを録音するのに十分な機材はなかったが、この企画は当初、テレビ特番用にリハーサルやパフォーマンスを撮影することだった。撮影したのは当時28歳の若くてダイナミックなマイケル・リンゼイ=ホッグだ。彼は、革命的なポップTV番組「Ready Steady Go!」を担当し、ザ・ビートルズの「Paperback Writer」「Rain」「Hey Jude」「Revolution」のプロモクリップを監督した経験があった。音楽プロデューサーのグリン・ジョンズもこの場におり、彼は、テレビ特番として収録される予定だったライヴ・コンサートの音響監修のために招かれていた。グリンはリンゼイ=ホッグと共にザ・ローリング・ストーンズの『The Rolling Stones Rock and Roll Circus』のTVスペシャルで仕事をしたことがあったためだ。
トゥイッケナムからアップルへ
ライヴ・パフォーマンスに適した曲が詰まったアルバム『The Beatles (White Album)』でチャート1位を獲得したにもかかわらず、ザ・ビートルズはすぐに新曲の制作に取り掛かった。1月2日、ジョン・レノンがジョージ・ハリスンとともにギターをチューニングする間に「Don’t Let Me Down」を演奏。二人がこの曲に慣れ始めた頃、リンゴ・スターが到着し、すぐにドラムで参加した。ジョージはジョンに「いい曲だね。シンプルな曲が好きなんだ」と「Don’t Let Me Down」が気に入ったと伝えている。この最初の朝のセッションにポールは遅刻してきたが、到着したと同時にポールも演奏に参加した。
こうしてセッションは続き、「Don’t Let Me Down」の他にも「Two Of Us」「I’ve Got A Feeling」「All Things Must Pass」「Maxwell’s Silver Hammer」などの演奏が行われた。彼らは新曲に集中しただけでなく、リバプールやハンブルグでの名声を得る前の時代にさかのぼって、多くのカバー曲をジャムしたりもしていた。
しかし、前年の『The Beatles (White Album)』のセッションの途中で、リンゴが一時バンドを脱退した時と同じ緊張が再燃した。1月10日の金曜日の昼食前に、ジョージが脱退を宣言して、スタジオを離れたしまった。
残った3人のメンバーは、トゥイッケナムから場所を移すまでの数日間、ジョージ抜きで活動を続けた。そして1月20日、ロンドン中心部のサヴィル・ロウにあるアップルのビルの地下に新しく設置されたスタジオにジョージを含めた全員が集結した。しかし、ザ・ビートルズの仲間だったギリシャの電子技術者マジック・アレックスが設定したセットアップに不備があることが判明し、翌日にアビーロードにあるEMIのスタジオからポータブル機器が運び込まれ、作業が再開された。
リンゴはこう振り返っている。「アップルの設備は素晴らしかった。とても快適で、自分たちの家のようでもあった。私たちが働いてないときでも、居心地を良くするために、暖炉の周りに座ってくつろぐこともできた。ただ、自分たちの演奏をプレイバックで聴くときだけは火はつかえませんでした、薪のはじける音がしたのでね」
ビリー・プレストンの加入
スタジオの雰囲気は、卓越したオルガニスト、ビリー・プレストンが加わったことでさらに向上することになる。ザ・ビートルズはハンブルグ時代から彼のことを知っていたが、彼がこのセッションに参加したことでグループ内の士気が高まったのだ。ビリーがロンドンでレイ・チャールズと演奏していた時、ジョージが彼に会ったことがきっかけでビリーを連れてきたと説明している。
「僕たちが地下室で’Get Back’をやっている時に彼がスタジオに到着したんだ。僕は受付に行って、こう言ったんだ『みんなで変なことをしているから、入ってきて一緒に演奏してくれないか』。彼は興奮してたね。他の人たちもビリーを大好きなのは知ってたけど、(彼が参加してくれたことで)まるで、新鮮な空気を吸っているようでしたよ」
1969年の1月の残りの時間はサヴィル・ロウの地下室でトゥイッケナムで出来た曲を磨きながら、新しい曲にも取り掛かった。「Get Back」はトゥイッケナムでもジャムセッションされていたが、1月23日、アップル社にきた頃にはより完全に形になっていた。他にもジョージの「For You Blue」、ポールの「Let It Be」と「The Long And Winding Road」、ジョンの「Dig A Pony」など完成間近の曲があった。
