【特集】サマー・オブ・ラブとは何だったのか?:革命を巻き起こした1967年の夏とビートルズの傑作

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「1967年という年は、かなり素晴らしい黄金の年だったように思える。いつも晴れているように思えたし、僕たちはぶっ飛んだ服を着て、ぶっ飛んだサングラスをかけていた。”サマー・オブ・ラヴ”と呼ぶのはちょっと安直すぎたかもしれないけれど、あの年は黄金の夏だったんだ」

後年のポール・マッカートニーがこのように発言するまでの数十年間に、1967年の夏はほとんど神話のような魔法を帯びるようになった。あのサイケデリックな”サマー・オブ・ラブ”には、ロンドンのハイド・パークからサンフランシスコのヘイト・アシュベリーまで、ありとあらゆる場所で美しい人々が波長を合わせて、ドラッグをやって、ドロップアウトしていた。

こうした伝説は、あのころに青年期に達していた世界中の若者を蛍光塗料のようなケバケバしさで描き出す。あれは愛とLSDに煽り立てられた若者たちの目覚めであり、その背景で鳴り響いていたのはこれまでの歴史の中で作られた最高のアルバム『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』であり、あのアルバムは世代の移り変わりを告げる創造的なクラクションであったという具合に。

こうした言葉は決して間違いではないが、ごく一部を語っているに過ぎない。言うまでもなく、1967年は他のどの年とも似たようなものだった。雨が降り、人が生まれ、人が死に、さまざまなニュースでいっぱいになった新聞が売られては捨てられ、世界は回り続けていた。とはいえ、何かが確実に動いていた。時代は本当に変わっていたのだ。

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どちらの側を選ぶのか

この前年は、UKにとって良い年だった。ポップ・ミュージックのファンは、ザ・ビートルズの『Revolver』、ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』、ボブ・ディランの大作『Blonde On Blonde』といったアルバムを堪能することができた。

また、イングランドのサッカー・ファンも世界の頂点に立った。ジェフ・ハーストがウェンブリー・スタジアムでハットトリックを記録し、エリザベス2世がワールドカップの優勝トロフィーをホーム・チーム、つまりイングランド代表に贈呈していたのである。

ロンドンも、ツイッギー、ミニスカート、メリー・クアントのおかげでファッション界の中心地となっていた。何かが起こりつつあるような雰囲気がそこにはあった。ただし1967年1月1日、カレンダーが新しい年に切り替わっても、文化的な革命は遠い世界のことのように感じられていた。

トム・ジョーンズは、カントリー・バラード「Green, Green Grass Of Home (思い出のグリーングラス)」でイギリスのチャートのトップに7週間も君臨していた。これは、古い家に帰るとそこで待っている人々が温かく迎えてくれる……という懐古の念に彩られた曲だ。カラー・テレビはまだイギリスの家庭に普及しておらず、ヴァル・ドゥニカン&ザ・バロン・ナイツはまだチャートのトップ20に入る人気アーティストだった。

とはいえ、潜在的にはある種の気分がくすぶっていた。つまり、目の前にはカウンター・カルチャーとメインストリーム・カルチャーが並んでおり、自分たちはそのどちらかを選ばなければいけない……という気分である。

ストーンズの台頭と反発

俳優のロナルド・レーガンがカリフォルニア州知事に就任したばかりのアメリカでは、ザ・ローリング・ストーンズが歌詞の検閲を受けた。エド・サリヴァン・ショーに出演したとき、彼らの最新シングル「Let’s Spend The Night Together」の歌詞にテレビ局が異議を唱えたのである。その結果、ミック・ジャガーは「一緒に一晩過ごそう/Let’s Spend The Night Together」ではなく「一緒にしばらく過ごそう/Let’s spend some time together」と歌うことを強制された。

エド・サリヴァン・ショーは、10年ほど前のエルヴィス・プレスリーの時代から、小綺麗な家庭向きの番組というイメージを維持するために奮闘してきた。しかしこの時の状況はそれまでとは違うように感じられた。

ストーンズでは故国UKでも標的となった。まず2月5日、多くの一流ミュージシャンが当時違法薬物に指定されたばかりのLSDを服用しているとNews Of The World紙が報じた。それから1週間後、その記事を裏付けるかのように、警察はキース・リチャーズの自宅に対して強制捜査を行なった。

