【特集】ミュージシャンとツアーの歴史:ヴォードヴィルから巨大ライブまで
新たなオーディエンスの探求。
アーティストとしての挑戦。
もしくは単純に、金銭と喝采の必要性。
ミュージシャンがツアーをする理由は、中世のヨーロッパを放浪していたトルバドゥール/吟遊詩人とほぼ変わらない。また、長期間のツアーも今に始まったことではない。例えば、ノルウェーのヴァイオリン奏者、オーレ・ボルネマン・ブルは1840年代前半にはアメリカ・ツアーで地球3.5周分となる16万kmを移動し、200回のコンサートを行った。ザ・ローリング・ストーンズも顔負けである。
巡業のライフスタイルが目立ってきたのは、UKとアメリカが音楽的拠点として活気に満ちていた19世紀の頃だ。1911年の国勢調査によれば、英国市民のうち47,000人がミュージシャンとして記載されていた。英国にはミュージック・ホール、アメリカにはヴォードヴィル・シアターがあり、ミュージシャンは安価な楽譜の普及と鉄道による移動に助けられ、自身の音楽を広範囲に伝えることができた。ミュージシャンにとって最も重要な課題は今と変わりなく、安全に会場へと辿り着き、公演をソールド・アウトにすることだった。
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ヴォードヴィルの盛り上がり
20世紀に入るとレコードの売り上げで大金を稼ぐチャンスが生まれたが、歴史は巡り、近年ではライヴ・パフォーマンスがミュージシャンの主な収入源となっている。アメリカにおけるコンサート・チケットの売上は年間60億ドル(約6,718億円)で、ビヨンセをはじめ、Billboardでトップ40に入るパフォーマーの収益の80パーセントはツアーから上げられている。
ビヨンセはいくつか際どいパフォーマンスを行っているが、それは19世紀のヴォードヴィル(*)であっても大いに受けただろう。ヴォードヴィルの観客は元来、酒を飲んだ男性のみだけだった。1881年、ミンストレル・シンガー(**)は、ニューヨークのユニオン・スクエアの近くに劇場をオープンし、ビールを売らずにクリーンなショウを行うことで、大金を儲けられるだろうと考えた。
(* 歌や手品、お笑いといった色んなタイプを一度に見れるショー。日本でいうと寄席)
(** 白人が黒人のまねをして黒塗りで登場するショー。差別的であると批判をうけ1950年代に収束した)
これにより、女性もショウに足を運ぶようになり、全米でヴォードヴィルの人気は急上昇。何千ものミュージシャンやコメディアン、ダンサー、マジシャンなどは巡業によって生計を立てることができるようになった。何千というヴォードヴィル・ハウスで腕を磨いたアーティストの1人は、ラグタイム・ピアノ奏者のユービー・ブレイクだ。彼はノーブル・シサルとのコンビでパフォーマンスした後、「I’m Just Wild About Harry」を作曲し、不朽の功績を遺した。
テント・ショウとチトリン・サーキット
しかし、音楽の世界に変化はつきものである。ヴォードヴィルの人気が衰え、第一次世界大戦中、安価な映画館が普及したことで、この傾向は加速すると、ライヴ・エンターテインメントに対する欲求は、“テント・ショウ”として知られる現象の台頭によって満たされた。
端にステージが付いた長方形のテントが最初にデザインされたのは、1910年頃である。しびれるほど親密な雰囲気の中で、ブルースを歌い上げるベッシー・スミスを観るのは、さぞかし感動的なことだろう。ブルースの女王は機転を利かせ、土地の名前がついた曲では、公演している街の名前を使った。例えば、「St. Louis Gal」や「Nashville Woman’s Blues」を公演している街の名前で歌ったのだ。
しかし、1930年代の世界恐慌による経済的ショックの波が、テント・ショウの流行をほとんど潰しさってしまった。これに続いたのが、盛況だったチトリン・サーキットだ。豚の腸を煮込んで作ったチトリンというソウル・フードを売っていたために、こう呼ばれるようになり、アメリカの東部、南部、北中西部に広がっていった。チトリン・サーキットは、人種隔離時代にアフリカ系アメリカ人のダンス・バンド、特にジミー・ランスフォードやB.B.キング、ジョー・ターナー、T・ボーン・ウォーカーといったブルースのパイオニアに安全な会場を提供した。
