マーヴィン・ゲイ最高のパートナー、タミー・テレルの転倒と脳腫瘍の発覚
1967年10月14日はソウル音楽史における悲劇的な事件が起きた日だ。マーヴィン・ゲイとタミー・テレルが、今でも名作として知られるアシュフォード&シンプソンが作曲した「Ain’t No Mountain High Enough」の成功を祝してアメリカ・ツアー中だった時にその事件は起こった。
7月に「Ain’t No Mountain High Enough」は全米シングル・チャートで2週間19位を記録し、R&Bチャートではさらにヒットしていた。マーヴィン・ゲイとタミー・テレルのモータウンのレーベル・メイト、スティーヴィー・ワンダーの「I Was Made To Love Her」などによりトップは獲得できなかったものの3位で3週間を過ごした。同じチャートではマーヴィン・ゲイの次のソロ・ヒット「Your Changing Love」もチャート入りを果たしていた。
マーヴィン・ゲイとタミー・テレルが一緒に行ったヴァージニア州のハンプデン・シドニー大学のパフォーマンスで、タミー・テレルが健康な状態から程遠かったことが判明した。ステージ上で急に意識を失い転倒。そのままマーヴィン・ゲイの腕にもたれかかり、近くの病院へ搬送されたのだ。最初は極度の疲労と診断された。タミー・テレルがさらなる検査を受けた結果、22歳の若き歌姫の脳の右側に悪性の腫瘍があると診断された。
タミーが病院にいる間も、マーヴィン・ゲイはツアーを続け、翌週にはマキシーン・ブラウンが代役をつとめ、あの有名なニューヨークのアポロ・シアターで演奏した。その年の終わりにはマーヴィン・ゲイとタミー・テレルがその年の3月にレコーディングを完成させていた「Your Precious Love」で再びチャート入りを果たす。そして、1968年初め、同時期に収録した「If I Could Build My Whole World Around You(邦題:君との愛に生きて)」でこの魅力的な2人はまたもメジャー・ヒットを生み出した。
タミー・テレルはなんとか復帰し、その後2人はまたパフォーマンスを行い、1968年にはモータウンでさらなるヒット作「Ain’t Nothing Like The Real Thing(邦題:恋はまぼろし)」と「You’re All I Need To Get By」をレコーディングした。タミー・テレルは終わりがないように感じられるほど数々の手術を受けたが、1970年3月、25歳になる6週間前に亡くなった。
マーヴィン・ゲイは彼女の死から完全に立ち直ることができず、レコーディングもライヴ・パフォーマンスからも退いた。彼女の死後発売され、彼のキャリアを決定づけた1971年のアルバム『What’s Going On』も内省的な作品になっている。ソウル・ミュージックにおいて最もインスピレーション溢れる彼女との思い出から離れることはなかったのだ。
Written by Paul Sexton
Marvin Gaye & Tammi Terrell – Ain’t No Mountain High Enough
この愛は生きている
心の奥底から湧きあがる
どんなに離れていても
もし助けが必要なら
いつでもすぐに行くから
できるだけ早く
どんなに高い山でも
どんなに険しい谷でも
どんなに大きな川でも
君のもとへ行くのに邪魔することはできないんだ
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