そして、リチャーズ、ミック・ジャガー、彼らの友人で美術商のロバート・フレーザーが違法薬物所持の罪で起訴された。このリチャーズ宅でのパーティにジョージ・ハリスンが参加していたという噂は、いまだにしつこくささやかれている。その噂によれば、ジョージがパーティーから帰宅の途につくのを確認してから警察が踏み込んだというのである。そんな説が唱えられるくらい、当時のUKにおけるザ・ビートルズはタブーのような絶対的存在だった。

 

ザ・ビートルズの進化

それから1週間後、その無敵のグループが、史上最高のポップ・シングルと多くの人から讃えられている両A面シングル「Strawberry Fields Forever / Penny Lane」をリリースした。子供時代の遊び場をテーマとしたこの2曲は、トム・ジョーンズが歌った故郷の緑の芝生というノスタルジーから2000光年も離れた距離にあり、未来の可能性を見つめつつ、古いものから新しいものを作り出していた。

NME誌のデレク・ジョンソンは、「正直なところ、これをどう評価したらいいのかわからない」と認めていた。それまでの数年間、ザ・ビートルズはシングルを出すたびに全英チャートの1位を獲得していたが、信じられないことにこのシングルは首位に到達せず、最高2位にとどまった。ザ・ビートルズの首位獲得を阻止したのは、エンゲルベルト・フンパーディンクの「Please Release Me」だった。

とはいえ、このシングルが伝えるメッセージははっきりしていた。ザ・ビートルズがEMIのアビーロード・スタジオに閉じこもって何を企んでいたにせよ、彼らが今作っている音楽は、初期のヒット作から遥か遠くまで来ていたのである。

ほんの1年半前に出た映画『ヘルプ!』のサウンドトラック盤では、ザ・ビートルズはまだマッシュルームカットでロックンロールのスタンダード曲「Dizzy, Miss Lizzy」などをカヴァーしていた。このバンドはごく短い期間で非常に大きく成長したが、彼らがどこへ向かおうとしているのかは本人たちもわかっていなかった。

 

表舞台へ躍り出たアングラ・カルチャー

1967年3月になると、旧世代と新世代の対立がさらに表面化する。ザ・ビートルズは、ストーンズ、マリアンヌ・フェイスフル、ドノヴァンといったポップ・スターの友人たちと共に、ロンドンで盛り上がりつつあったアート・シーンに鋭く目を光らせていた。

このころ、オプ・アート(「光学」を意味する「オプティカル」の略)やポップ・アートを熱烈に支持していたのがアングラ雑誌である。その例としては、ジャーメイン・グリアなどが寄稿していた輸入雑誌Ozや、バリー・マイルズとジョン・”ホッピー”・ホプキンスが1966年末にスタートさせた国産雑誌のInternational Times (IT)などが挙げられる。

ITを刊行するための資金集めはロンドンで大人気のイベントとなり、カムデンのラウンドハウスではピンク・フロイドやソフト・マシーンなどが出演する「オール・ナイト・レイブ」が開催された。このイベントにはポール・マッカートニーも変装して参加した。また映画監督のミケランジェロ・アントニオーニは、これをヒントにしてスウィンギング・ロンドンの映画『欲望』の制作に乗り出したという。

ITの1月16日号の表紙には、ウィリアム・バロウズ、アレン・ギンズバーグ、ノーマン・メイラーといった大物たちと並んで、ポール・マッカートニーも登場した。ポールは金銭的な面で援助するだけでなく、自分の車まで貸し出した。マイルズはコベントガーデンでインディカ・ブックショップ&ギャラリーを開設していたが、その改装に必要な木材を集めるため、ポールのアストンマーチンを借りたのである。

ポールは度々インディカに出向き、自らの手を貸した。棚の設置にせよ、壁の塗装にせよ、とにかく何であろうと彼は手伝った。(1966年11月、このインディカで、ジョン・レノンはとある日本人アーティストに出会い、その後の人生と活動において非常に大きな影響を受けることになる。つまりここでオノ・ヨーコが個展を行っていたのである)。

私服警官がITのインディカ・オフィスに強制捜査を行った後、ロンドンの広大なアレクサンドラ宮殿で「言論の自由のためのベネフィット」が計画された。これは、ITへの支援を表明する大規模イベントによってアングラ・シーンを結束させようとする試みであり、それと同時に、家宅捜索後に裁判が行われた場合の経費を調達するという目的もあった。