チトリン・サーキットでキャリアをスタートしたシンガーのルー・ロウルズは、チトリン・サーキットのナイト・クラブという場所についてこう語っている。
「とても小さく、とても狭く、とても混んでいて、とてもうるさい。全てがうるさかったが、全てがエンターテインメントだった。コミュニケーションを取る唯一の方法は、ストーリーを語りながら、歌へと繋げることだった。これで注意を引いたんだ」
また、50年代と60年代前半、チトリン・ツアーはソロモン・バーク、ジェームス・ブラウン、リトル・リチャード、レイ・チャールズ、ジャッキー・ウィルソン等のソウル・シンガーやロック・シンガーのキャリアにとっても極めて重要だった。彼らはチトリン・ツアーをすることで、ファンにアピールしながら、レコード会社がセールスを上げる方法も提供したのだ。
ノーマン・グランツ主宰のコンサート
ツアー・ミュージシャンとして成功するためには、素晴らしいショウマンシップも重要だ。シンガー/サックス奏者のルイ・ジョーダンは、ステージ上の華やかな存在感で、戦後最も成功したツアー・ミュージシャンの1人となり、“ジューク・ボックスの帝王”と呼ばれるようになった。1947年の時点ですら、彼は1回の公演で5,000ドル以上の利益をもたらし、自分用とガールフレンドのフリーシー用にフリートウッド・キャデラック2台を購入して運転手と駐車係を雇えるほどの富を手にした。
ツアー・ミュージシャンの生活は、時にドラッグ、セックス、ギャンブル、アルコール漬けの生活とも言われるが、ルイ・ジョーダンの大好物はアイスクリームで、彼はツアーで訪れるアメリカ中の街でアイスクリーム・ショップを探した。
大都市の観客もライヴ・ミュージックを求めていた。市場のギャップに気づいた1人の起業家は、ノーマン・グランツだ。ノーマン・グランツは、ジャズを薄暗く煙の立ち込めるクラブから、より大きな舞台へと移したいと考えていた。彼は十分な現金を借り入れると、従来はクラシック音楽の会場だったロサンゼルスのフィルハーモニック・オーディトリアムで“ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック”という公演を開催。最初の公演は1944年7月2日で ナット・キング・コールをはじめ、イリノイ・ジャケーやバディ・リッチといった大物ジャズ・ミュージシャンが出演した。
そのコンサートは大成功し、ここから1957年までライヴ・レコーディングも続々とリリースされた。そのうちの大半が、ノーマン・グランツの主宰したクレフ・レコードや、グランツが後に設立したヴァ―ヴ・レコードでベストセラーとなった。ノーマン・グランツはこのショウをアメリカの他都市、カナダ(1952年よりスタート)、ヨーロッパ、イギリスにも広げた。長年にわたり、ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックは、エラ・フィッツジェラルド、ディジー・ガレスピー、コールマン・ホーキンス、ビリー・ホリデイ、チャーリー・パーカー、オスカー・ピーターソン等、傑出したミュージシャンを紹介している。
リチャード・ヘイヴァースがヴァーヴ・レコードの歴史を綴った書籍にこう書いている。
「グランツには全く抜かりがなかった。ラジオ広告、新聞広告、いくつかの場所に看板も出し、プレスリリースも発行していた……ノーマン・グランツは、現代音楽のツアー・ビジネスの先駆者として、大きな貢献をしたと言ってもいいだろう」
また、ノーマン・グランツの公演はアメリカの社会史においても大きな役割を果たした。なぜなら、ロシア系ユダヤ人の移民を両親に持つノーマン・グランツは、会場で人種隔離が行わないことを義務とする旨を、各地の興行主との契約の中に入れていたのだった。
さらに、ノーマン・グランツのツアーは、ジャズ・フェスティヴァルの登場と時を同じくしていた。野外で演奏される音楽の魅力は目新しいものではなかったが(古代ギリシャのピューティア祭にも音楽があった)、フェスティヴァルがツアーの世界に定着したのは、50 年代から60年代のことである。
音楽フェスの勃興
