パンク・ファンクの偉大なる奇人、リック・ジェームスの波乱万丈な人生
リック・ジェームス(Rick James)はとんでもない奇人だった。彼はパンク・ファンクを生み出したすごい人物だ。しかし歴史は彼に対して辛辣で、彼の創り出した素晴らしいグルーヴを蔑ろにしているが、あのプリンスも彼から影響を受けている。リック・ジェームスはいつもこう言っていた「さあ、もう一回!」って。私たちはそろそろ彼の功績を認めるべき時がきた。彼の人生は波乱に満ちていて、最悪の時代もあった。それでもいつも彼の音楽は輝いている。
当時「U Can’t Touch This」を聴きながら夢中で飛び跳ねていた子供達は、リック・ジェームスが歌声だけではなくあの重厚なベースが弾いていたことを知らなかっただろう。熟練のメロウ・グルーヴァーたちが、自分たちはまだまだ現役だと言わんばかりに80年代に活躍した4人組女性グループ、メリー・ジェーン・ガールズの「All Night Long」に乗せてダンスフロアで踊っている時、彼女たちの仕掛け人がリック・ジェームスであることなど知りもしない。ジャズ・ファンクの愛好家たちがティーナ・マリーの「Behind The Groove」のビートに夢中になり、その曲がヒットした時も、彼らはリック・ジェームスが彼女の成功を支えたことなど知る由もない。リックは多くのパイに指を突っ込みながらも、自ら認めていた通り、その“変態の性質”から、おそらく最後にはクリームを全て舐めて尽くしてしまったのだろう。
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10年以上の下積みから「Super Freak」の大ヒットまで
彼がスターになるための手助けをしたアーティストたちのことはさておき、彼自身の功績を振り返ることにしよう。彼がその名を馳せる前には10年以上の下積み期間があり、10代の頃は複数のジャズ・グループでギターやベース、ドラムを演奏していた。最初のバンドはバッファローで、その後ニューヨークへと拠点を移した。彼が在籍した初めての有名なグループといえば、彼がベトナム戦争への出兵を逃れるために海軍から脱走し、カナダのトロントへと移住した時に演奏していたマイナー・バーズだ。ロックにソウル、そしてヒッピー・フォークの要素を融合したこのグループには、かのニール・ヤングも一時籍を置いていた。彼らはコロンビア・レコードやモータウンから楽曲を発表したが、リリース当時は日の目を見ることはなく、後になって高い評価を受けている。
モータウンはリック・ジェームスとの契約に興味を示していたものの、軍を脱走したことでアメリカ当局が彼を追っていたために難航した。そんな中でも彼はボビー・テイラー、デイビット・ラフィン、ザ・スピナーズらに楽曲を提供、スティーヴィー・ワンダーとの出会いでは大きな成功を生むことはなかったものの、スティーヴィー本人は、当時リッキー・ジェームス・マシューズと名乗り、その後にリッキー・ジェームスとなった(本名は”ジェームス・アンブローズ・ジョンソン・ジュニア”、1948年2月1日生まれ)にいたく入れ込んでいた。リック・ジェームスは1974年にファンキーでロックなシングル「My Mama」をA&Mレコードでリリースしたが、そこから彼がモータウンでヒットを生み、有名になるまで4年もの歳月がかかった。ただ、一度火がついた彼は誰にも止められなかった。
ストーン・シティ・バンドとの1978年のシングル「You And I」は大ヒットを記録し、彼のシンプルながら軽快なファンク・サウンドは幅広い聴衆を魅了した。メロウでラテンの影響も感じられるオープニングの後には、歯を食いしばったようなホーンと元祖女性Pファンク・ヴォーカル・グループのパーレットを思わせるバッキング・ヴォーカルが展開。鋭く、ピーンと張りつめたサウンドが時流に乗り、全米TOP20入りを果たした。何と言っても、その何度もリピートしたくなる曲調が成功の鍵となった。スロウ・テンポの「Mary Jane」はそこまでのヒットにはならなかったものの、この楽曲を収録したデビュー・アルバム『Come Get It!』は成功を収め、それに続く、『Bustin’ Out Of L Seven』『Fire It Up』などの作品によって、このブレイド・ヘアで派手なフォンク・スーツを着た生意気そうな新鋭アーティストがスターとしての地位を確率しつつあることは明白だった。
