モータウンを支えたスーパースター以外の10名の女性アーティストたち
あなたがもしモータウンが好きで、例えばザ・シュープリームス、マーサ&ザ・ヴァンデラス、メリー・ ウェルズ、ザ・マーヴェレッツ等の最もよく耳にする女性アーティストだけが、モータウンの才能ある女性達の全てではないと感じているのなら、あなたは正しい。モータウン・ガールズの美しさは表面だけではなく、魂の奥深くまでのものだった。もっと知りたい? ではこの先をどうぞ…。
ブレンダ・ホロウェイ
まずは、熱心なソウル・ファンが女神とみなすシンガーから始めよう。ロサンゼルス・ワッツで育ち、小さなレーベルからシングルを数枚リリースしたことのあるブレンダ・ホロウェイは、あるパーティーに登場しメリー・ウェルズの曲を歌った。その夜ゲストとして来ていたモータウンのボスのベリー・ゴーディは、当時16歳のブレンダ・ホロウェイの美しさに心を奪われた。そうしてモータウンのタムラと契約を結んだ彼女は、1964年に同レーベルから、くすぶる思いを描いたバラード「Every Little Bit Hurts」をヒットさせた。
非常に才能のあるブレンダ・ホロウェイは、音楽一家に育った。妹パトリスもレコーディング・アーティストだった。ブレンダ・ホロウェイはピアノ、フルート、ヴァイオリンをプレイしたが、作品の作曲の大部分は、ヒット曲「Operator」を提供したスモーキー・ロビンソン、そしてフランク・ウィルソン等、モータウンの契約ライターが手掛けた。1964年には、傑作『Every Little Bit Hurts』をリリースしたが、アメリカ国外ではリリースされず、ブレンダ・ホロウェイのキャリアはモータウンのミドルランクから抜け出せずにいた一方、ベリー・ゴーディはモータウン・ガールズの名簿登録者中の別の魅力的なメンバーに目を向けていた。そう、ザ・シュープリームスのダイアナ・ロスだ。
パトリス・ホロウェイと手掛けた「You’ve Made Me So Very Happy」で、ブレンダ・ホロウェイに目を向けるようになったベリー・ゴーディは、その出版権の一部を得られるよう改正した。この曲は1967年を代表するモータウン・レコードになっただけでなく、ブラッド・スウェット&ティアーズ、ルー・ロウルズ、アルトン・エリス等多数によってカヴァーされ、レーベルの出版部門いちカネを稼ぐ作品のひとつになった。しかしこの曲は、ブレンダ・ホロウェイのモータウン・ガールズとしての日々に終わりを告げることになる。自分にもっと重点的に取り組んで欲しいという手紙をベリー・ゴーディに書いたブレンダ・ホロウェイは、彼に逆に解雇されてしまったのだ。22歳で音楽の第一線から退いた彼女は、その後は時おり作品を発表する程度の活動を行なっている。
キム・ウェストン
キム・ウェストンは60年代初めにモータウンと契約を交わし、タムラからシングルを3枚リリースし、その哀調を帯びたソウルフルなトーンで、その後グラディス・ナイトとイヴォンヌ・フェアーがヒットさせた「It Should Have Been Me」を先に取り上げたにも拘わらず、注目を集めることは出来なかった。しかしながら、1964年リリースの4枚目で、彼女は成功への道を手繰り寄せた。「What Good Am I Without You」でキム・ウェストンは、メリー・ウェルズに次ぐマーヴィン・ゲイの二人目のデュエット・パートナーを務め、曲は僅かながらヒットした。そうしてソロ・シングルを2枚発表した後、モータウン在籍中で最も良く知られている、パワフルなダンス曲「Take Me In Your Arms (Rock Me A Little While)」と強力なナンバー「Helpless」の2曲をリリース。そして1966年には、これまたマーヴィン・ゲイとのデュエット「It Takes Two」で彼女にとって最大のヒット曲を手にした。同名アルバムも続いた。しかし、モータウンに過小評価されていると感じた彼女は、プロデューサーであり夫のミッキー・スティーヴンソンと共に、レーベルを離れ、MGMとスタックス等から素晴らしいアルバムを発表した。
タミー・テレル
