リック・ルービンのパンク・バンド、ホーズのデビュー作とデフ・ジャム帝国の誕生
リック・ルービン(Rick Rubin)は、ジェイ・Z、カニエ・ウェスト、LL・クール・Jなどヒップホップ界の大物たちのヒット作を手がけてきた名プロデューサーとして特によく知られている。だがいまから30年前、彼はロングアイランド出身の多感な白人少年の一人でしかなかった。
そんな彼が現代のアメリカにおける黒人音楽の様相を一変させたのは皮肉なことにも思えるが、事実であることに変わりはない。リック・ルービンは2007年、ニューヨーク・タイムズ紙の取材に対しそう話している。
「デフ・ジャムが生まれる前、ヒップホップのレコードはすごく長いものばかりだった。それに、フックのないトラックがほとんどだったんだ。俺たちはポップ・ソングに近いようなラップ・レコードを作ることで、その形態を変えたんだ」
彼はキャッチーな楽曲やメロディーを好み、ザ・ビートルズやモンキーズのようなラジオ向きの形式で曲の構成を組み立てた。やがてヒップホップがメインストリームに躍り出ることになったのも、もとを辿れば彼のアプローチの影響だったのだ。しかし、そう考えられるようになるずっと前、彼にはアメリカのハードコア・パンク界に身を置いていた時期があった。
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リック・ルービンとパンク
1981年、ニューヨーク大学の一年生で20代になったばかりだったルービンは、熱心な音楽ファンなら誰もが一度は手を出すことを始めた――。彼はギターを手に取り、友人たち(ベーシストのウォーレン・ベル、ドラマーのジョエル・ホーン、リード・シンガーのリック・ローゼン)とともにアートコア・バンドのホーズ(Hose)を結成したのだ。
このグループは同じパンク・バンドのビースティ・ボーイズらと似たDIY界隈で活動をしていたが、このころからルービンに創作の才能があったことは周知の事実だ。ホーズを組む以前、彼は10代をニューヨークのリードー・ビーチで過ごしていた。彼はそこでハイ・スクールの音楽教師から音楽の基礎を学ぶとともに、パンク・バンドのプリックス(The Pricks)を結成した。
プリックスは、イースト・ヴィレッジの人気スポットだったCBGBなどでライヴをしていた。そしてホーズの結成後にそうした経験を活かして作ったのが、デビュー作となるセルフ・タイトルの12インチEPだったのである。1983年4月にリリースされた同作は、間接的とはいえ、とある無名のレコード・レーベルに発展のきっかけを与えることとなった。そのレーベルこそ、ワインスタイン・ホールの寮の712号室で彼が立ち上げたデフ・ジャム・レコーディングスだったのだ。
パンク・ロックは、”異端児たちの遊び場”といえるような存在だ。ヒップホップがその座を奪うまで、パンクは傲慢なその姿勢で”群衆の中の反逆者”として君臨していた。サブカルチャーの一つであるパンクはそのころ、単なる音楽ジャンルの一種ではなかった。それは、反体制的な考え方そのものを指す言葉だったのである。そして、自身も音楽業界の”反逆者”であるルービンは、その両方の世界をうまく使い分けていた。ルービンは2013年、ニューズウィーク誌にこう語っている。
「ハイ・スクールでパンク・ロックをやっているやつは俺しかいなかったけど、ヒップホップが好きな黒人の同級生は少なくとも何人かはいたんだ。どちらも当時の新しい音楽という感じだった。パンク少年は一人だけで寂しかったよ。住んでいた地域のせいもあってパンクスが集まるコミュニティがなかったから、俺はヒップホップ好きの連中とつるむようになった。彼らを通してそのジャンルのことを知ったんだ」
70年代ディスコのセクシーなサウンドに比して、80年代のニューヨークにおけるパンクは雑然としていて、その歌詞は日記の1ページを切り取ったような印象だった。ルービンは2014年、ゼイン・ロウに次のように語っている。
「俺はもともと(UKの)クラッシュやセックス・ピストルズの音楽を聴いていた。だけどマイナー・スレットやブラック・フラッグのようなハードコア・パンク・バンドがアメリカに登場して状況は変わった。アメリカのパンクが心に響くものになった。そういうバンドは、俺にとって共感しやすかったんだ。彼らは自分自身の個人的なことを歌っていたけど、UKのバンドは階級間の対立について歌っていることが多かった。アメリカ人にとってはあまり馴染みのないテーマをね」
