プログレッシヴ・ロックとは何か?極めて英国的なロックの誕生と歴史
「プログレッシヴ・ロックとは何か?」
こうした疑問を投げかけると、ドラゴンやケマントについて語ることや、関節炎を引き起こすような複雑な転調を長々と行うこと、過度に長い楽曲、大げさな演奏、リック・ウェイクマンという紳士の名前などが答えに挙がる時代もあった。
いつぞやのプログレッシヴ・ミュージック・アワードでは、ジェスロ・タルのイアン・アンダーソンがうっとりと見入る観客に対し、プログレッシヴ・ロックとは「飽きっぽい人々のための音楽」であると語っていた。リック・ウェイクマンはそれよりも一歩先を行き、プログレッシヴ・ロックとは「単にルールを破るだけではなく、まずはどのルールを破るべきかを知ることだ」とミュージシャン側から語っていた。
バークレイ・ジェイムス・ハーヴェスト、キャラヴァン、ジェネシスはプログレッシヴ・ロック・バンドの最先端にいた。そして、キャメルやゴングがその後に続いた。リック・ウェイクマンもスティーヴ・ハケットも、バンドという安全な環境から抜け出すと、ソロ・アーティストとして成功を収めた。上述のアーティストはすべて英国出身だが、カナダ出身のラッシュは、プログレッシヴ・ロックに国際的な魅力があることを証明したバンドである。それではこの不可思議かつ魅力的なジャンルの誕生を紐解いていこう。
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プログレを生んだ英国
現在、“ルールに逆らうプログレッシヴ・ロック”というジャンルの影響は、メシュガーやマストドンといったヘヴィな音楽から、ミューズやレディオヘッドといったメインストリームにも受け入れられやすいサウンド、さらにはクラフトワークやダフト・パンクのようなエレクトロ系サウンドから、トーク・トークやモグワイの内省的ポスト・ロックに至るまで、幅広い音楽の中で聞くことができる。
KISSのジーン・シモンズは、クラシック・ロック誌でこう発言していた。
「UKはすごく奇妙な場所だ。海に囲まれた小さな島国で、ロックン・ロールもブルースもジャズも生み出したわけじゃない。それなのに、奇妙な物を食って奇妙な話し方をしてる奇妙なあんたたちは、世界を制する音楽を作った。ザ・ビートルズ、ストーンズ、ザ・フー、レッド・ツェッペリンといったように」
ジーン・シモンズの言うことには一理ある。しかし、ロック・ミュージックが絶大な力を持っていた70年代を通じて、英国とアメリカで大きなセールスを記録し、ロック・ミュージックに大きな影響を与えたアーティストとして、プログレッシヴ・ロック・ミュージックと呼ばれる音楽の創始者を忘れるわけにはいかないだろう。
確かに、英国人はロックもブルースもジャズも生み出してはいない。しかし、英国人はプログレッシヴ・ロックを生み出した。ピンク・フロイドは2億5,000万枚以上のアルバムを売り上げた。ジェネシスも約1億6,000万枚のアルバムを売り、いまだに売れ続けている。ムーディー・ブルースも、バック・カタログを毎年50万枚は楽々と売り上げている。そしてジェスロ・タルは、約8,000万枚のアルバムを売り上げた。リック・ウェイクマンですら、ソロ・アルバムでは5,000万枚、イエスとしては3,500万枚ものアルバムを売り上げている。
しかし、プログレッシヴ・ロックはどこから発祥し、なぜここまで本質的に英国と結びついているのだろうか? 確かに、70年代のプログレッシヴ・ロック全盛期には、同ジャンルの創始者である英国人アーティストと肩を並べられる他国のアーティストはほとんどいなかった。
ジェネシス、イエス、キャラヴァン、キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、バークレイ・ジェイムス・ハーヴェスト、ジェスロ・タルといったアーティストがジャンルを牛耳っていたため、アメリカはこの極めてジャンルから利益を得ようとすらしていなかった。アメリカ人は、プログレッシヴ・ロックの特徴の一部を抽出し、よりラジオでかかりやすいサウンドに取り入れると、カンサスやスティクス、スターキャッスルといったバンドに代表されるポンプ・ロックを作った。そして70年代が進むにつれ、これがより洗練されたAORへと移行していく。