多作だったリック・ジェームスは、1981年にはデビューから3年目にして5枚目のアルバムとなる『Street Songs』でプラチナ・ディスクを獲得し、今作からジェームスの魔法のようなベースラインと、ダンスフロアにぴったりなグルーヴとで構成される「Super Freak」と「Give It To Me Baby」の2曲が大ヒットを記録した。この名曲は現代においても色褪せることはない。
多彩なる変態
リック・ジェームスは多才な人物でもあり、彼が生んだ“ファンク・パンク”の中のパンクの要素は、音楽的なところよりも、むしろ彼の生き方そのものから生まれている。彼は立派なソウル・シンガーでもあり、「Fire And Desire」や「Happy」といった若きモータウンのスター、ティーナ・マリーとのデュエット曲は、ソウル・バラード同様にパワフルで、80年代初頭において燦然とした輝きを放っていた。スモーキー・ロビンソンと共演した1983年の「Ebony Eyes」は彼が生んだロマンティック・バラードのもう一つの傑作である。
リック・ジェームスが80年代の初めにツアーのサポートに抜擢したことで成功のチャンスを掴んだプリンスは当時多くの楽器を演奏していたが、リック・ジェームスは、その細身からぶら下げたベースを演奏することが常だった。リックは優秀なプロデューサーでもあり、エディ・マーフィーの「Party All the Time」や、テンプテーションズの「Standing On The Top」に加え、最も密接に関わったメリー・ジェーン・ガールズのためには7曲ものヒットを手掛けた。しかしながら、このガールズ・グループの名前は彼の初期のヒット・シングル「Mary Jane」のタイトル以上のものを連想させる。
薬物、病、そして死
“Mary Jane /メリー・ジェーン”とはマリファナの隠語のことである。今や大騒ぎするほどのことではないが、ミュージシャンのキャリアを汚すことなく、マリファナを楽しむミュージシャンたちはいる。ただ、マリファナと違いドラッグはリック・ジェームスにとっての弱点だった。10代の頃からドラッグを始めた彼は、ヘロインに手を出し、コカインを知ってからはやめられなくなっていた。彼は5年もの間、毎週コカインのためだけに、推定7.000ドルもの金額を費やしていたと言われている。1984年に友人宅の床で冷たくなっていたところを発見された彼は、病院へ緊急搬送された。1994年には、フォルサム州立刑務所に2年間服役した(彼が投獄されたのはこれが初めてではなく、米海軍から逃亡していた頃、3度に渡って監禁されていた)。そう、彼は正真正銘の悪ガキだったのだ。
2004年8月6日、彼が心不全で亡くなった時、その体内からは9種類のドラッグが検出された。糖尿病で、ペースメーカーを装着し、以前に軽度の脳卒中や心臓発作を起こしていた彼にとっては到底無謀なことだったが、彼はその事実を死ぬまで明かすことはなかった。亡くなる4ヶ月前に出演したTVコメディ番組『Chappelle’s Show』で自らのドラック服用をふざけて真似ていたリック・ジェームスだったが、実は新たなアルバムの制作にも取り掛かっていた。結局のところ彼が人生において最も愛したのものこそが音楽だったのだ。
リック・ジェームスは、M.C.ハマーが「U Can’t Touch This」の中で無断で「Super Freak」をサンプリングしたことに対して著作権侵害を訴えた裁判に勝訴し、多額の賠償金を手にした。これがきっかけとなり、アーティストたちの中で無償で他人の曲をサンプリングできないのだという意識が芽生え、ヒップ・ホップの在り方が変った。今となってはM.C.ハマーの「U Can’t Touch This」は安っぽい懐メロのように聴こえるかもしれないが、リック・ジェームスの作品は時を経てより一層味わい深さを増し、「Super Freak」はいまだダンスフロアを盛り上げ、1985年のスマッシュ・ヒット「Glow」はその輝きを放ち続けている。「Glow」のベースラインがマイケル・ジャクソンの「Thriller」に似ているのでは、と指摘する方がいるかもしれないが、まったくその通りで、もっと言えば「Thriller」の2年前となる1981年に発表されたリック・ジェームスのクラシック・ヒット「Give It To Me Baby」はほぼ瓜二つと言っても過言ではない。
この世から去ってしまった彼が自らの奇抜なライフスタイルについて語り明かすことも、笑い飛ばすこともないが、今尚光を放つ彼の音楽が全てを物語っている。
Written by Ian McCann
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