このセッションで演奏された多くの曲は、リンゴの「Octopus’s Garden」、ジョージの「Something」、ジョンの「I Want You (She’s So heavy)」、ポールの「Oh! Darling」などで、それらはアルバム『Abbey Road』に収録されたものや、他には各人のソロ・アルバムに収録されることになる曲も含まれている。
プロジェクトを締めくくるライヴ・パフォーマンスの場所の候補として、北アフリカの古代円形劇場から孤児院まで、いくつかの会場が検討されていたが、最終的にロンドンの賑やかなリージェント・ストリートの裏手にあるアップル社のビルの屋上で、ゲリラ・ライヴを行うことが土壇場で決定された。ポールはこう振り返る
「『あと2週間でどうやってこれを終わらせるか?』って映画の終わり方を探していた。そこで、屋上に上がってコンサートをして、それぞれが家に帰るってことになったんです」
1969年1月30日、ルーフトップ・コンサート
ビリー・プレストンがキーボードを担当したザ・ビートルズは、1969年1月30日、木曜日の昼休みの約45分間、屋上で演奏を行った。それは、警察が近隣の企業から騒音や群衆が増えたことで発生した交通渋滞の苦情を受けてバンドに演奏をやめるように要請するまでの間の時間だった。リンゴは警察が到着した時のことを覚えている。
「近所の誰かさんが警察を呼んだんだけど、警察が来た時、僕は少し離れたところで演奏してたんだけど、“うわ、すごい!”って思ったよ。できれば警官に引きずられたかったね。“ドラムから離れるんだ”って言われて羽交い絞めされるようなね。何もかも撮影されてたし、シンバルとか何かを蹴ったりしてたら、すごい良い画が撮れたはず。もちろん警察にはそんなことはされなかった。“音を小さくしてくれますか”って言われただけでしたね」
その翌日は歴史的な一日となる。バンドが「Let It Be」「The Long And Winding Road」「Two Of Us」を演奏したスタジオ・ライヴのシーンは、ザ・ビートルズの4人が一緒に撮影された最後の機会となったのだ。そして映画を制作のための1ヶ月間のセッションは終了した。しかし、それだけで物語は終わらない。アルバム『Let It Be』が日の目を見るのは1年以上も先のことだった。
発売されなかった『Get Back』と発売された『Let It Be』
ゲット・バック・セッションで録音された音源はグリン・ジョンズに手渡された。彼は何十時間にもわたって録音された音楽から、ザ・ビートルズを忠実に再現したアルバムを作ることを任されたのだ。1963年のデビュー・アルバム『Please Please Me』を模したカバーの写真撮影が行われたが、1969年の夏に『Get Back』というアルバムをリリースするという当初のアイデアは最終的に実現しなかった。
グリン・ジョンズは1970年1月初旬、ほぼ完成した映画に合わせて再びアルバム『Get Back』の新しいバージョンを編集した。映画の中で演奏された新曲を映画のサウンドトラックに入れたいというバンドの希望を反映してか、ジョージの「I Me Mine」の完全版が欠けていたため、ポール、ジョージ、リンゴは1970年1月3日にスタジオに戻り、2日間滞在して「Let It Be」にオーバーダブを加えて録音した。
しかしその努力も棚上げとなり、伝説的なアメリカのプロデューサー、フィル・スペクターがプロジェクトを完成させるために参加した。そして、出来上がっていた楽曲に合唱とオーケストラのオーバーダブを追加するというフィルの決定はポール・マッカートニーを怒らせた。
「彼はあらゆる種類のものを追加したんだ。自分だったらやらないような、“The Long And Winding Road”に女性コーラスをいれたりね。史上最悪のレコードになったとは思わないですが、僕らのレコードに僕らの知らないような音が入っていたという事実は間違っている」
ゲット・バック・セッションが終了してから1年以上経った1970年5月8日、ついに『Let It Be』がリリースされた。裏表紙には「新しいフェーズのザ・ビートルズのアルバム…」と書かれていたが、アルバムがプレスされている間には、バンドはもう存在しなかった。このアルバムは実際には彼らの最後の音楽作品にはならなかったかもしれないが、これはビートルズがそのままにしておいた(Let It Be)サウンドだったのである。
Written By Paul McGuinness
スペシャルエディション発売決定
2021年10月15日発売
5CD+1Blu-ray / 2CD / 1CD / 4LP+EP / 1LP / 1LPピクチャーディスク
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