プロデューサーのラインハルト・マックがフレディ・マーキュリーとの制作秘話を語る独占インタビュー
過去にクイーン、エレクトリック・ライト・オーケストラ、ザ・ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリンといった名だたる大物たちの作品を手掛けてきた著名ドイツ人レコード・プロデューサーのラインハルト・マックは、クイーンのフロントマン、フレディー・マーキュリーに初めて会った時のことを鮮明に覚えている。2人はドイツのビアガーデンで酒を飲みながら意気投合した。彼は、その後クイーンのアルバム『The Game』『Flash Gordon』『Hot Space』『The Works』や、フレディ・マーキュリーのソロ・アルバム『Mr. Bad Guy』でグラミー賞にノミネートされた。現在70歳のラインハルト・マックはuDiscover Musicの独占インタビューに答えてくれた。
「1980年に初めて出会った時のことをよく覚えています。ゲイリー・ムーアとロサンゼルスで仕事をしていた時、クイーンがミュンヘンのミュージックランド・スタジオ入りする予定で、私の助けが必要になるかもかもしれないと言われたんです。それで航空券を購入し、ミュンヘンへと向かいました。そこでフレディに会い、“ここで何をしているんだい?”と訊ねられたので、クイーンが私と仕事をしたがっているかもしれないと言われたことを伝えたところ、バンドはジャパン・ツアーに出る予定になっていて、イギリス国外で過ごせるのはあと2週間、だから特に考えてはいないとのことでした。それから唐突に、 “それはさておき、ここには素晴らしいビアガーデンがあるって聞いたんだけど”と切り出されたんです。ちょうど初夏の頃で外は凄く心地よかったんで、僕たちはチャイニーズ・タワーへビールを飲みに向かいました」
「凄く奇妙な光景だったに違いない」
「その後に起こったことは、それはそれは可笑しいかったです。フレディーはバレリーナ・シューズと、それからハワイアン・シャツとマッチする短パンを着ていました。そのビアガーデンは満席で、およそ8,000人から10,000人くらいの人がいて、私達はそんな人ごみを通り抜けなければなりませんでした。僕たちは2人並んで歩き、彼は僕に腕を絡ませてました。その後ろを彼の関係者達がぞろぞろと続いた。もの凄く奇妙な光景だったに違いありませんね」とラインハルト・マックは笑いながら当時を振り返る。
「ビールを飲んで凄くハッピーな気分になった僕達は、その後スタジオへ戻り、アルバム“The Game”のシングル‘Crazy Little Thing Called Love’に取り掛かったんです。フレディーはギターが弾けないんですが、とにかくメロディーをプレイしてみると言って、結局彼が即興でプレイしたものをレコーディングすることにしました」。
「その数時間後、ドラマーのロジャー・テイラーとディーキー(ジョン・ディーコン)がやって来たんで、もしよかったら曲を聴いてみないかと訊ねてみました。しかし彼等は迷っていた上に、私がセットアップしたスタジオが少々ベーシック過ぎると思っていた。だから私は“とにかくちょっと聴いてみて欲しい。人生の中の3分なんて何てことないだろう。もし気に入らなかったら、テープを消去し、それで終わりさ”と彼等に伝えました。それで結局テープを聴いてもらって、“オー、これ凄く良いね。完成させるべきだ”と言ってくれたんです。こうして彼等との仕事が始まり、この数時間後には、フレディーがミュンヘンのホテルで書いたあの傑作‘Crazy Little Thing Called Love’が完成しました」
「彼は即座に素晴らしいアイディアを思い付いていた」
楽器販売を行なう両親を持つラインハルト・マックは、子供の時にピアノとクラリネットの弾き方を習った後、エレキギターに乗り換え、十代の頃にバンドを組んだ。
「あのバンドはひどかったね。多くの人に‘地球上で最もうるさいバンド’と呼ばれ、新聞を賑わせていました。とにかく相当うるさかった。うるさいことで、技術的に酷い面をごまかすことが出来ていました」
やがて彼は、プロデューサー&エンジニアの専門家として活動するようになる。クイーンの伝説的アルバムを幾つか手掛けた後、1985年にはフレディ・マーキュリーのデビュー・ソロ作『Mr. Bad Guy』のエンジニア兼共同プロデューサーとして雇われた。また今作では、ドラムスとシンセサイザー・プログラミングも指導している。そんな彼が、クイーンとの仕事上の関係で思い出すこととは?
