失われた偉大なパンクのレア・シングル11枚【全曲試聴付き】

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パンクの最初の宣言に“長寿”という文言は記載されていなかった。スニッフィン・グルーに続けとばかりに創刊された数多くのパンク・ファンジンのひとつであるサイド・バーンズには「これが3コードだ。さぁバンドを今すぐ組め!」と乱雑に印刷されたコード表が掲載され、同時にこのジャンルの扇動者であるセックス・ピストルズは「我々は音楽に興味はない、混沌に興味があるのだ」と悪名高く宣言した。

皮肉にも、40年経った現在において 『Never Mind The Bollocks…Here’s The Sex Pistols(邦題:勝手にしやがれ)』や元祖とも言えるザ・クラッシュのデビュー・アルバム、そしてザ・ダムドの『Damned Damned Damned』が時代を超えた名盤だとランクされるようになった。とはいえ、メジャーに吸収されてしまったパンクも、そのカルぺ・ディエム的精神(*注:ラテン語で「その日を摘め」:つまりは今この瞬間を楽しめという意)は、一枚のシングルで終わる数多くの短命な無名バンド達の中に宿っていたのである。そうした一発屋的DIY精神を称賛すべく、ここに歌われることのなかった11枚のパンク・クラシックを記す。

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1. ザ・リングス「I Wanna Be Free」(チズウィック、1977)

ロジャー・アームストロングとテッド・キャロルによって設立された堅固なインディペンデント・レーベルであり、ザ・ダムドの『Machine Gun Etiquette』やモーターヘッドのデビューLPなどをリリースしたチズウィック・レコード。彼らがリリースしたのが、他のバンドと並ぶ煌めきを持った一発シングルで、ロンドン拠点の4人組ザ・リングスによるハートブレイカーズを彷彿させる7インチ「I Wanna Be Free」だ。

この気まぐれで短命な4人組はヴォーカリスト(元ピンク・フェアリーズのドラマー)のジョン・”トゥインク”・アルダーとギタリストのアラン・リー・ショウを中心に作られたが、後に”トゥインク”抜きの3人でマニアックスを結成し、これまた失われたパンク・クラシックとも呼べる名盤 「Chelsea77」をユナイテッド・アーティスツからリリースした。

 

2. ジェット・ブロンクス&ザ・フォービドゥン「Ain’t Doin’ Nothin」(ライトニング、1977)

ジェット・ブロンクス&ザ・フォービドゥンの唯一のシングルである「Ain’t Doin’ Nothin」は、初回盤の15,000枚の盤面は赤色で、その短命な生涯を終える前にUKチャートの49位にまで急上昇した。煌くパンクの形態に忠実かって?もちろんだ。

たとえ、ジェット・ブロンクス&ザ・フォービドゥンが実はホール&オーツのベーシストであるジョージ・フォードと後のコックニー・レベルのドラマーであるスチュワート・エリオットがサポートを固め、元ローリング・ストーン誌のライターでテレビの料理番組のスターになったロイド・グロスマン(akaジェット・ブロンクス)が組んだプロト・パンク的スーパーグループだったとしてもね。

 

3. ザ・スピットファイアー・ボーイズ 「British Refugee」(RK、1977)

ザ・スピットファイアー・ボーイズはリヴァプールの名門パンク小屋“Eric’s”の常連によって結成されたこれまたパンク・スーパーグループ的バンド。オリジナル・メンバーにはヴォーカルに後にフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドを結成するポール・ラザフォード、そして後にスージー&ザ・バンシーズ、スリッツのドラマーであるバッジーが在籍し、ギターは後にヴィサージのスティーヴ・ストレンジと「Mind Of A Toy」などを共作するデイヴィッド・リトラーがいた。

このオリジナル・バンドの唯一のシングルである「British Refugee」は当時の北アイルランド情勢を背景にした作品であり、その切迫感は現在にも伝わるものがある。

 

4. マーティン&ザ・ブラウン・シャツ「Taxi Driver」(ライトニング、1978)

自尊心のあるパンク・バンド達が挑発的な名前を付けるのに対し、このチェスター在住の4人組は残念ながらそのオズワルド・モズレー(*)的偽名のおかげで、ギグの度に暴力的右翼達の興味を惹きつけてしまった。

しかし、この茶色いシャツ達の実際の曲は全く差別的思想に関係のない模倣と皮肉に溢れたものだった。ロバート・デニーロ主演の同タイトルのカルト的映画の脚本が元になったシングル「Taxi Driver」がベストであることに異論の余地がないだろう。

*オズワルト・モズレーはイギリスの政治家。ファシスト指導者でもあった。

 

5. ザ・デッドビーツ「Final Ride」(from Kill The Hippies EP、デンジャーハウス、1978)

ソウルジャズ・レコーズの『Punk 45:Chaos In The City Of Angels』のライナーノーツにデンジャーハウスのデイヴィッド・ブラウンが「LAパンクのミニ・モータウンだ」と記されている。これはエックスやザ・バッグやザ・ランダムといった第一次LAパンクの金字塔的音源のリリースを任されているレーベルによる正当な評価だ。

デンジャーハウスは「Final Ride」を収録している扇動的なザ・デッドビーツ唯一のEP『Kill The Hippies』をリリース。デッド・ケネディーズの影響をうかがわせつつ、モチーフにヘンデルの「葬送行進曲」(『サウル』より)を取り入れている。