UKプログレ誕生前史
プログレッシヴ・ロックのルーツを理解するには、ポピュラー・ミュージック全体の発展に目を向ける必要がある。第二次世界大戦後、世界はライフスタイル、テクノロジーなどあらゆる面で繁栄し、ポピュラー・ミュージックは急速に発展した。まずは、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの「Rock Around The Clock」がリリースされると、それまでポップ・チャートを独占していた優しい歌声のボーカルに飽き飽きしていた若者たちの心を掴んだ。そしてポップ・ミュージックはたちまちのうちに進化し、親や教師、聖職者を脅かすようになった。
5年という短い期間で、ロックン・ロールは60年代初頭のビート・グループに圧倒されるようになっていた。そして、グレイト・ブリテンの小さな島は、確実に頭角を現しはじめていた。ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズがポピュラー・ミュージックの波を起こし、より大きなアメリカという国(そして世界の他の地域も)は数十年にわたり、彼らの作る音楽に心を奪われたのだった。
こうしたバンドは、アメリカで生まれた音楽をあからさまに作り直していたというのが愉快な皮肉だったが、多くの人々は気がついていないようだった。ザ・ビートルズが初めてアメリカを訪れた時、アメリカでは何を楽しみにしているかと尋ねられたポール・マッカートニーは、「マディ・ウォーターズ」と興奮気味に答えた。すると、アメリカの記者は「それはどこにあるんだい?」と尋たのだった。
それでも、新しい音楽が人気を博すことで、社会的な変換点を迎え、そこから世界の様相が一変した。そして、音楽や、音楽の作り方に対する人々の考えも変わっていった。1967年のサマー・オブ・ラヴの影響は、社会的に極めて大きかったが、最も重要なのは音楽への影響だった。また、ドラッグの導入も特筆すべきだろう。ドラッグの使用は、いわゆるカウンターカルチャーであまりに広まったため、新たな探求の道が音楽の中で生まれた。
こうして60年代初頭のビート・ミュージックは、1966年から1967年にかけて、サイケデリック・ミュージックの実験主義へと道を開けるようになり、プログレッシヴ・ロックのルーツがここで登場するのだった。
プログレの萌芽
ムーディー・ブルースとワイルド・フラワーズ(後者は、志を同じくするカンタベリー出身のミュージシャンが緩くまとまった集団で、ケヴィン・エアーズ、ロバート・ワイアット、パイ・ヘイスティングスなどが在籍していた)は1964年に結成され、後者はその後、キャラヴァンとソフト・マシーンに分かれた。
ピンク・フロイドは1年後の1965年、バークレイ・ジェイムス・ハーヴェストは1966年に結成された。サマー・オブ・ラヴが花開いた1967年には、ザ・ナイス(ELPの前身)、ジェネシス、ゴング、ジェスロ・タル、プロコル・ハルム、ヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレーターがオリジナリティの波の中、シーンに登場した。
しかし、完全なプログレッシヴ・ロック・バンドとして登場したアーティストはまだいない。例えば、キャラヴァンが1968年にリリースしたセルフ・タイトルのデビュー・アルバムや、ジェネシスが1969年にリリースしたデビュー・アルバム『From Genesis To Revelation』は、その後の音楽性を予見させるところもあったが、まだまだ初期段階の粗削りな音楽で、他からインスピレーションを得ていた。
これらのアーティストの多くは、ザ・ビートルズの『Rubber Soul』(1965年)、『Revolver』(1966年)、『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(1967年)や、ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』(1966年)、マザーズ・オブ・インヴェンションの『Freak Out!』(1966年)、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの『The Velvet Underground & Nico』(1967年)などからインスピレーションを得ていた。どれもプログレッシヴ・ロックのアルバムではないが、こうしたアルバムの裏側にあるアイディアや、彼らが作った新しいサウンドは、ミュージシャンをインスパイアするのに十分だった。
