レインボー『Difficult to Cure』:最も磨きのかかった、とっつき易く完成度の高い作品

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初代ヴォーカリストのロニー・ジェイムス・ディオをフロントに携えた、大物ハードロック5人組のレインボーは、最初のLP3枚をリリース、内3枚目に当たる1978年発『Long Live Rock’ n’ Roll』はUKトップ10入りし、「LA Connection」及びアンセムとは名ばかりのマイナー・ヒット・シングルを数曲生んだ。

しかしながら、ギタリストであり主導者のリッチー・ブラックモアは、自分のバンドがメインストリームで成功しないことに苛立ち、大幅な変化を模索していた。その結果、1979年に『Down To Earth』で再登場した時、レインボーはフロントマンに、イギリス、スケグネス生まれで元R&Bの優等生グラハム・ボネット迎え、ベースはボブ・デイズリーに代わり、ブラックモアのディープ・パープル時代のバンド・メイト、ロジャー・グローヴァーが加入していた。

‘I Surrender’ hit the No.3 spot in the UK

リッチー・ブラックモアの過激な入れ替えはすぐさま実を結んだ。UKロック週刊誌サウンズが“ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル”という新しい用語を作ろうとしていて、ホワイトスネイクやモーターヘッドのような地元産ハード・ロック・へヴィ・メタル軍団が競争相手として現われようとしていた、そんな時代だった。『Down To Earth』は、コンテンポラリーでありながらラジオ受けするサウンドを提供し、「Since You’ve Been Gone」と「All Night Long」といった不朽のUKトップ10ヒットを2曲生み、ついにはUKアルバム・チャート6位に輝いた。

その後レインボーは同ライナップで、1980年夏にキャッスル・ドニントンで開催された第1回モンスターズ・オブ・ロック・フェスティバルでヘッドライナーを務めたが、1981年リリース『Difficult To Cure』のレコーディングに着手した頃、再びメンバー内の大混乱がバンドの発展に暗い影を落とした。新曲が完成されようとしていた頃、コージー・パウエルとグラハム・ボネットの両者が脱退し、彼等の代わりにドラマーのボビー・ロンディネリとヴォーカリストのジョー・リン・ターナー(イーグルス調USソフト・ポップスターであるファンダンゴの元メンバー)が制作途中に招集された。

そうしてジョー・リン・ターナーとボビー・ロンディネリは厳しい試練に耐え抜いた。ジョー・リン・ターナーは、採用された時にはバッキング・トラックがほぼ完成していた為、自分が心地よく感じる場所に入ることは許されず、いつもよりも高いキーで歌うことを強いられた。しかし、『Difficult To Cure』はレインボーの作品中で間違いなく最も磨きのかかった、とっつき易く完成度の高い作品であり、30年以上経った現在でも、そのバンド内の継ぎ目はリスナーには殆ど分からないだろう。

アルバムの代表曲は今もなお、ラス・バラード作の活気溢れる「I Surrender」(7インチとして、UKチャート3位まで上り詰めた)だが、『Difficult To Cure』は堂々としたリフとアンセムのようなコーラスに溢れた作品だ。例えば、魅力的なナンバー「Can’t Happen Here」、野心的でネオクラシックなタイトル・トラック(ベートーベンの「交響曲第9番」が基になっている)、それからリッチー・ブラックモア屈指の背筋がゾクゾクするようなソロを堪能できる情熱的な「Spotlight Kid」等、特筆すべき場面が数多くある。

 

難産だったにも拘らず、1981年2月3日にリリースされた『Difficult To Cure』はUKトップ10にチャートインし(ゴールド・ディスクを獲得)、バンドはその後、AORに傾倒した『Straight Between The Eyes』1982年にリリースしアメリカ本土で成功を手にした。リッチー・ブラックモアとロジャー・グローヴァ―が再結成されたディープ・パープルに参加する為に、レインボーは1984年に(一時期)解散したが、1997年以降ロックの描く風景に散発的に出現しており、リッチー・ブラックモアは最近2016年夏のライヴ日程を発表している。

Written by Tim Peacock


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