メインストリームの音楽にはなっていないにせよ、パンクの人気はアメリカをはじめ世界中――とりわけオーストラリアやUK――へと広がっていった。そしてその楽曲は、数十年に亘ってアンダーグラウンドな若者文化の特徴を形作っていた”不安や苦悩”に満ちていた。
他方、バッド・ブレインズやピュア・ヘルなど象徴的な黒人パンク・バンドは当時、まだアングラな存在として軽視されていた。バッド・ブレインズのベーシストであるダリル・ジェニファーは2007年のインタビューでこう話している
「俺たちはラット・ケージという場所によく出入りしていた。リック・ルービンもそこによく来ていたよ。彼は俺のことを怖がっているような感じだったし、バッド・ブレインズのこともあまり好きじゃないみたいだった。ほかのみんなは俺たちの演奏に釘付けだったけど、彼にはあまり響いていないように思えたんだ。彼はスレイヤーが大好きだったのさ」
そんなパンクと同程度の熱量が、ヒップホップの音楽にもこもっている。近年人気を博しているラッパーたちの作品が、かつてのアーティストたちが得意としていたヒップホップのお馴染みの形態よりもパンキッシュな作風なのはそうした理由からなのだろう。
だが突き詰めてみれば、パンクとヒップホップは同じ穴のムジナである。そしてリック・ルービンは、その二つのジャンルの橋渡しのような役目を担った。彼は都市部の低所得地域の音楽だったヒップホップを、郊外の白人少年たちがカセット・プレイヤーで再生するような音楽にまで押し上げたのだ。とはいえ、そののち必然的に起こったジャンル間の融合がヒップホップにとってプラスだったのか、マイナスだったのかという点については議論の余地があるはずだ。
ホーズの12インチEPとカニエ・ウェスト
ホーズによる12インチEPの正確なリリース日は現在も判明していない。そのジャケットは、現代画家のピート・モンドリアンの有名作品『赤・青・黄のコンポジション』(写真左)をオマージュしたデザインになっている。ルービンによれば、このアートワークは楽曲の骨組みを形作るベースとドラム、そして楽曲に色彩を加えるヴォーカルをモチーフにしたものなのだという。
だが、そのジャケットを見ると、目立たないように組み込まれたある要素に気づく。デフ・ジャムのロゴが、裏ジャケットの下部の黄色いボックスの中に巧妙に配置されているのだ。この商標はのちに、ヒップホップ界における権力の象徴として広く知られることとなった。ルービンのクラスメイトだったエリック・ホッファーは、ニューヨーク・マガジン誌の取材に対しこう語っている。
「(ホーズは)ほとんどチャールズ・マンソンのようで、正気とは思えなかった。相当恐ろしかったよ」
このコメントは、何かに取り憑かれた男の姿をはっきりと浮かび上がらせる。その男はまるでホラー映画の一場面のごとく、何かを切り裂くように激しい演奏をしていたのだ。さらにリック・ホッファーは、ホーズを率いるルービンの活動方針にも困惑したと話す。
「周りの人たちは、彼が何を考えているのか理解できなかった。彼はバンドをやっているのに、夜にはヒップホップ界隈のクラブに出かけていたんだ」
当のルービンにとって、パンクは感傷的な気持ちになれる音楽だった。ルービンはゼイン・ロウに話している。
「長いあいだ演奏し続けていたし、いつだってパンクの世界に身を置きたいと思っていた。自分が特別上手いと思ったことはなかったけれど、演奏するのは楽しかったし、情熱を失ったこともなかった」
ホーズのサウンドは素人っぽいが、実際、彼らは素人だった。それでも彼らは、自分たちの演奏を形に残した。しかも彼らは寮のアクティヴィティ・ルームで、このEPをマイク一本で録音したという。そう考えれば、これはなかなかに勇気の要る偉業だといえるはずだ。
まずは1曲目の「Only The Astronaut Knows The Truth」を聴いてみよう。ドラムと荒っぽくかき鳴らされるギター、そしてそれに対抗するかのようなシンガーの単調な叫び声が合わさって、耳障りにも感じられるトラックだ。この曲の唯一の救いは、終始一貫して鳴り続ける落ち着いたベース・リフである。そのおかげで曲に纏まりが生まれているのだ。
他方、同曲のサウンドの質感は、カニエ・ウェストの作品群の中でも特に評価が分かれるアルバム『Yeezus』のそれを思い起こさせる。ルービンがエグゼクティヴ・プロデューサーを務めた後者ではミキサー、サウンド・エンジニア、演奏陣のいずれも一流の名手たちが起用されていたにもかかわらず、そうした類似性が感じられるのだ。
現在はイェと名乗るカニエがパンク・ロック、メタル、ヒップホップの融合を試みた「Black Skinhead」はその好例といえよう。