こうしてミュージシャンはバンドを結成し、目の前に突如、無限のチャンスが広がったかのように感じたのだった。この新しい音楽の世界では、ミュージシャンは好きなことができた。音楽の世界に存在する従来の規範に囚われる必要もなくなった。この当たらな音楽の世界では、無限の想像力を働かせることができたのだ。
この時点で、現在私たちが知るロック・ミュージックが形成されはじめ、プログレッシヴ・ロックとして知られるようになる音楽の大部分が掲載された。ブライアン・ウィルソンやフランク・ザッパといったミュージシャンの先進的なアイディアを参考にしながら、初期のプログレッシヴ・ロッカーは、すぐに実験を始め、ブルース、ジャズ、フォーク、クラシックの要素をさまざまなコンビネーションで融合した。似たようなサウンドはふたつとなかったが、誰もが既存の枠にとらわれずにアイディアを出して音楽を作ると、よりハードになっていく当時のメインストリーム・ロックとは一線を画した。
しかし、フィンランドのウィグワム、イタリアのPFM、ドイツのカンやアモン・デュールIIといったバンドによって、ヨーロッパでもこの新たなロック・ミュージックにわずかな関心が寄せられたが、このジャンルでは英国人が圧倒的な力を握っていた(なお、新しい音楽が毎日大量に届き、混乱していたレコード店への手引きとして、当時こうした新しいロックのアルバムはの多くは、裏面に「File Under Progressive」と記載していた)。
他ジャンルとの融合と進化
プログレッシヴ・ミュージックが、さまざまな音楽のジャンルを限りなく融合することで、メインストリーム・ロックとの差別化をしたというのならば、プログレッシヴ・ロックはグレイジャーやエルガーのクラシック音楽や、英国の室内楽や合唱音楽とも関連を持つことにより、いかにも英国的な雰囲気を持ち込んだと言えるだろう。
そしてすべての要素が、目まぐるしく変化していく音楽へと入り込んだのだった。それと同時に、グラマー・スクールやパブリック・スクール(ジェネシス)、アート・スクール(ピンク・フロイド)といったいかにも英国的な機関が、プログレッシヴな音楽を提唱したミュージシャンの基礎訓練の場となったことも、さほど驚くにはあたらないだろう。
1967年、ムーディー・ブルースは『Days Of Future Passed』をリリースした。ロック・バンドがドヴォルザークの『交響曲第9番(New World Symphony)』をパフォーマンスしたのは、レコード・レーベルの新しいテクノロジーにスポットを当てるためだったが、これがきっかけとなり、同バンドはシンフォニック・ロックを創造した。そして同アルバムは、プログレッシヴ・ロックの発展に重要な役割を果たしたコンセプト・アルバムとなった。
ピンク・フロイドが『Ummagumma』、キング・クリムゾンがこれまた画期的な『In The Court Of The Crimson King』(どちらも1969年のリリース)でプログレッシヴ・ロックの道を進みはじめた頃、ムーディー・ブルースは5枚目のアルバム『To Our Children’s Children‘s Children』をリリースしており、アメリカでも大きな人気を博しかけていた。
70年代が幕を開けると、プログレッシヴ・ロックが堰を切ったように流れはじめた。活動初期からロックとフォークを融合していたジェネシスは、その音楽性を基盤により複雑なアルバムを次々にリリースし、本領を発揮した。『Trespass』(1970年)も『Nursery Cryme』(1971年)も、デビュー・アルバムから大きく前進した作品だ。また、23分の長編「Supper’s Ready」を収録した『Foxtrot』(1972年)は、プログレッシヴ・ロックにおける記念碑的な作品となった。