1952年にロード・アイランドで始まったニューポート・ジャズ・フェスティヴァルは、アメリカで長い歴史を誇るフェスティバル文化の始まりだと広く考えられている。高い評価を受けた1958年のドキュメンタリー映画『真夏の夜のジャズ』は、ルイ・アームストロング、チャック・ベリー、ダイナ・ワシントン、マヘリア・ジャクソンの華々しいパフォーマンスを収録し、同フェスティヴァルの素晴らしさをとらえている。
姉妹フェスティヴァルのニューポート・フォーク・フェスティヴァルは、1959年に始まり、70年代に少々休止したものの、現在も続いている。1965年には、ボブ・ディランがブーイングの嵐を受けながら“‘エレクトリック”な演奏を行ったことでも有名だ。この瞬間は、ロック・ミュージックとポップ・ミュージックの優位を決定づけたようである。ジャズとフォークが進む道をロックとポップは追ったのだ。
また、1964年にカリフォルニアで行われたモンタレー・ポップ・フェスティヴァルのようなイヴェントは、“サマー・オブ・ラヴ / ヒッピー・ムーヴメント”が作り出したカウンターカルチャーの伝説の一部となった。
モンタレー・ポップ・フェスティヴァルによって、ジャニス・ジョプリンのキャリアが軌道に乗っただけでなく、ラヴィ・シャンカール等のアーティストは世界的に注目されることになった。さらに同フェスティヴァルでは、ジミ・ヘンドリックスがギターに火をつけるなど象徴的な瞬間も生まれた。それから2年後、ニューヨークのべセル・ウッズでウッドストック・フェスティヴァルが開催され、“平和と音楽の3日間”のために40万人が集まると、世界中でニュースとなった。こうしてミュージック・フェスティヴァルは、アメリカのメインストリームでもしっかりと認知されるようになったのだ。
フェスティバルの広がりとスタジアムでのライヴ
フェスティヴァルはヨーロッパじゅうにも広がり始めた。UKでは、1970年のワイト島フェスティヴァルが70万人を動員した。その中には、アンドリュー・カーと、マイケル・イーヴィスという農場主もいた。ジミ・ヘンドリックスのバンドにインスパイアされた2人は、1年後に自分たちのフェスティヴァルをスタート。こうして、グラストンベリー(初年度はピルトン・フェスティヴァルと呼ばれた)が誕生した。
今やフェスティヴァルは、数百万ドル(数億円)という高い収益を上げるビジネスとなり、バンドの成功の鍵も握っている。アーティストは、ヨーロッパのフェスティヴァル・ツアーで途切れなく演奏する。いまやグラストンベリーだけでなく、スウェーデンのブロバラ・フェスティヴァル、オランダのピンクポップ・フェスティヴァル、スペインのベニカシム国際フェスティヴァル、ドイツのハリケーン・フェスティヴァルといった話題のイベントも、アーティスト達のフェスティヴァル・ツアーに含まれている。
アメリカのフェスティヴァルは影響力を持ち続けている。最も収益の高い3つのフェスティヴァルは、コーチェラ・ヴァレー・ミュージック・アンド・アーツ・フェスティヴァル、ミステリーランド、オースティン・シティ・リミッツ・ミュージック・フェスティヴァルだ。アメリカの著名なフェスティヴァルに出演することは、成功の基準となっており、グラミー賞受賞シンガーのクリス・ステイプルトンは2016年のコーチェラでカントリー・ミュージック・アーティストとしてヘッドライナーに選ばれたことで、その地位を裏づけた。アメリカの一流フェスティヴァルはまた、ヨーロッパのアーティストにとっても人気のギグだ。例えば、UKのパンク・バンド、ザ・ダムドは、2016年4月にコーチェラ・デビューを果たしている。
UKのバンドは、“アメリカでブレイクする”という輝かしい歴史を有しており、“ブリティッシュ・インヴェイジョン”は60年代に大きな現象となった。この時、ザ・ビートルズ、デイヴ・クラーク・ファイヴ、キンクス、ザ・ローリング・ストーンズ、ハーマンズ・ハーミッツ、アニマルズ、ザ・フー、さらにはフレディ&ザ・ドリーマーズが大西洋を越えてアメリカに乗り込み、音楽シーンを変貌させたのだった。
ザ・ビートルズは1964年におこなった歴史的ツアーで、デトロイトからニューオーリンズに至るまでスタジアム公演を行った。アイコニックなハリウッド・ボウルでも公演を行い、その様子はアルバム『Live At The Hollywood Bowl』に収録されている。また巨大なスポーツ・アリーナで公演をするというトレンドは、その後半世紀におよびトップ・バンドのツアー方式となった。