「14アワー・テクニカラー・ドリーム」と銘打ったこのイベントは1967年4月28日に開催され、1万人の「美しい人々」が詩の朗読、ダンス、パフォーマンス・アート、巨大な風船、「ぶっ飛んだ」ビジュアル作品(高く積み重ねたストロボ、映写機、オイルランプで構成される)などを体験することになった。

このイベントのステージでは、ソフト・マシーン、ザ・ムーブ、ピート・タウンゼント、グラハム・ボンド、クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンがライヴ演奏を繰り広げた。浮かれ騒ぐ人の群れの中には、ジョン・レノンの姿もあった。夜が明けると、ピンク・フロイドがステージに上がった(それはまさに“夜明けの口笛吹き”だったのかもしれない)。スタッフのひとりは次のように回想している。

「朝早く、人々は宮殿の外の芝生の土手に座って夜明けを眺めていた。1台のトラックが後方のドアを開けたまま丘を登り、宮殿の入り口までやってきた。荷台に立っていた誰かが、その場にいる人たちにパンとバナナを配っていた。そこは平和が支配していた」

 

とめどもなくあふれ出る創造性

あふれ出る創造性はとどまるところを知らず、毎週のように画期的な新しいレコードが登場していた。1月にはバッファロー・スプリングフィールドの「For What It’s Worth」が生まれ、1966年12月に発表されていたスーパーグループ、クリームの「I Feel Free」もチャートを駆け上がった。

3月、フランク・シナトラが「Strangers In The Night」でグラミー賞のレコード・オブ・ザ・イヤーを獲得したのと同じ月に、ジミ・ヘンドリックスが「Purple Haze」を世に放った(ちなみに雑誌Melody Makerは「この曲が売れるかどうかはなかなか評価しづらい」と書いていた)。このアメリカ出身のギターの魔術師は、まもなく一面の見出しを飾ることになる。というのもロンドンのフィンズベリー・パーク・アストリアで自分のギターに火をつけ、手に軽い火傷を負って入院したのである。

ピンク・フロイドのデビュー・シングル「Arnold Layne」は歌詞の内容で物議を醸し、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコのデビュー・アルバムはバナナの皮を模したシール付きのポップ・アート・ジャケットで話題を呼んだ。そして、このような状況が毎月続くことになる。

このころにリリースされた他の作品としては、キンクスの「Waterloo Sunset」、ザ・フーの「Pictures Of Lily」、プロコル・ハルムの「A Whiter Shade Of Pale」、モンキーズの「I’m A Believer」、キャット・スティーブンスの「Matthew & Son」などが挙げられる。

またアメリカの黒人音楽のサウンドもピークを迎えつつあり、エディ・フロイドの「Knock On Wood」、フォー・トップスの「Bernadette」、マーサ・アンド・ザ・ヴァンデラスの「Jimmy Mack」などがこのころ登場している。

とはいえ、ポップ・チャートを騒がせていたのは、“クール・キッズ”と言われる者たちだけではなく、レコードを買うのは家族全員にとって楽しみだった。1967年4月第1週のUKチャートをざっと眺めれば、1位はフンパーディンク、2位はハリー・セコム、3位はヴィンス・ヒルの「Edelweiss」だった。さらにはUK代表としてユーロビジョン・コンテストで初めて優勝したサンディ・ショウの「Puppet On A String」も首位に駆け上がる途中だった。

 

「盛り上がりの波動を感じ取ることができた」

ここに至るまでの過去数年間、大西洋の両岸、つまりUKとアメリカのポップス界は競い合うように急速に変化しつつあった。ボブ・ディランが新譜を出すたびに、ザ・ビートルズはその新譜をむさぼるように聴き、ディランが音楽の世界をどのように変えたのかを確認する。

一方カリフォルニアではビーチ・ボーイズもザ・ビートルズの新譜に熱中し、インスピレーションを得ようとしていた。それは他のバンドも同じで、バーズ、ドアーズ(1967年1月にデビュー・アルバムを発表し、9月には早くもセカンド・アルバムをリリースしている)、ザ・フー、ザ・ローリング・ストーンズなどがしのぎを削っていた。

バーズのロジャー・マッギンは、このライバルであり仲間という関係について「レコードを通じて、僕らは国際的な秘密の暗号のようなものをやりとりしていたんだ」と語っている。

そのころサンフランシスコでは、ヘイト・アシュベリー地区に家出人が多数押し寄せ、警察が手を焼いていた。元ハーバード大学の心理学者でLSD普及の教祖となったティモシー・リアリー博士が唱えた呪文ははっきりしていた。