「アルバム制作過程は、まるで定まったやり方のないものでした。フレディーは当時ミュンヘンに住んでいて、私は彼のアパートへ午後1時か2時頃に車で迎えに行っていた。そうして僕たちスタジオへ行き、そこで何をするか決めていました。しばらくの間スクラブルに興じたり、時にはショッピングに出掛けたりもしながら、その間ちょっとレコーディングを行なったりしていました。彼はたいがい15分から30分くらいで物凄く良い感じのアイデアを思い付くんです。完璧な“曲”という形ではなくても、とにかくいつも何かを見つけることに長けていた。一瞬の内にメインのサビを考え出すこともありました。彼がそれを膨らませ、僕がそれら全てをひとつの作品として編集していきました。そうして曲のバックボーンが出来た時は嬉しかったですね。いつもだいたい午後7時くらいまで夢中で取り組んで、その後ディナーを食べに行ったものです」
アルバム『Mr. Bad Guy』は報酬目当てではなく、好きで取り組んだ仕事であり、完成までに2年近くかかった。フレディ・マーキュリーは全11曲を書き、ヴォーカルを担当し、ピアノとシンセサイザーを演奏し、オーケストレーションをアレンジし、思い描くサウンドを生み出すのにラインハルト・マックと労を惜しまず働いた。
「それらの楽曲すべてがフレディそのものだった」
ラインハルト・マックは、フレディ・マーキュリーと共演するプレイヤーとして、ドラマーのカート・クレス、ギタリストのポール・ヴィンセント・グニア、ベーシストのステファン・ヴィスネット等、バラエティーに富んだ地元ミュンヘンのセッション・ミュージシャンを起用した。ここにカナダ人リズム・ギタリスト/シンセサイザー・プレイヤーのフレッド・マンデルも加わった。
「その時々に僕たちが求めていたミュージシャンを選びました。一時期フッド・マンデルが来てくれましたが、彼は本当に素晴らしいプレイヤーでした。その他の面々も以前からの知り合いで、僕たちが求めているものを演奏し、具体化できる頼りがいのある地元スタジオ・ミュージシャン達でした。音符など、書き留めてあったものは何もなかったので、みんなのイマジネーションが頼りでした。“これをファンキーなスタイルで、もしくはここに合った感じでプレイできるかな?”とフレディが訊いたりしながら。フレディは彼らのことが凄く気に入っていました。スタジオ・ミュージシャン達はほとんど言い返すこともなく、振られたアイディアを基に最大限の努力をしてくれた。時には、これは良いけどこうこうこうした方が僕としては嬉しいとか、これを外してやってみないかといった提案もありました。フレディはそういったやりとりをとても楽しんでいたし、彼等も凄く上手でした。だから文句のつけようがありませんでした」
ラインハルト・マックは『Mr. Bad Guy』をずっと誇りに思っていると語る。
「‘Let’s Turn It On’が特に好きなんですが。と言いながらもアルバム収録曲全てお気に入りです。それらの楽曲すべてがフレディそのものでした。多くの人はフレディが聴き手の要求に応じることを期待していました。でも彼はそう望んではいなかった。そして僕達は曲をあるがままの状態にしたいと思っていました。ですから私はあえてミキシングには参加しないようにしていた。と言うのも、彼はその段階で新しいアイデアをあれこれ求めてはいなかったからです。もう既に素晴らしかったですし、それをわざわざ変えるために関わるようなこと、つまり最後の最後でレンブラントの自画像に鼻を描き込むようなことはしたくありませんでした」
「僕たちは仲の良い友達になった」
ラインハルト・マックとフレディ・マーキュリーは仕事上の関係以外でも、親しい間柄にあった。フレディ・マーキュリーは彼と彼の家族と一緒に過ごすことが大好きだった。
「僕たちは仲の良い友達になりましたが、自分のお金がどこへ消えていたのか、少なくとも今ならはっきりと分かります」と彼はジョークを飛ばす。「フレディと僕の妻のイングリッドはよく買い物に出かけていました。信じられないなかった。彼が写真の中で着ていたトラックスーツ、例えばあの印象的な黄色いスーツを覚えているでしょう?ああいったのは全て、妻と買い物に出かけた時に手に入れた物なんです」。
ラインハルト・マックとフレディ・マーキュリーはクイーンのアルバム『Hot Space』(1982年)のレコーディング中、フレディ・マーキュリーとジョン・ディーコンがラインハルト・マックの三男ジョン・フレドリック・マックの名付け親になった時に、その強い絆を実感したという。
「“Hot Space”のセッション中、イングリッドが“みんながそのアルバムを完成させることよりも、私が子供を身籠り、産むことの方が簡単なんじゃないかしら”と言ったのがきっかけでそういう話になったんです。結局アルバムは、息子の誕生よりも4週間長くかかりました」。