おそらくそのピークは70年代で、“スタジアム・ロック”(時に“アリーナ・ロック”とも呼ばれる)では、チャートの首位を獲得したバンドやヘヴィ・メタル・バンドが、大きな会場で大きなアンプを使って演奏し、スモークや花火、洗練された照明をパフォーマンスに加えた。
この分野を制覇したグループは、スティクス、KISS 、クイーン等だ。フィル・コリンズがリード・シンガーとなって生まれ変わったジェネシスは、世界屈指のスタジアム・バンドに変身することに成功した。一方で、スーパートランプといったバンドは、その膨大なレコード・セールスから、ヒット曲をライヴで見たいという観客の需要が生まれた。
パッケージ・ツアー
興行主は常に会場を埋める新たな方法を探していた。大観衆を呼び込むひとつの戦術は、パッケージ・コンサート・ツアーを企画することである。様々なアーティストを多数組み合わせることで、様々な層のファンを呼び込めるのだ。UKのパッケージ・ツアーでは、ウォーカー・ブラザーズ、キャット・スティーヴンス、ジミ・ヘンドリックスに、スペシャル・ゲスト・スターのエンゲルベルト・フンパーディングという異色のラインナップもあった。
60年代、モータウン・アーティストのパッケージ・ツアーには、モータータウン・レヴューという名前がつけられた。初期のツアーでは、スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズ、メリー・ウェルズ、コントゥアーズがヘッドライナーを務め、マーヴィン・ゲイ、 マーサ&ザ・ヴァンデラス 、スティーヴィー・ワンダー、フォー・トップスといったアーティストは前座として、パフォーマンス・スキルを磨き、才能溢れるレーベル・メイトたちとのツアーから音楽的に成長するチャンスを与えられた。
パッケージ・ツアーは、現在も活発に行われており、近年ではニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック、90ディグリーズ、ボーイズIIメンが共同ヘッドライナーを務めたツアーが、それを証明している。
ツアーの規模はどんどん大きくなっている。マーチャンダイジング含め、特にヨーロッパ、中国、日本、アメリカを回る世界ツアーの収益は莫大なものになり得る。U2が2009年から2011年に行った‘360° ツアー’は7億3600万ドル(約824億円)を稼ぎ出し、ザ・ローリング・ストーンズが2005年から2007年に行った‘A Bigger Bang’ツアーと1994年から1995年行った‘Voodoo Lounge’ツアーは、合計で9億ドル(約1000億円)の収益をもたらした。
U2とザ・ローリング・ストーンズはツアーの帝王だが、ロジャー・ウォーターズ、AC/DC、マドンナ、ポリス、ブルース・スプリングスティーン、ワン・ダイレクション、セリーヌ・ディオン、ポール・マッカートニー、ボン・ジョヴィ、イーグルス、テイラー・スウィフト、ピンク・フロイド、シェール、ジャスティン・ティンバーレイク、ビヨンセも、それぞれ1回のツアーで2億5000万ドル(約280億円)以上を稼ぎ出している。
ザ・ローリング・ストーンズはおそらく、息長くツアーを成功させているバンドの中で特筆していると言えるだろう。1962年の結成以来、ヒット曲は移り変わり、累計で3,000回以上のギグを行った現在も、世界中でソールドアウト公演を続けている。「ローリング・ストーンズが基準を設定したけれど、彼らみたいにツアーしている自分は想像できない。膝が持たないだろうな」とジョン・ボン・ジョヴィが冗談を言ったのも無理はないだろう。ここまでツアーを続けた結果、ザ・ローリング・ストーンズは最も多くの観客に‘コンサート’で演奏を聴かせたバンドとなった。
精神と肉体が疲弊するツアー
ツアーは巨大な事業で、多くのバンドや興行主が赤字を出すこともある。しかし、ミュージシャンが考えているのは収支だけではない。自分の音楽を世界中で演奏するのは、活気に満ちたエキサイティングな経験なのだ。普段とは違う、新しいファンの前での演奏は、特にやりがいがあるだろう。バンドがうまくやれれば、ツアーは楽しく、仲間意識とユーモアに溢れたものになるはずだ。