「波長を合わせて、ドラッグをやって、ドロップアウトしよう」

そうして全米各地の若者たちが、チャートの首位に達したスコット・マッケンジーの大ヒット曲「San Francisco (Be Sure To Wear Flowers In Your Hair) [花のサンフランシスコ]」を口ずさみながら、サンフランシスコ湾へと向かったのである。1月に市内のゴールデン・ゲート・パークで行われた“ヒューマン・ビーイン”はフラワー・チルドレンに向けた招集命令であり、部族の集いとして宣伝されたイベント、あるいはハプニングだったのかもしれない。

 

傑作『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』誕生前夜

LSD普及祖ティモシー・リアリー博士は、このイベントに集まった数万人の前で演説を行った。ここでは、詩人のアレン・ギンズバーグをはじめとするカウンターカルチャーを代表する人物たちも同じように演説を行っている。

このイベントのステージで演奏したのは、ジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーといったバンドだった。似たようなイベントは、この同じ年にイギリス、ニューヨーク、カリフォルニアでも開催されている。ジョージ・ハリスンはこう語っている

「1967年の夏は、僕らにとって『サマー・オブ・ラヴ』だった。僕らの友人や、アメリカで同じような目標を持っていた人たちにどんなことが起こっているのかを感じることができた。盛り上がりの波動を感じ取ることができたんだよ」

4月、ポール・マッカートニーの恋人で女優のジェーン・アッシャーは、仕事でアメリカに滞在していた。その彼女を驚かせるために、ポールはアメリカへ飛ぶことにした。彼は『Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band』のアセテート盤を持参し、親しくなったミュージシャンたちに聞かせて楽しんでいた。サンフランシスコではジェファーソン・エアプレインとジャム演奏をし、ロサンゼルスではママス&パパスと一緒に過ごした。さらにはビーチ・ボーイズのレコーディング・セッションにも立ち寄り、「Vega-Tables」のバックで人参をムシャムシャ食べる効果音で貢献している。

後にブライアン・ウィルソンも認めているように、ポールが持ち込んだ新曲を聴いた西海岸のミュージシャンたちは多大なる影響を被った。『Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band』の収録曲「She’s Leaving Home」を聞いたとき、ブライアンの妻は泣き崩れたといい、周囲の期待は高まる一方だった。

一方ではマスメディアは「なぜザ・ビートルズは長いあいだ沈黙しているのか」としきりに詮索していた。それと同じように、ザ・ビートルズも自分たちが何か特別なものを手にしたことを自覚していた。ポールは後にこう語っている。

「音楽メディアが僕らをこき下ろし始めたんだ……というのも、(『Sgt. Pepper』の)レコーディングが5カ月も続いていたからね。ある新聞なんか、ザ・ビートルズはもはや才能が枯渇してしまったとか書いていたから、それを読んで大はしゃぎしちゃったよ……僕は座って手を擦り合わせながら『しめしめ』と思っていた。そうして『後は聴いてのお楽しみ』と言ったんだ」

1963年以来、ザ・ビートルズのファンはとことん甘やかされていた。3カ月に1枚のペースでニュー・シングルが出ていたのに加え、ニュー・アルバムも年に2枚に発表され、さらにツアーやテレビ出演もあり、時にはEPまでリリースされていたからである。

しかし1967年5月末になると、ファンたちは飢餓状態に陥っていた。前の年の8月以来、ニュー・アルバムは出ておらず、「Strawberry Fields Forever / Penny Lane」のシングルを除けば、新しい曲を聞くことができなかったのだ。

そのため『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』の発売日には、ファンはザ・ビートルズの新譜のことを考えるだけでよだれを垂らすような状態になっていた(噂によれば、あまりの期待の高さに、一部のレコード店は正式な発売日の数日前から販売を始めていたという)。そして当然のことながら、ザ・ビートルズは待つだけの甲斐がある作品を作り上げていた。

 

ザ・ビートルズによる全精力を傾けた創作

ザ・ビートルズがこのプロジェクトに着手したのは1966年11月24日のことだ。その年の夏にはツアー活動を休止していたために他の仕事もなく 、予算の上限を考慮する必要もなかった4人のメンバーは、全精力を傾けて創作意欲を満たすことに没頭した。

その年の終わりには「Strawberry Fields Forever」が完成し、「Penny Lane」の初期の断片やポールの古い曲「When I’m Sixty-Four」のレコーディングが行われていた。EMIはレコード化するための新曲を是が非にでも求めていたため、最初に仕上がった2曲はシングルにまわされた。その結果、子供時代の思い出をテーマとしたアルバムを作るという当初のアイデアは御破算になってしまった。とはいえ、この後の展開はその損失を補って余りあるものであった。

