記憶の中に永遠に生き続けるロニー・レインの想い出
ロニー・レインはいつも微笑みを浮かべていた。それはスモール・フェイセス、フェイセズ、スリム・チャンスに在籍したこのベーシスト/ソングライターを誰もが懐かしく思い出す理由のひとつでもある。ロニー・レインの誕生日は1964年4月1日で、もしもまだ健在であったなら、77歳になっている。
“プロンク”の愛称で皆に親しまれたロニー・レインは稀有な才能に恵まれたミュージシャンでもあり、その音楽的な功績は前述の3組のバンドのアルバムやさまざまなかたちで残されたパフォーマンスで確認することができる。このうちロニー・レインのスモール・フェイセス時代の仕事は、ロンドンのウォータールー駅からほど近いボールツ・シアターで開演となったミュージカル『All Or Nothing』で再び注目を集めていた。
スモール・フェイセス及びフェイセズにおける仕事ぶりが認められ、2012年にロックの殿堂入りを果たしたロニー・レインは、スモール・フェイセスのその他のメンバーと同様、イギリスBBCの長寿ドラマ『イーストエンダーズ』を地で行くロンドンっ子だった。
スモール・フェイセスのソングライティングの要はロニー・レインと、フロントマンのスティーヴ・マリオットで、彼らは「Itchycoo Park」、そして「All Or Nothing」といった普遍的な名曲を残している。1960年代のイギリスにはR&Bの影響を受けたビート・バンドが無数に存在したが、この「All Or Nothing」のようなオリジナル・ナンバーのおかげで、スモール・フェイセスは、そうしたグループの中でも最もクールで先鋭的なバンドと見做されるようになった。
ロニー・レインはフェイセズでも、その成功に不可欠な役割を果たした。1970年代に発表されたグループの作品やそのツアーで披露された閃きに満ちた演奏、そこにあふれていた酒場のほら話のようなムードと人懐こいユーモアはロニー・レインがもたらしたものである。
ロニー・レインのルーツ・ミュージックに対する傾倒は、フェイセズ時代に発表された自作曲「Ooh La La」にも聴き取れたが、彼は、その後スリム・チャンスを結成し、ルーツ・ロック路線をさらに追及。グループの代名詞ともいうべきヒット曲「How Come」、華やかな「The Poacher(邦題:密猟者)」といった傑作を生んだ。そして1977年にはピート・タウンゼントとの連名作『Rough Mix』を発表。見過ごされがちなこのコラボレーション・アルバムもまた、きわめて魅力的な1枚である。
ロニー・レインが多発性硬化症という診断を受けたのは、この『Rough Mix』のレコーディング中のことだったが彼は決して諦めることなくこの病と闘い、1979年に4作目のソロ・アルバム『See Me』を完成させた。
また1983年には多発性硬化症の研究機関の援助を目的に、ロニー・レインと交流のあるミュージシャン――エリック・クラプトン、スティーヴ・ウィンウッド、ビル・ワイマン、チャーリー・ワッツ、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジら――が一堂に会した慈善公演”ARMS (Action into Research for Multiple Sclerosis)”が初めて開催された。ロニー・レインは、ロイヤル・アルバート・ホールで行われたこの歴史的なイベント(客席にはチャールズ皇太子とダイアナ妃の姿もあった)のアンコールに出演。「Goodnight Irene」で感動的な歌唱を披露した。
さらに数回の”ARMSコンサート”を成功させたあと、ロニー・レインはアメリカに移住。顔触れを一新したスリム・チャンスを率い、彼の地で活動を続け、1997年6月4日になくなった。彼はもういない。しかしロニー・”プロンク”・レインは人々の記憶の中に永遠に生き続けることだろう。
Written By Paul Sexton
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