しかしながら各地の会場への移動は、ミュージシャンの生活の中で特に辛い部分だ。ミュージシャンが昔使っていたツアー・バスには抗しがたい魅力があるが(B.B.キングとそのバンドや、ボブ・ウィリス&ヒズ・テキサス・プレイボーイズが使っていた美しいバスの写真を見れば分かるだろう)、飛行機による移動は、ミュージシャンのツアー生活を楽にした、航空会社が荷物やギターを失くさない限りは。カール・パーキンスはツアーで長距離移動をしていた50年代、全ての機材が入ったトレイラーを車で牽引して運んでいたが、ハイウェイでトレイラーが車と離れてしまうこともあったという。
楽しさと華やかさ、ファンの崇拝など、非常に魅力的だが、ツアーには陰の側面もある。慈善団体ヘルプ・ミュージシャンズUKによる2015年の研究によれば、ミュージシャンの60パーセント以上がうつ病をはじめ、その他の心理的問題を抱えているという。そして回答者の71パーセントが、ツアーが問題だとしている。ミュージシャンは、家庭生活から孤立し、睡眠不足に悩み、パフォーマンスの合間の長い待ち時間に退屈することもあるだろう。旅続きの生活は厳しい。マドンナのように、ツアーの楽屋に自分の家具を持ち込めるアーティストなど、ほとんどいないのだ。
ツアー生活は、持久力を試す究極のテストと言えるだろう。アンフェタミンを使って気分を高揚させようとした戦後のツアー・ミュージシャンは、ジョニー・キャッシュだけではない。仲間のカントリー・シンガー、ウェイロン・ジェニングスは「みんな、ツアー生活をわかっちゃいない。毎晩、表向きのジョニー・キャッシュになるためには、ハイなままでいないといけないんだ」と語っている。
21世紀のミュージシャンの中には、過酷なツアー中に健康を保つ必要性を自覚している者たちもいる。大きな稼ぎを上げるスターは、専属のシェフ、栄養士、理学療法士、フィットネス・コーチをツアーに帯同している。
サーティー・セカンズ・トゥ・マーズは、2009年のアルバム『This Is War』に連動した‘Into The Wild ツアー’の2年強の間に309公演を行い、ギネス世界記録を打ち立てた。しかし、スケジュール中に休みがあるとしても、ツアー中の小休止は、本当の休みとは違うと感じるミュージシャンもいる。ケイト・ブッシュもかつてこう言っている。
「どうやったら何年間もツアーできるのか分からない。ツアーを止められない人もたくさんいるけれど、彼らはどうやって普通の生活に戻ったらいいのか分からないからでしょうね。ツアーは非現実的なものだから」
ツアーと“ライダー”
ツアー生活は非現実性が強く、常軌を逸した逸話も限りなく存在する。一流ミュージシャンですら、襲われたり、野次られたり、物を盗まれたり、ステージ上で尿をかけられたりした経験がある。しかし大半のミュージシャンにとって、ツアーの利点は欠点を上回っている(だから彼らは続けるのだ)。
ミュージシャンがツアーの時に結ぶ契約書の中には、ツアーに必要なものを明記した「ライダー(付帯条項)」があることも多い。筆者がロニー・スコット・ジャズ・クラブの楽屋でドクター・ジョンと話した際、テーブルに新鮮な野菜を並べた大皿があった。これは70年代のライダーの名残だとドクター・ジョンは説明してくれた。契約書を改定していないため、そのまま残っているという。
ライダーの中には、おかしなまでに突飛なものもある。ハード・ロック・バンドのヴァン・ヘイレンの楽屋には、M&Mの入ったボウルを置かねばならないが、ブラウンのM&Mは除外しなければならない、というのは有名な話である。
技術的な進歩も、ツアー・ミュージシャンの助けとなっている。アイルランドのフォーク・シンガー、クリスティ・ムーアによれば、彼が60年代にイギリスとアイルランドをツアーしていた頃は、自分のギターを持ち運ばなければならず、曲の合間にステージ上でチューニングもしなければならなかったそうだ。今では、彼のツアー・クルーがギターを数本準備し、舞台裏でチューニングしているという。