またルービンも示唆している通り、パンクの要素は「Bound 2」にも取り入れられている。ルービンはウォール・ストリート・ジャーナル紙にこう説明している。
「フックではR&Bの要素をすべて取り除いて、単音のベースラインだけを残したんだ。スーサイドの先例に倣って、パンクのようなエッジを加えたくて(フックに)手を入れたんだ」
音楽評論家からは激賞されたものの、それでも『Yeezus』はホーズのEP同様、一般のリスナーにはあまり受け入れられなかった。イェの場合、その作風に反発していたのは、”王道のヒップホップ”をやっていた『The College Dropout』のころの彼を忘れられずにいるファンだった。とはいえ、実験的なサウンドの作品だったという点で両者は共通しているのだ。
EPの他の楽曲
ホーズのEPでは各トラックが継ぎ目なく繋がれ、まるで彼らがすべてをワン・テイクで録音したかのような印象を与える。そして2曲目の「Dope Fiend」には、文字通りに受け取ってはいけないようなメッセージが込められている。曲そのものを聴いても、ヴォーカルのリック・ローゼンは曲名(薬物中毒者の意)以外のことをあまり歌っていない。だがこの曲が作られたのは、コカインの蔓延への懸念が高まっていた時期でもあった。コカインはレーガン政権時にアメリカ全土で猛威を振るい、主に黒人たちが住む都市部の低所得地域を蝕んでいたのである。
「Dope Fiend」は、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴの「The Message」や「White Lines」ほど痛烈な楽曲ではない。とはいえホーズの面々も、国内で盛んな議論を呼んでいた問題をこの曲で取り上げたのだ。一方そのころ大統領夫妻は、”麻薬戦争”への対策として国民がやるべきことは「ただノーと言おう / Just Say No」ということだけだと考えていた。まったく笑わせる話である。
ホーズの面々は、ブラック・ミュージックやその担い手であるアーティストたちへの敬意を隠そうとしなかった。リック・ジェームスの楽曲をカヴァーした「Super Freak」は実に楽しいトラックだ。彼らはオリジナルを下手に超えようとすることなく、同曲に魅力的なアレンジを加えてみせた。
このヴァージョンがみすぼらしい安酒場や、あるいはアフロパンクのような音楽フェスで流れてきたことを試しに想像してみよう。男らしさや欲望にまみれたシンセ・サウンドの名ファンク・ナンバーが、装飾を排したポスト・パンク調に生まれ変わったサウンドはそのようなシーンによく合うことだろう。
続く4曲目の「Fire」は可もなく不可もなくといった一曲。他方、EPを締めくくる「You Sexy Thing」(ホット・チョコレートによるディスコ・ナンバーのカヴァー)は、当時のアンダーグラウンド・パンク・シーンのトレンドとまったく無関係とは言えないトラックだ。
ここまでみてきたように、ホーズの12インチEPには欠点もある。ただ、同作は素晴らしい情熱によって作り上げられた力作だ。それにこのEPは、超大物プロデューサー/文化の革新者としてのルービンのキャリアの出発点にもなった。ホーズはニューヨークのインディー・ムーヴメントから生まれたグループであり、この作品はルービンにとっての青写真となったのである。
デフ・ジャムの設立とその後
ホーズのEPが、1984年に発表されたRun-D.M.C.のデビュー・アルバムより2年も前にリリースされていることは興味深い。というのも、ニューヨーク中のクリエイターたちが集結して意見を交わしたり、互いの共通項を見つけて手を組んだりし始めたのが1984年だったのだ。それに、ルービンがラッセル・シモンズとともにデフ・ジャム・レコーディングスを正式に立ち上げたのもこの年だった。
そして翌年に彼は、ラップ・トリオであるRun-D.M.C.の「Can You Rock It Like This」のミキシングに貢献。アルバム『King Of Rock』からのシングルとなった同曲はビルボード・チャートにもランクインした。
さらにこのころ、ルービンは時代の流行を象徴する音楽だった王道のロックンロールにも魅力を見出すようになっていた。当時はエアロスミスやモトリー・クルーといった大物バンドの活躍により、ロック・アーティストが一大勢力となっていたのだ。その上、世界の音楽が発展するにつれて勢いを失ったパンクと違い、ロックにはヒップホップの文脈にも取り込みやすいという特徴があった。つまるところ、音楽業界全体でもっとも人気のジャンルがロックだったのである。