 

6. ザ・ナーヴス「TV Adverts」(ライトニング、1978)

短命でありながらも色々な出来事があったスタッフォード出身のトリオ、ザ・ナーヴス。UB40と関連したレーベル、グラティチュードと契約していたが、ガチャガチャと主張の激しい単独の7インチ「TV Adverts」はルーツ・レゲエのレーベルであるライトニングからリリースされた。

クライマックス・ブルース・バンドのリチャード・ジョーンズによってプロデュースされたこのシングルはUKオルタナティブ・チャートの首位を獲った。その後、ツアーを行い、フランスにて人気を博したが1980年に解散している。

 

7. ザ・ハリウッド・スクエアーズ「Hillside Strangler!」(スクエアー、1978)

ロサンゼルスのパンクスであるザ・ハリウッド・スクエアーズは知られるはずではなかった。このバンドにはケネス・ビアンキとアンジェロ・ブオーノJr.という実在した殺人犯が2人在籍し、この2人は1977年の冬をハリウッド・ヒルズでストーキングし、合わせて10名を殺害した2名は、共に終身刑が宣告された。

ザ・ハリウッド・スクエアーズの唯一のシングルでありパンク史上最もダークな賛歌である「Hillside Strangler」はグレッグ・ショウの有名なボンプ!レコードを経由して販売されたが、現在ではコレクターズ・アイテムとして扱われている。悪名高き殺人鬼がまだLAで野放しにされていた頃の恐怖感とパラノイアを完璧に捉えた作品だ。

 

8. フィルス「Don’t Hide Your Hate」(プルーレックス、1978)

UKからの影響によりクールでヒップなサウンドに事欠くことなかったオランダは、セックス・ピストルズやザ・クラッシュといったパンクの大御所達も歓迎されており、後に独自の健全なパンク・シーンが育っていったことも驚きではなかった。

この成長著しいシーンを称えるかの如く、ウォリー・ミドゥンドープが立ち上げたプルーレックス(*訳注:レーベル名)よりアムステルダム出身のフィルスを始め、オランダ・パンクの第一世代と言えるアイヴィー・グリーン、ザ・フライング・スパイダーやザ・ティッツがリリースされる。

その中でも、プルーレックスからリリースされた3枚目の作品となる、フィルスの3曲入り単独7インチは短く、キレのある、規律のとれたショッキングな傑作であることは間違いないが、特に「Don’t Hide Your Hate」が耳に響き続けるだろう。

 

9. ザ・ノーマルズ「Almost Ready」(レクトリック・アイ、1978)

歴史的観点からも、なぜこのルイジアナ出身のパンクスであるザ・ノーマルズが成功しなかったのかは理解しがたい。自信に満ちた「Almost Ready」を1978年にリリースし、ポリス、ラモーンズやトーキング・ヘッズの前座を務めたこのニューオリンズを拠点とした4人組は、確実に地元でも支持を集めていた。

1979年に拠点をニューヨークに移したことを含め、グループは成功の為にあらゆる手段を尽くしたが、新たな契約が結べずあえなく解散となった。

 

10. ザ・リックス「1970’s Have Been Made In Hong Kong」(『1970’s EP』より、ストートビート、1979)

クラスのアナーコ・パンク(無政府主義パンク)宣言に強く影響を受けたビショップ・ストートフォード出身のパンクスであるザ・リックスは、ザ・エピレプティックスとして誕生したが、英国癲癇協会からの苦情を機に改名。その後、地元のDIYレーベルであるストートビートから怒涛の3曲入りEP 『1970’s』をリリースする。

ザ・リックスとしてはこの3曲以外のリリースはないが、後にザ・エピレプティックスを再結成し、アナーコ・パンク・バンドのフラックス・オブ・ピンク・インディアンズへと変貌を遂げる。ベーシストのデレク・バーケットは、後にワン・リトル・インディアンというインディ・レーベルを設立したことでも知られる。

 

11. スクリーム&ダンス「In Rhythm」(レクリエーショナル、1981)

ザ・ポップ・グループからポーティスヘッド、マッシヴ・アタックまで、ブリストルはいつでも独自のダンス・シーンを持つことで知られている。結果として、文化的にしっかりと結びついたこの街で、ポスト・パンク時代に、グルーヴ・フレンドリーであることを拒否したピッグバッグやリップ・リグ+パニックといったバンドが生まれてきたことは何の驚きもない。

精神的にはスリッツに近い、ブリストルのデュオがスクリーム&ダンスだ。ヴォーカリストとしてアマンダ・スチュワート、ルース・ジョージ・ジョーンズを擁し、その周りには、後のザ・ブルー・エアロプレインズのフロント・マンとなるジェラルド・ラングリーがドラマーとして参加していた。

スクリーム+ダンスは彼らの唯一のオフィシャル・シングル「In Rhythm」以外にもいくつかのデモを録音したとされているが、突然解散し、ロンドンへと向かった。「In Rhythm」は結局、2008年になってからアムステルダムを拠点としているDJ マルセル・ヴァン・ホーフによりリミックスされ、いくらかの注目を集めることとなった。

Written By Jason Draper


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