現代のデジタル・ワールドも、ツアー・ミュージシャンに多くの影響を与えてきた。今ではサインを欲しがるファンはほとんどおらず、誰もがミュージシャンと自撮りしたがるため、ミュージシャンがプライヴェート時間を確保するのはますます難しくなっている。また近年は、昔に比べてコンサートが排他的ではなくなった。観客はスマートフォンやタブレットでコンサートを撮影し、その映像をオンライン上にアップロードすることも多い。
バンドは、自分たちの音楽をオンラインで宣伝することにより、コンサートに足を運ぶ観客を増やすことも可能だ。アークティック・モンキーズはアルバムを出すことなく、オンライン上で数カ月、曲を無料配布することで、ツアー・バンドとして注目された。ツアーで収益を上げるためには、バンド名の認知が重要であることがはっきりと分かるだろう。
ツアーやイベントはロッド・スチュワートが90年代にリオ・デ・ジャネイロの大晦日コンサートで推定350万人の観客を集めたような壮大なものもあれば、ブルースの巨匠ロバート・ジョンソンが街角で少人数の観客に演奏していた頃のような小規模で親密なものもある。
過去10年の動きで興味深いのは、ハウス・コンサートの隆盛である。これは、現代のツアー・ミュージシャンにとって、ギグを獲得し、ファンベースを育て、ツアー・スケジュールの合間を埋めるには良い方法だ。また、音楽ファンがインディペンデント・アーティストを直接サポートする方法であるキックスターターを使ったツアー用資金の調達も、最近増えているトレンドである。
それでは、ツアーは今後どうなるだろうか? 新たな試練も待ち受けていることだろう。UKの音楽業界を代表するBPI(英国レコード産業協会)は先ごろ、ブレグジット/英国のEU離脱が、‘EU市場に制限なくアクセス’できていた英国人ミュージシャンに与える影響について懸念を表明した。しかし、デジタル時代は、その他さまざまなチャンスも提供している。カウンティング・クロウズのようなバンドは、自身のコンサートをプロ仕様でレコーディングし、即刻ダウンロード可能なMP3にして販売している。
ライヴ演奏は、ファンにとってエキサイティングなイベントであるだけでなく、ミュージシャンにとっても試金石であり続けている。また、クリエイティヴな面でも有益だ。ツアーで回った土地を観光し、新たな経験を積み、異文化に触れることが、曲作りのインスピレーションとなるだろう。クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルの「Lodi」からモーターヘッドの「(We Are) The Road Crew」に至るまで、ツアー生活についての名曲が数多く存在するのも、何ら驚くことではない。ツアー中の誘惑ですら、名曲を生み出すきっかけにもなる。結婚してすぐに「Cry, Cry, Cry」のプロモーションをすべくツアーに出た若き日のジョニー・キャッシュは、虚名を求めてやまないグルーピーの誘惑に直面する。そしてこの経験から、彼は名曲「I Walk The Line」を作ったのだった。
音楽を聴く新たなリスナーがいる限り、これからもツアーは続くだろう。ミュージシャンは常に成功、富、クリエイティヴな満足感を求めるだろうが、彼らの多くにとって、ツアーは生きる上で欠かせないものなのだ。80歳を超えても精力的にツアーを続けているボブ・ディランもこう言っている。「大勢の人がツアーに耐えられないが、俺にとっては息をしているようなものなんだ。ツアーをせずにはいられないから、ツアーをしているのさ」。
最後はツアー経験が豊富なキース・リチャーズの言葉で締めることにしよう。ザ・ローリング・ストーンズは2016年3月25日、ほとんどの国をツアーしてきた彼らが訪れたことのない国のひとつだったキューバで公演を行ったが、その理由について彼はこう語っている。
「その先を見てみたいという、俺たちの中の探検家、俺たちの中のクリストファー・コロンブスのせいさ。その先は丸いのか? それとも平らなのか? ってな」
Written By Martin Chilton
2023年3月17日発売
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最新アルバム
メタリカ『72 Seasons』
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