やがてヒップホップは世間の注目を浴びるようになったが、そうなれば自由を重んじる精神も資本主義の前に屈せざるを得ないのが世の常なのだろう。実際、活動の目的が純粋な創作から”大金稼ぎ”に移っていくと、そういったことが起きるのだ。だがルービンは明らかに、ビジネスの規模の拡大を喜ぶような人物ではなかった。ルービンはゼイン・ロウにそう話している。
「(ラッセルと俺は)5年間で信じられないほどの成功を手にした。手に負えないほどの成功だ。でも会社が成長してビジネスの規模が大きくなると、事態はすごく厄介になってしまう。それに、俺たち二人の関心は別々のところに向いていた。俺はいつでも素晴らしい音楽を作ること、それだけを考えていた。だけどラッセルはいつだって、実業家として成功することを考えていた。だから、時として意見が食い違うこともあった。ビジネスの視点からの彼の考えを理解すると、彼が正しいことも分かる。でも俺はあくまで”作品第一”が信条なんだ」
1994年、彼はデフ・ジャムとヒップホップに見切りをつけた。そしてその直前に彼は、ウェブスター辞典に”Def(デフ)”という言葉が掲載されたのを受けて、その単語の葬儀を行っている。1993年、エンターテインメント・ウィークリー誌にはこんな追悼文が掲載された。
「アル・シャープトン牧師は武装した4人の警備員に守られながら、感動的な弔辞を述べた。”Def”はメインストリームのエンターテインメント企業に誘拐され、命を落としてしまった。”Def”を埋葬したとき、我々は同調圧力というもの自体を埋葬したのだ」
改めて振り返ると、この葬儀は90年代当時の様々な”死”を象徴していたといえる。例えば、地域間の激しい争いが起きていたとはいえ、ヒップホップはMTVを賑わす音楽に成り下がってしまっていた。さらに白人の男性ヴォーカル・グループが一大勢力となり、グリーン・デイを例外としてパンクは息絶えていた。つまり、音楽業界とその流行がすべてポップに寄りつつあったのだ。ルービンがキャリアを歩み出したころから、音楽シーンの様相は大きく変わっていたのである。
ルービンはそののち、アメリカン・レコーディングスを率いてハード・ロック、メタル、カントリー・ミュージックの分野を手がけるようになった。だが、やがてヒップホップおよびデフ・ジャム関連の作品に再び関わるようになり、2003年にはジェイ・Zの話題曲「99 Problems」をプロデュースした。どうやら、彼も慣れ親しんだ音楽との関係を完全には断ち切れなかったようだ。そして、当時はヒップホップというジャンル全体が向かうべき方向性を見失い、迷走していたころだった。その時期にあって、東海岸特有の激しいビートを特徴とする「99 Problems」は、ヒップホップがパンク・ロックに接近し得ることを再認識させる一曲になった。
また、このコラボレーションは両者のキャリアにおいて重要な意味を持っていたが、少々皮肉な結果を生むことにもなった。というのも、ルービンは同曲でヒップホップ界に華々しく返り咲いた一方、ジェイ・Zは(一時的なものであったとはいえ)引退しようとしていたのだ。
ホーズの12インチEPはいまも、ルービンの心のどこかに生き続けているはずだ。その面影は、彼がそのキャリアの中で携わってきた無数の作品群のあちこちに垣間見えるのである。だがそう記したところで、おそらく読者からの賛同は得られないだろう。
彼の手腕が目に見える形になったのは、ビースティ・ボーイズの『Licensed To Ill』から、あるいはRun-D.M.C.の『Raising Hell』からだからだ。しかし、彼が音楽に対してもっとも純粋でもっとも大きな影響力を持っていたのは、寮の部屋で仲間たちと騒ぎを起こしていた大学時代だった。
ホーズのEPからもわかる通り、そのころのサウンドやアイデアは――実を結ぶことはなかったにせよ――どこかしっくりとくるものだったのだ。ルービンはゼイン・ロウにこう語っている。
「あれは純然たるパンク・ロックだった。それに、設立当初のデフ・ジャムを動かしていたエネルギーは、”都会的なパンク・ロック”といえるものだった。少なくとも俺たちはそういう風に考えていたんだ。あのころ俺が作っていたレコードは、パンク・ロッカーがヒップホップを作っているような感じだったのさ」
Written By Safra Ducreay
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