夫婦デュオ、デラニー&ボニーのデラニー・ブラムレットを偲んで
デラニー・ブラムレットは、妻のボニーと組んでブルース、ロック、ゴスペルをミックスし、極上のアメリカン・ルーツ・ミュージックを作り出した偉大なるソングライター/ギタリストだった。
デラニーがミシシッピ州ポントトクで生まれたのは1939年7月1日のことだった。この偉大なるソングライター/ギタリストは、妻のボニーと組んで極上のアメリカン・ルーツ・ミュージックを作り出した。またそうした活動の中で、さまざまなミュージシャンとも親交を深めていった。彼が親しく付き合ったミュージシャンの中には、エリック・クラプトン、ジョージ・ハリスン、オールマン・ブラザーズ・バンドのグレッグ・オールマンとデュアン・オールマン、レオン・ラッセルといったそうそうたる顔ぶれが並んでいる。
20歳の誕生日を迎えたころ、デラニーはロサンゼルスに移り住み、すぐにセッション・ギタリストとして引く手あまたの存在になった。テレビの音楽番組『Shindig』では、ハウス・バンドのシンドッグズのメンバーとしてレオン・ラッセルと共に度々演奏していた。そのころ既に、彼の未来の妻ボニー・オファーレルは十代にしてアルバート・キングのバンドやアイク&ティナ・ターナーのアイケッツで歌っていた。
デラニーとボニーは1967年に結婚。それからすぐにスタックス・レーベルと契約する。スタックスは黒人経営者がオーナーだったが、白人も黒人も区別なく扱うという進んだポリシーを持っており、デラニー&ボニーとの契約にもそうしたポリシーがはっきりと表れていた。この白人デュオのファースト・アルバム『Home』は1969年にスタックスから発売される。プロデュースを担当したのは、ドン・ニックスとドナルド・”ダック”・ダン(ブッカー・T&ザ・MG’sのメンバー)だった。
このアルバムのレコーディングには、ブッカー・T&ジ・MG’sのメンバー全員に加えて、ラッセル、アイザック・ヘイズ、ウィリアム・ベル、カール・ラドル(のちにクラプトンと共にデレク&ザ・ドミノスを結成)も参加している。アルバムはヒットしなかったが、ふたりはエレクトラ・レーベルに移籍し、デラニー&ボニー&フレンズというグループ名を名乗るようになる。
ふたりのファンとなったミュージシャンはさらに増え続け、クラプトンやハリスンもその仲間入りをすることになった。デラニー&ボニーはレオン・ラッセルと「Superstar」を共作し、さらにはクラプトンのファースト・アルバム『Eric Clapton』(1970年発表)にも「Let It Rain」を提供している。
ハリスンは、デラニー&ボニーにアップル・レーベルとの契約まで持ちかけた。ふたりはその契約を進めようとしたが、結局アップルとの契約話はご破算となり、エレクトラとの契約も打ち切られてしまう。クラプトンは1969年にブラインド・フェイスでツアーした際にデラニー&ボニーを前座に起用し、アトコ・レーベルとの契約もお膳立てした。
以後デラニー&ボニーは充実したアルバムを何枚か発表し、ツアーも続けたが、1973年に離婚している。その後もふたりは芸能活動は続けたが、デラニーはアルバム『A New Kind of Blues』を出したあと、2008年に亡くなった。
一方ボニーはバッキング・ヴォーカリストや俳優として活躍を続け、1991~92年にはテレビのコメディ番組『ロザンヌ』に度々出演した。ちなみにデラニー&ボニーの娘ベッカは、1990年代にフリートウッド・マックに一時期メンバーとして加わっている。
デラニー&ボニーのスタックスでのデビュー・アルバム『Home』はチャートではヒットしなかったかもしれない。しかしこれはアメリカーナ風味を存分に讃えたサザン・ソウルの傑作だった。ここにはふたりのオリジナル曲に加えて、「My Baby Specialises」や「Things Get Better」といったR&Bの名曲のカヴァーも収められている。これは、いまだに輝きを失っていない必聴の名盤だ。ルーツ・ロックに多大なる貢献をしたデラニーの功績は、もっと称讃されるべきだろう。
Written By Paul Sexton
- デラニー&ボニー、デレク&ザ・ドミノスらが集結した『D&B Together』
- デラニー&ボニー&フレンズの曲をカーペンターズが歌い大ヒットに
- デラニー&ボニーがスタックスから発売したデビュー盤『Home』
- デラニー&ボニー関連記事
『Home』