モータウン・ガールズの中でマーヴィン・ゲイの次の引き立て役となったのは、タミー・テレルだった。ふたりは一緒にアルバムを3枚リリースし、理想的なソウルフル・パートナーシップを築き、深いプラトニック・ラヴで結ばれた。しかしながら、ソロ・アーティストとしての将来を歩み出す前に、貴重なアルバムを僅か1枚後に残し、タミー・テレルは悲劇に見舞われる。
本名タミー・モンゴメリーは、1965年にモータウンと契約を結ぶ以前に、幾つかのレーベルでのレコーディング経験があり、ジェームス・ブラウンのライヴにも参加していた。ゆっくりしたペースでスタートを切った彼女は、同レーベルから最初の2年間でリリースしたのは、シングル2枚のみだった。その後タミー・テレルはソングライターのニック・アシュフォード&ヴァレリー・シンプソンと仕事をする為に、マーヴィン・ゲイと組むことになる。彼等が取り組んだ初シングルは眩暈がするような素晴らしい「Ain’t No Mountain High Enough」で、同チームは1970年まで輝き続け、その間に1ダースものヒットを発表した。
タミー・テレルの素晴らしいソロ・アルバムは1969年に登場したが、非常に不運なこのシンガーは既に悪い方向に向かっていた。1967年10月、ステージに立っていた時にマーヴィン・ゲイの腕の中で倒れ込んだ後、脳腫瘍と診断され、1970年3月に亡くなったのだ。彼女がもし生きていて、モータウンが全面的に支援していたら、人を惹きつけるその明るい性格と、ソウルフルで親しみを感じさせる声で、70年代前半にメジャーなソロ・スターにきっとなっていただろう。しかし“こうなっていたかも知れない”ことを言っても意味がない。本当に魅力的なのは、“こうだった”過去のことなのだから。
クリス・クラーク
クリス・クラークはこのレーベルに所属する、ブロンド髪のとても魅力的な女性だった。6フィート(約180cm)の白人で、ソウルと時々ロックン・ロールをやっていた。モータウンは1966年に彼女と契約を交わし、シングル5枚とアルバム2枚をリリースし(この内45回転は「Love’s Gone Bad」の1枚のみ)、チャートにさまざまな印象を残した。
彼女はモータウンのロック部門レーベル“ウィード”からの唯一のアルバム『CC Rides Again』をリリースしたことでよく知られる(“あなたのお気に入りのアーティストはみんなウィードと契約している”と、ジャケットに誇らしげに書かれていた)。クリス・クラークの「Do Right Baby, Do Right」は現在、ノーザン・ソウルのダイヤモンドと見なされている。その後クリス・クラークは脚本家として成功する。
バーバラ・ランドルフ
これまた才能溢れるソウル・パフォーマーであり、1967年には映画『招かれざる客』でシドニー・ポワチエと共演するなど、映画キャリアも持つバーバラ・ランドルフは、1967年と‘68年にモータウンのソウル・レコードからレコードを2枚リリースした。「I Got A Feeling」は激しくアップテンポな曲で、先に発表されたフォー・トップスのヴァージョンが良く知られている。
また「Can I Get A Witness」はマーヴィン・ゲイのヒット作のスリリングなファンキー・ヴァージョンだ。バーバラ・ランドルフはタミー・テレルが体調を崩していた時、マーヴィン・ゲイのデュエット・パートナーとしてツアーしたが、モータウン・ガールズとしてのキャリアはそれ以上発展することはなかった。
シルヴィア・モイ
最も成功を収めたモータウン・ガールズでありながら、同レーベルからレコードをリリースすることが一度もなかったシルヴィア・モイは、アーティストとして契約した才気溢れるソングライターであり、他のアーティストに最高級の曲を提供した。
彼女と組んだ仕事のお陰で、スティーヴィー・ワンダーはレーベルから切られずに済んだ。そう、シルヴィア・モイが彼に提供した曲「Uptight (Everything’s Alright)」は、喉を痛めた後の彼の初ヒットとなり、ベリー・ゴーディは彼を切るつもりでいたが、ヒットした結果モータウンとのキャリアは継続され、彼女はその後も「I Was Made To Love Her」「My Cherie Amour」、そしてグラディス・ナイト&ザ・ピップス、ジュニア・ウォーカー等多数にヒット曲を提供している。
シリ―タ
