プログレッシヴ・ロックとフュージョンがよく似た親類同士になった1970年代

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Photo: Michael Ochs Archives/Getty Images

プログレッシヴ・ロックとジャズ・フュージョンが初めて登場したころ、これら二つのジャンルは互いにかけ離れた存在だった。マイルス・デイヴィスが作り出したジャズ・ロックの記念碑的作品『Bitches Brew』と、ジェントル・ジャイアントのデビュー・アルバムでクラシック音楽に影響を受けた、過剰なまでにプログレ志向の強い『Gentle Giant』 の2作を比べてみればわかる。

どちらも、熟練した音楽的技量と大胆な新しいヴィジョンによって1970年当時、世界に衝撃を与えた作品だ。しかし一方で、この二つは、プログレとフュージョンのあいだにある違いをくっきりと浮かび上がらせていた。プログレッシヴ・ロックの特徴が華麗で複雑にアレンジされた職人的名人芸にあったのに対し、フュージョンのそれは自由奔放で即興志向の演奏を延々と繰り広げるところにあったのである。

しかしながら、すべてのプログレッシヴ・ロック・バンドが荘重なバロック・ロック志向だったと即断するのは誤りである。モーツァルトよりもマイルス・デイヴィスに夢中になり、プログレッシヴ・ロックを志向した1970年代のロック・ミュージシャンたちは、高度にアレンジされたシンフォニック・ロックを避けて通り、よりジャズ的な方向に進み、テクニック重視の演奏を披露するようになったのである。

こうした異種交配的な流派の中には、プログレッシヴ・ロック・シーンから生まれたフュージョン・バンド (ギルガメッシュ、ハットフィールド&ザ・ノース、ブランドX、コロシアムII) 、後に有名なフュージョン・ミュージシャンを輩出したプログレッシヴ・ロック・バンド (U.K.) 、境界線を跨いだ両方の側で活動したグループやアーティスト (ゴング、フランク・ザッパ) などが含まれていた。

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英国のカンタベリー・シーンでの異種交配

プログレッシヴ・ロックとフュージョンのこうした異種交配の中で、おそらく最も大きな動きとなったのは、英国のカンタベリー・シーンだったと言っていいだろう。1960年代後半のカンタベリーには、ソフト・マシーンを中心としていくつかのバンドが登場し、彼らが構成する緩やかな一群はジャズの理知的なハーモニーの革新性と即興のエネルギーをロックというフォーマットで表現していった。

カンタベリーの重要なバンド ―― たとえばキャラバンや初期のソフト・マシーンといったグループは、どちらかといえばロックに傾倒していた。しかしながらハットフィールド&ザ・ノース (このグループには元キャラヴァンのベーシスト/シンガー、リチャード・シンクレアが参加していた) のようなバンドは、ジャズ/フュージョンの領域に足を踏み入れていた。

ハットフィールド&ザ・ノースが1974年にリリースしたデビュー・アルバムでは、チック・コリアの影響を受けたデイヴ・スチュワート (のちにユーリズミックスを結成した同名のミュージシャンとは同姓同名の別人) の印象主義的なエレクトリック・ピアノと、ピップ・パイルの派手なスウィング・スタイルのドラムスが、間違いなくジャズ寄りの方向性を打ち出していた。

このアルバムでは、多くのパートでヴォーカリストは歌詞をうたうことなく。その声は楽器のように使われている。また、このバンドのギタリストだったフィル・ミラーはポスト・バップ風の演奏スタイルを捨て、より曖昧なサウンドを追求していたが、それはジミ・ヘンドリックスというよりはジョン・マクラフリンのプレイに近いものだった。

ハットフィールド&ザ・ノースの親類と言っていいグループだたのがギルガメッシュである。スチュワートはギルガメッシュの1975年のデビュー・アルバムで共同プロデューサーを務め、時にはこのバンドの演奏にゲスト参加することもあった。彼は後にギルガメッシュのキーボード奏者のアラン・ゴーウェンと手を組み、同じような音楽性のバンド、ナショナル・ヘルスを結成している。

ハットフィールド&ザ・ノースと同じように、ギルガメッシュもたった2枚のアルバムしか残していない。しかしハットフィールドとは違って、彼らはロック的な感覚をまったく持ち合わせておらず、ヴォーカルを完全に放棄していた。ゴーウェンがさまざまなキーボードを駆使して目もくらむような妙技を披露した結果、このギルガメッシュはジャズ色の強い複雑なハーモニーをハットフィールド&ザ・ノースよりもさらに深いレベルで演奏していた。