フレディ・マーキュリーはマック一家の生活に欠かせない存在となった。「フレディは僕の子供達の誕生会には必ず来てくれましたが、その中でも特に印象に残っている回があります」と彼は振り返る。「‘It’s A Hard Life’のビデオで彼が着ていた奇抜な赤い服を覚えていますか?ともかく、彼は息子ジュリアンの誕生会にあれを着て来たことがありました。僕は彼がそんなことは絶対にやらないと思っていました。でもフレディーときたら、“さあ見てくれ。僕には何だって出来るんだぜ”と言わんばかりでした」。
「彼はダリのサイン入りの絵を買ってくれた」
クイーンのシンガーはささやかな喜びにも夢中だったとラインハルト・マックは明かす。
「僕たちはよく卓球をしました。彼は卓球がすごく上手でした。彼を一度も打ち負かすことはできませんでしたし、僕よりずっと上手いジュリアンも、“彼には勝てないよ”と言っていたものです。フレディはテニスもとても上手でした。ミュンヘンには2年近く住んでいましたが、毎日仕事していたわけではなく、例えば天気が良い日は、それがスタジオへ行かない言い訳になり、みんなスイミング・プールで楽しく過ごしたものです。僕たちはしょっちゅう一緒に食事したりと、凄く仲良くなって、彼は心を開いてくれた。(名付け親になった)リトル・フレディのことも凄く気にかけてくれて、自分の名付け子がちゃんと食べているか、ちゃんと早く寝ているか、ちゃんと睡眠時間を取っているかと、彼の母親よりも心配してくれたものです」
フレディ・マーキュリーは彼にとって、思いやりのある、気前の良い友達だったとラインハルト・マックは懐かしむ。
「とても優しい人でした。色々なことを覚えていて、巨大なテディベアとか、僕の子供達のためにとてつもないプレゼントを買ってくれたものです。ある時、2人で絵画について話していた時、僕がサルバドール・ダリの本を持っていて、ここには素晴らしい作品が詰まっているんだと彼に伝えたんです。すると数日後、スタジオへやって来た彼が、ミキシング・コンソールの上に荷物をポーンと投げて、“開けてみて、開けてみて”と言いました。中身はサイン入りのダリの絵のコピーでした。僕が凄く良いねと言うと、“いやいや…これは君のために持って来たんだよ。ダリが好きだと思ってね”とフレディが言うんです。あれは素敵でしたね。ちょっとぶっ飛んではいましたが、とにかく彼は気前の良い人でした」
「ミック・ジャガーの母親が、リハーサル中に彼に電話を掛けてきた」
ラインハルト・マックは音楽で素晴らしいキャリアを築き、クイーン以外にも現代における最も偉大なバンド達と仕事をしてきた。
「ザ・ローリング・ストーンズのアルバムは過去に2作品を手掛けていて、おそらく10回に分けてセッションを行っていたと思いますが、そこからあの“Black And Blue”と“It’s Only Rock And Roll”が誕生しました。セッションはあまり計画的に行われたものではなくてね。ザ・ストーンズの場合、ひたすら演奏して、その全てをずっとレコーディングしていました。どれだけテープを使うかは関係なく、彼等が演奏している間はひたすら回していた。当時は色々と大変でしたね。と言うのも物凄い量のドラッグを摂取していたので、レコーディング・セッションが2時からスタートすることもありました。夜中の2時ですよ。だからかなり大変でした」
ラインハルト・マックは、当時の無秩序な彼らの別の一面を見た出来事を記憶している。
「ある曲のリハーサルを行なっている時、ミキシング・ブースの電話が鳴り、ある女性が私に“マイケルをお願いします”と言うんです。それで私は“ミックのことですか?彼は今セッション中なので、伝言を聞いておきますよ(*註:ミック・ジャガーの本名はマイケル)”と伝えたんですが、すると彼女は、“ダメダメ。お母さんだと伝えてちょうだい。今すぐマイケルと話がしたいのよ”と頑として言うんです。それでレコーディング・ブースの窓まで行って、ミック・ジャガーに向かって電話を振りました。そうしたら彼は、“ダメ、ダメ、ダメ”と言っているのが口元で分かってね。だから僕は“お母さんからなんだけど”と口で分かるように伝えた。すると、“ああ、まったく。おいみんな、ちょっとプレイを止めてくれ”という彼の声が聞こえてきたんです。そうして彼は真っすぐ電話のところまでやって来たんだ。お母さんが相手だと、年齢に関係なく効き目があるもんですね」
「ロバート・プラントは車椅子から転倒した」
ラインハルト・マックは、クイーンやストーンズの仕事以外にも、エレクトリック・ライト・オーケストラと20世紀を代表するベストセラー・アルバムのプロデュースも手掛けた。