スティーヴィー・ワンダー自身もまた、モータウンで始めは受付係として働いていたシリ―タの人生に大きな役割を果たした。彼女は1968年にリタ・ライトとして同レーベルでレコーディングし、ザ・シュ―プリームズのスマッシュ・ヒット「Love Child」のデモ・ヴァージョンを歌った。1969年にはスティーヴィー・ワンダーのガールフレンドになり、ふたりは一緒に曲作りを始め、ザ・スピナーズの「It’s A Shame」や、スティーヴィー・ワンダーのエレガントな「If You Really Love Me」、そして彼の名作アルバム『Music Of My Mind(邦題:心の詞)』の多くを書いた。ふたりは1970年に結婚した。
1972年、シリ―タはデビュー・アルバム『Syreeta』を発表、これに続く作品『Stevie Wonder Presents Syreeta』(1974年)からは、イギリス・ヒット曲「Your Kiss Is Sweet」が生まれた。「Harmour Love」もまたイギリスでヒットした。どちらも喜びに満ちた、非常にキャッチ―な曲だった。ビリー・プレストンの「With You I’m Born Again」、G.C.キャメロン、そしてスモーキー・ロビンソンとのデュエットを得意とする彼女は、80年代半ばまでモータウン・ガールズのメンバーであり続けた。
グロリア・ジョーンズ
イギリスではマーク・ボランのパートナーとして最もよく知られるグロリア・ジョーンズは、ノーザン・ソウルの最高傑作「Heartbeat」と「Tainted Love」(そう、80年代にソフト・セルがエレクトロ・ポップ・ヒットさせたあの「Tainted Love」だ)をレコーディングし、彼女もまた正しく評価されていない才能溢れる人であるパム・ソーヤーと共にモータウンで、ジャクソン5、ザ・シュ―プリームス、フォー・トップス、シスターズ・ラヴに曲提供をし、ソウル・ミュージック界で長く立派なキャリアを築いた。
コモドアーズの見事な「The Assembly Line」で明白な通り、グロリア・ジョーンズは70年代の新しいファンキー・ソウル・スタイルに精通していた。1973年には、モータウンからの唯一のソロ・アルバムとなった、ロック調のシングル「Tin Can People」収録の名作『Share My Love』を発表した。
ヴァレリー・シンプソン
偉大なヴァレリー・シンプソンは、夫ニック・アシュフォードと取り組んだ作曲で、天文学的な成功を収めたことで最もよく知られているかも知れないが、70年代前半にはソロ・キャリアを開始させ、ソウルが感じられる作品で、シンガー・ソングライターとしての地位を不動のものとした。
彼女のアルバム2枚『Exposed』(1971年)と『Valerie Simpson』(1972年)は、「Love Woke Me Up This Morning」、「Drink The Wine」、それから「Silly Wasn’t I」といった素晴らしくも見落とされている曲を生んだ、どちらも逸品だ。モータウンが彼等を商業的に成功させることが出来なかった時、ニック・アシュフォード&ヴァレリー・シンプソンのふたりは、歌手としてのキャリアを他に求めた。
ティーナ・マリー
そしていよいよ、ソウルフルなファンク・ミュージックの熱烈なファンのティーナ・マリーだ。パンク・ファンクの親分、リック・ジェームスの弟子だった彼女は、モータウンのゴーディ・レーベルから出した一連のスリリングなレコードで、70年代後半から80年代前半のダンスフロアを輝かせた。
「I’m A Sucker For Your Love」、「Behind The Groove」、「Square Biz」、「Lovergirl」…この大胆で派手なウルトラ・モダン・ファンクな逸品で、彼女はスターになった。「Irons In The Fire」や、落ちた偶像に対する最高に自然体のトリビュート「My Dear Mr. Gaye」ではっきりと分かるように、彼女はバラードもなかなか上手かった。ソウルフルで、温かくて非常にグルーヴィーなその作品で、ティーナ・マリーは伝統を守り継ぎながら、何十年にも渡り人々の心を動かし続けて、モータウンに貢献した。
Written By Ian McCann
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