ゴングはフランスで結成されたが、このバンドに参加したメンバーの多くはカンタベリー・シーンとつながりがあった。ソフト・マシーンのオリジナル・メンバーのひとり、デヴィッド・アレンが率いていた初期のゴングは、茶目っけたっぷりのサイケデリック・ロック・バンドとしてスタートした。しかし、ピップ・パイルとサックス奏者のディディエ・マレルブが加入したあと、彼らのハイ・コンセプトなスペース・ロックはよりジャズ・オリエンテッドな方向に展開し始める。

そして、やがて1975年にアレンが脱退すると、ゴングは混じりけのないフュージョン・バンドへと進化したのだった。全編がインストゥルメンタル・ナンバーで占められた『Gazeuse!』や『Expresso II』といったアルバムでは、ドラマーのピエール・ムーランが主導権を握っている。この時期のゴングは幾分かフランク・ザッパ的なアプローチを取るようになり、複雑に絡み合ったマリンバやビブラフォンを多用していた。 (当時このバンドでは、ムーランとその弟のブノワ、さらにミレイユ・バウアーが強力なパーカッション・トリオを構成していた)。

 

コロシアムIIとブランドX

ドラマーがリーダーシップを執ったバンドといえば、コロシアムもその一つだった。このバンドは1960年代後半にプロト・プログレ、ジャズ、ブルースをミックスした音楽を演奏し、名ドラマーのジョン・ハイズマンがドラム・キットの後ろからリーダーシップを発揮していた。しかし、当初の編成はやがてバラバラになっている (このバンドでキーボードを担当していたデイヴ・グリーンスレイドは、ベーシストのトニー・リーヴスを伴ってグループを離れ、自らのファミリー・ネームを冠したプログレ・バンド、グリーンスレイドを結成している) 。

やがてコロシアムは新たなラインナップで再編され、火を噴くように激しいフュージョンを披露するグループ、コロシアムIIに変貌を遂げていた。このコロシアムIIでもやはりジョン・ハイズマンがリーダーを務めたが、彼以外のメンバーは一新され、ギター・ヒーローとして名高いゲイリー・ムーア、キーボード奏者のドン・エイリー、元ギルガメッシュに在籍したベーシスト、ニール・マーレイというラインナップになっていた。

ファースト・アルバムをリリースしたあと、彼らはヴォーカリストのマイク・スターズを解雇し、強烈なジャズ・ロックに専念し始めた。それはアル・ディ・メオラ時代のリターン・トゥ・フォーエヴァーと肩を並べるような音楽性であり、その演奏は国連から大量破壊兵器として監視されても不思議がないほどに凄まじいものだった。

一方、1970年代のジェネシスは、ジャズとはほぼ無縁と言ってもいいバンドだった。しかし、ピーター・ガブリエルの脱退後、ドラム・キットの後ろからフロントマンの立場に躍り出たフィル・コリンズは、さらなる挑戦が必要だと考えたようである。

そして彼は、自らの内に秘めていたジャズ精神を解放し、ブリティッシュ・フュージョンを代表する偉大なバンド、ブランドX の創設メンバーとなった。このバンドの初期には、イエスのビル・ブルーフォードやキャメルのアンディ・ウォードがパーカッショニストとして参加していたこともあった。

1976年にリリースされた『Unorthodox Behaviour (異常行為)』と、同作に次いで発表された『Morrocan Roll』で、ブランドXはアメリカのフュージョン・バンドと同じくらいファンキーでスウィングする演奏を披露している。手数の多いコリンズは、ジェネシスでは必要とされていなかったジャズ風のフレーズを爆発させた。そして腕が4本あるようにも思えたベーシストのパーシー・ジョーンズは、自らがUK版のスタンリー・クラークであることを見事に証明していた。

前述のビル・ブルーフォードは、コリンズ以上にジャズの精神にあふれたミュージシャンだった。イエスとキング・クリムゾンでプログレッシヴ・ロックの歴史を築き上げるという活動を (少なくとも一時的に) 堪能したあと、彼はこのジャンルから姿をくらまし、自身が率いるフュージョン・バンド、ブルーフォードを結成した。