その次に生まれたのは、ザ・ビートルズがレコーディングした数々の作品の中でもベストと言えそうな曲だ。その曲「A Day In The Life」は、3週間にわたって34時間もかけて組み立てられた。最後のオーバーダブ・セッションでは、アビー・ロードのスタジオ1で、仮装したオーケストラを招いてパーティーが開かれた。

曲の終わりには24小節分の空白があり、ポールはそれを驚異的なクレッシェンドで埋めることにした。それはまるで、聴覚的なハプニングかフリーク・アウトというべきものだった。やがてこの曲は強烈な和音で締めくくられる。この有名な和音は、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、プロデューサーのジョージ・マーティン、ローディのマル・エヴァンスが3台のピアノで同時に演奏し、それをさらに4回のオーバーダビングで重ねたものだった。

ザ・ビートルズは、プロデューサーのマーティンと才能あるエンジニア、ジェフ・エメリックに音響面でさまざまな無理難題をふっかけていた。この「A Day In the Life」も、そんな無理難題のひとつに過ぎない。とはいえ、この時のセッションはかなりの共同作業となり、参加者全員の能力が最大限に引き出されることになった。

マーティンをはじめとする制作チームは、どの曲のレコーディングでも全力を尽くした。たとえば「Being For The Benefit Of Mr Kite!」では賑やかなお祭りの雰囲気を作り出し、ジョージ・ハリスンの知的な曲「Within You Without You」では西欧クラシックとインドの音楽家のために譜面を用意して監修を行い、「Good Morning Good Morning」やアルバム・タイトル曲では曲を盛り上げるサウンド・エフェクトを加えている。

このアルバムで特に印象的なのは、音響面で非常にクリアでバイタリティに富んだ仕上がりになっている点だ。ヴォーカルもギターもドラムもオーケストラも、一音一音がアルバム全体で楽しげに響いてくる。ベースは他の要素を完成させた後にポールとエメリックが苦心してレコーディングしたが、それでもすべての曲で躍動感あるラインを奏でている。サイケデリックな雰囲気は全編通してあふれていた。ルイス・キャロルに触発された歌詞が付いた「Lucy In The Sky With Diamonds」も、夢のような「She’s Leaving Home」も、その好例だった。

『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』が完成すると、メンバーたちはすぐにロンドンのアパートにいたママス&パパスのキャス・エリオットのところにアセテート盤を持って行った。夜が明けると、彼らは窓を開け放ち、スピーカーを壁の出っ張りの上に置いて、チェルシーの空に向けてアルバムを鳴り響かせた。広報担当で友人のデレク・テイラーは、次のように回想している。

「近所の窓が全部開いて、たくさんの人が身を乗り出して、何事だろうという顔をしていたよ。このアルバムで演奏しているのが誰なのか、聞けばすぐにわかった。誰も文句を言ってこなかった。素敵な春の朝。みんな笑顔で、こちらに向けて親指を立てて“いいね!”というジェスチャーをしてくれたよ」

“いいね!”というジェスチャーは、あらゆる方面で巻き起こった。タイムズ紙のケネス・タイナンは「西洋文明の歴史における決定的な瞬間」と呼び、その夏、『Sgt. Pepper』はありとあらゆるところで話題になった。アルバム発売からわずか3日後には、ジミ・ヘンドリックスが『Sgt. Pepper』のタイトル曲をカヴァーしていたほどだ。

ロンドンのサヴィル・シアターのステージに立ったジミは、ライヴの幕開けとなる1曲目でこの曲を演奏。そのライヴには、ポール・マッカートニーとジョージ・ハリスンも居合わせた。後にポールはこう語っている。

「あれは究極の賛辞だった。あれは僕のキャリアの中でも最高の栄誉のひとつだ」

このアルバムの革命的なアートワークはポップ・アートをポップスの世界に持ち込み、これ以降、アルバム・ジャケットはそれ自体がアートとなった。ファンはアートワークと音楽の両方に注意の目を向け、隠された意味のヒントを探した。

『Sgt Pepper』はロックのアルバムとして初めてグラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞し、それ以来、数々の投票で史上最高のアルバムとして選ばれるようになった。

 

正式に幕を開けた”サマー・オブ・ラヴ”