「あれはクイーンとの経験とは大きく異なっていました。ELOを創設したジェフ・リンとの作業は、ひたすら仕事、仕事、仕事、仕事でした。四六時中ね。午前11時から朝の1時まで。彼は非常にイギリス人らしい個性の持ち主で、それまで理解していると思っていた人が、朝仕事先へ行ったら、自分がそこにいることすら認めてくれず、惨めな気分になるんです。それがビールを何杯もひっかけて、真夜中を回った頃、彼は僕の膝の上に座りながら、私がどれほど素晴らしいかを語ってくる。そうしてまた次の日も同じことの繰り返しで、不機嫌な爺さんが入って来る。そうして1日一緒に仕事をして、酒を何杯も飲んだ後、再び膝の上に座るジェフがそこにいるんです」
90年代には、アフロ・キューバン・ジャズ・ピアニストのゴンサロ・ルバルカバとも仕事をした経験を持つラインハルト・マックは、半世紀が経つ今も音楽業界で活躍中である。そうして現在は、シンガーのケイト・ベックとの仕事に取り組んでいる。東京に住む彼女は、ロサンゼルスを仕事の拠点としているが、現在仕事でアメリカまで行くことのないマックは、彼女とインターネットを通して連絡を取り合っているそうだ。
もうひとつあの時代の思い出深いコラボレーションと言えばレッド・ツェッペリンだ。彼は1975年のアルバム『Presence』でアシスタント・エンジニアを務めている。
「当時のエンジニアは、その後自動車事故で亡くなったキース・ハーウッドでした。あまりにも奇抜なアルバムでしたから、私はクレジットされたくありませんでした。ミュンヘンでのレコーディング・セッション中、ロバート・プラントは足にギブスをしていて、車椅子生活であまり上手く動けなかったので、みんなでヴォーカル・ブースまで連れて行っていたんです。夜にはコカインを大量に摂取しているミュージシャンもいて……。それでそう、ロバートは用を足す時、スタジオとロビーを通過しなくてはならないミュージックランドのトイレへスムーズに行くことができず、すごく時間が掛かっていました。そこでは彼は自分のいるヴォーカル・ブースから、スタジオの脇にある非常口が近いことに気づいたんです。結局そこまで車椅子を動かし、ドアを開けて、下の階へ通じる階段目掛けて用を足していました」
「ある時彼は、運悪くも身体を傾け過ぎてしまい、車椅子がひっくり返ってしまった。おまけに防火扉だったんで、ドアが自動的に閉まってしまい、彼はドアの外側でひっくり返ってしまったんです。しばらくして、誰かが“ロバートは何処だ?”と言い始めて、みんなであちこち探し回りました。その時私はふと気付いたんです…“あっ、あそこに居るんじゃないかな”と。彼はまだそこに横たわっていた。それで再び足を骨折していないかどうか検査するために、車で彼を病院まで連れて行きました」
「フレディーは天才だった」
一緒に仕事をしてきた数多の偉大なミュージシャンの中で、彼はフレディ・マーキュリーをどのように評価しているのだろうか。
「フレディは音楽そのもので、天才でした。僕が何かアイデアを思い付くと、彼はそれ以上のものをやってのけたものです。色々な意味で彼は自分が過去にやってきたことの上を行っていた。ああ凄いな、どうしたらそんなことを思いつくことができるんだろう?と思ったものです。彼は素晴らしいピアニストであり、ギターの腕はたいしたことないと本人は言っていましたが、実際には凄く上手かったんです」
「彼はたとえばヒルトン・ホテルから小さなメモ帳を持って来ては、そこに‘A, F, C’みたいなコードを書いていく、次の行にはそれに続くコードを書くといった感じで、それが10ページにもなると、“あっ、曲が出来たぜ。良い感じだ。既に音が聴こえている”と言うんです。それで私は、コード構成は何となくわかるけれど、メロディをちゃんと聴いてみたいものだと伝えると、彼はその上に何か素晴らしいものを乗せてきたりするんです」。
「それまでの自分を覚えていて欲しいと願った」
ラインハルト・マックは、エイズとの闘いの末、この世を去ったフレディ・マーキュリーの身に起こったことを考えると胸が痛むと言う。
「(私の妻の)イングリッドと子供達は、ロンドンにいるフレディの元へ行っては一緒に過ごしていました。私が最後に会ったのは、スコットランドへの道すがらロンドンに立ち寄った時でした。あまり調子良さそうではありませんでした。病名は明らかにしてませんでしたが、みんな気付いていました。でも敢えて口にする者もいませんでした」
「その後私達は彼と電話で話をしましたが、私や私の家族にはもう会いに来て欲しくないと言っていました。恐らく、もう長くはないと分かっていた彼は、以前の自分のままで覚えていて欲しかったのでしょう。立派な態度だと思いました。元気いっぱいで、卓球をやったり、食べるものについて文句を言ったり、自分の好きなものや嫌いなものについて話していた頃の自分をずっと覚えていて欲しかったのでしょう。本当に素晴らし人物でした。立派な男でした。偉大な人を亡くしてしまったものです」
Written By Martin Chilton
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