彼以外のメンバーは、超人的なギタリストのアラン・ホールズワース (それ以前は、ブルーフォードと共にプログレのスーパー・グループ、U.K.に参加していた) 、どこにでも顔を出すデイヴ・スチュワート (キーボード) 、そして天才的なアメリカ人ベース・プレイヤー、ジェフ・バーリンというものだった。

この4人でレコーディングされた『Feels Good to Me』と『One of a Kind』は、1970年代後半のシーンに残されたジャズ・ロックの名作である。ここでホールズワースはサックスのようにギターを弾きまくり、スチュワートはさらに1段階上のシンセサイザーを奏で、バーリンはジャコ・パストリアス級の詩的なベースの才能を発揮している。

このバンドが解散したあと、ソロ活動に乗り出したホールズワースはフュージョン・ギターの神様として伝説を築いた。またブルーフォードは、ポスト・バップ・バンドのアースワークスでエレクトリック楽器を完全に捨ててしまった。

ブルーフォードがU.K.を脱退したあと、空席となったこのバンドのドラマーの席を埋めたのは、アメリカの技巧派ミュージシャン、テリー・ボジオだった。アメリカのジャズ界で活躍してきた彼の履歴書には、さまざまな有名人の名前が並んでいた。もし前任者のブルーフォードがそれを目にしたら、羨ましさのあまりため息を漏らしていたかもしれない。

ボジオは、ウディ・ショウやエディ・ヘンダーソンといったジャズの巨匠たちや、伝説的なフュージョン・グループ、ブレッカー・ブラザーズと組んだこともあった。しかし、彼の知名度を上げる上でほかの何よりも貢献したのは、フランク・ザッパのバンドに参加していたころだった。ちなみに、やはりU.K.のメンバーだったキーボード奏者/ヴァイオリニストのエディ・ジョブソンも、一時期フランク・ザッパのバンドに籍を置いていた。

 

フランク・ザッパの存在

ザッパはそのキャリアを通して、自らの霊感の赴くままにさまざまなジャンルを飛び回っていた。あるときはプログレッシヴ・ロック、あるときはブルース、あるときは現代クラシック音楽、あるときはドゥーワップ、とにかく彼は気まぐれな好奇心の持ち主であり、刺激を感じるものであれば何であろうと、自らの活動に取り入れていたのである。とはいえ、この口ひげを生やした巨匠の大好物は、ジャズとロックのミックスだった。彼は、その長く多彩な活動の中で何度もこの系統の音楽に手を出している。

ザッパは、同じ世代の中でもとりわけ叙情的かつ高速のエレクトリック・ギターを弾くミュージシャンだった。それに加えて、マイルス・デイヴィスと同じように絶えず技巧派ミュージシャンを起用していた。彼のバンドには、ジョージ・デュークやジャン・リュック・ポンティといった1970年代を代表するフュージョン界のスター・プレーヤーが在籍しており、フランクと彼の仲間たちは、『Waka/Jawaka』『Hot Rats』『The Grand Wazoo』『Sleep Dirt』などのアルバムで炎のように激しいソロや華麗なアンサンブル演奏を披露し、ジャズ・ロックの歴史に残る情熱的な楽曲を作り上げている。

 

80年代の到来とアプローチの変化

このような複雑で挑戦的なサウンドのアーティストがメインストリーム・レベルで十分に活動を続けることができたのは、70年代ならではのエリート的な文化状況のおかげだった。やがて80年代に入るころになると、状況は変わってしまう。ジェントル・ジャイアント、EL&P、リターン・トゥ・フォーエヴァー、マハヴィシュヌ・オーケストラといった一流どころのプログレ&フュージョン・バンドは活動を休止し、ほかのアーティストたちも生き残るためにアプローチを変えていった。

それでも、カウンター・カルチャーの台頭期に始まり、パンク革命後の文化的白紙状態に至るまでの輝かしい時代には、深淵なる野心的な音楽性が許容されていた。さらに言えば、そうした音楽性が奨励されていたのである。

そして、この時代の特に野心的な2つのサブジャンル、つまりプログレとフュージョンの流れが交わったとき、70年代の音楽の中でも最高にまばゆい稲妻が光り輝いた。それは秀才のような知性の冴えを見せると同時に、不良性も同じくらい帯びていたのである。

Written By Jim Allen


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