そして“サマー・オブ・ラヴ”が正式に始まった。この月の後半、ザ・ビートルズはUK代表として、世界初の国際衛星生放送番組『Our World』に出演するよう要請された。この番組の出演者の中にはパブロ・ピカソやマリア・カラスも含まれていた。世界に向けたザ・ビートルズのメッセージは、ごくシンプルなものだった。つまり「愛こそすべて」である。

カリフォルニアではモントレー国際ポップ・フェスティヴァルが開催され、ザ・ビートルズもすべての参加者に向けて友好のメッセージを送った。この三日間のイベントにはザ・フー、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス、サイモン・アンド・ガーファンクルなどが出演している。

UKではBBCテレビのカラー放送がはじまり、同性愛の非犯罪化といった政治改革がよりリベラルな未来の到来をほのめかしていた。麻薬所持容疑で捜査を受けたミック・ジャガーとキース・リチャーズが実刑判決を受けると、英国国民は激怒した。ウィリアム・リースモッグはタイムズ紙で、「彼らがザ・ローリング・ストーンズのメンバーでなかったら、このような判決を受けただろうか?」と問いかけている。

1967年は、さまざまな理由で非常に重要な年として記憶されている。チェ・ゲバラはこの年に亡くなり、それによって彼は反抗の象徴となった。またベトナム戦争への反対運動がUKとアメリカだけでなく、他の地域でも盛り上がった。さらにはマリファナの合法化を求める集会も度々開かれた。とはいえこの年の最も象徴的な出来事となったのは、やはりザ・ビートルズの革命的な新譜だった。

『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』はサマー・オブ・ラヴという言葉に結びついたすべての要素を体現していた。またこのアルバムによって、ザ・ビートルズはバンドが自分たちの運命、創造性、欲望を完全にコントロールできるということを世界に示した。さらに彼らは、もうひとつの画期的な偉業を成し遂げた。つまりポップ・アルバムを芸術の表現方法のひとつとして確立したのである。アルバムの売り上げがシングルの売り上げを上回ったのは1967年が最初だった。それは偶然ではない。

『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のあと、門戸は開かれ、歯止めはなくなった。他の追随を許さない創造性にあふれたアルバムが次々と発表され、音楽ファンは大喜びした。8月には、ピンク・フロイドのデビュー作『Piper At The Gates Of Dawn (夜明けの口笛吹き)』がリリース。

その翌月にはキンクスの『Something Else』が、ビーチ・ボーイズの最新作と並んで発表された。ブライアン・ウィルソンは『Pet Sounds』に続くアルバムを長いあいだ制作し続けており、1967年7月に発表されたシングル「Heroes And Villains (英雄と悪漢)」は革命的なレコードの到来を予感させた。

結局、彼のアルバム『Smile』が構想通りに仕上がるのは40年後になってしまうが、それでも1967年9月にリリースされた『Smiley Smile』は、サーフィン、ホット・ロッド、ビーチでのガールハントといったテーマの曲作りからビーチ・ボーイズがどれだけ進歩したかを示す作品になっていた。

こうした流れは止まらなかった。スライ&ザ・ファミリーストーンは『A Whole New Thing (新しい世界)』を発表し、モンキーズは『Pisces, Aquarius, Capricorn & Jones Ltd (スター・コレクター)』で自分たちの作品をよりコントロールできるようになったことを証明した。またザ・ローリング・ストーンズの『Their Satanic Majesties Request』は、サイケデリックなものすべてに対する彼らの賞賛の姿勢を反映している。

現在では、世界は見違えるほど変わった。とはいえ『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』はあの時代の総まとめのような作品でありながら、今もなお生命力を保ち続けている。今聞いても、生き生きとした新鮮でまばゆいサウンドなのである。ジャーナリストのポール・ガンバッチーニは次のように振り返る。

「ザ・ビートルズは私たちの好みを反映しながら、それと同時に私たちの好みをリードするバンドだった。そういう点で、まさに唯一無二と言える。彼らは、文化に置ける管制塔のような存在だった」

そしてジョージ・マーティンは次のように語っている。

「『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は音楽的な破片手榴弾だった。凄まじい爆発力でたくさんの破片を撒き散らし、その影響は今でも感じられるほどだ。あれはポップ・ミュージックの世界の首根っこをつかみ、激しく揺さぶり、放り出した。放り出された方は呆然としてフラフラ歩くことしかできなかったけれど、それでも嬉しそうに尻尾を振っていた」

Written By Paul McGuinness




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