キャラヴァンとバークレイ・ジェイムス・ハーヴェストも、急速な発展を遂げた。前者は画期的な『In The Land Of Grey And Pink』(1971年)をはじめ、『Waterloo Lily』(1972年)、『For Girls Who Grow Plump In The Night』(1973年)を立て続けにリリースしたが、どのアルバムもプログレッシヴ・ロック界におけるカンタベリー・サウンドの先駆となった。
オールダムのバークレイ・ジェイムス・ハーヴェストは、よりシンフォニックな方面へと進み、1971年の『Once Again』では繊細な美しさを持つ「Galadriel」やエヴァーグリーンな「Mockingbird」を収録した。奇抜なポスト・サイケデリックな集団としてスタートしたゴングは、『Angel’s Egg』や『Flying Teapot』(どちらも1973年)などアルバムを続々とリリースし、(マイク・オールドフィールドの伝説的アルバム『Tubular Bells』とともに)新興レーベル、ヴァージン・レコードの70年代前半のリリースを活気づけた。その後、ギタリストのスティーヴ・ヒレッジはバンドを脱退し、ソロ・アーティストとして大成功を収めた。
壮大な作品
プログレッシヴな音楽が人気を博すにつれて、その音楽もより複雑になり、長尺の曲が頻繁に登場するようになった。1971年に結成されたキャメルはこれを極めると、1975年の『The Snow Goose』、そして1979年には『Nude』と、純粋なひとつのコンセプトのみでアルバムを作った。
壮大な音楽と連携していたのは、アルバムに付随していたアートワークだ。アルバム・スリーヴを手掛けるアーティストによって、見事なアートワークが作られ、これが標準となった。イエスとの仕事で知られるロジャー・ディーンや、同じくピンク・フロイドとの仕事でしられる故ストーム・トーガソンは、アルバム・アートで名声を博したが、こうしたアルバムの多くは、祖国である英国と牧歌的な風景を結びつけている。
キャラヴァンの『In The Land Of Grey And Pink』、ジェネシスの『Selling England By The Pound』(1973年)、バークレイ・ジェイムス・ハーヴェストの『Time Honoured Ghosts』(1975年)、キャメルの『Moonmadness』(1976年)がその例だ。
ジャンルの停滞
1970年が始まってから数年間は目まぐるしかったが、70年代半ばになると、その勢いも止まった。アーティスティック/クリエイティヴに燃え尽きたからなのか、退屈に襲われたのか、あまりに大仰にやりすぎたからなのか、プログレッシヴ・ミュージックは低迷しはじめた。
1975年。ピーター・ガブリエルはジェネシスを脱退し、それから2年後に今度はスティーヴ・ハケットも同バンドを去った。これと時を同じくして、リック・ウェイクマンもイエスを脱退した。しかし、3人ともソロ・アーティストとして大成功し、現在も活躍している事実を踏まえると、プログレッシヴな理想を追求しながら新鮮なアプローチを取れば、今でも大きな収穫が見込めると考えられる。
1976年、社会的言説の冷たい風と、パンク・ロックの台頭で、プログレッシヴ・ロックは苦境に陥った。しかし、「恐竜」扱いされていた一部のバンドは振り出しに戻り、再び計画を立てた。こうしてジェネシスは、自らのプログレッシヴな傾向を商業的にも魅力的な音楽と結びつけると『Duke』『Genesis』『Invisible Touch』といったアルバムをリリースし、80年代と90年代で最も成功したレコーディング・アーティストのひとつに数えられるようになった。ピンク・フロイド、イエスとともに、ジェネシスはパンク・ロックがすぐに失速する中で、アリーナ級の会場でコンサートを行うほどの人気を保ち続けた。
80年代半ば、マリリオンやパラスといったバンドがプログレッシヴ・ミュージックをさらに若い世代に伝えていた。一方、北米では、ラッシュ(70年代を通じて、ハード・ロックとプログレッシヴ・ミュージックを融合し、『2112』や『A Farewell To Kings』で高い評価を得ていた)が1981年の名盤『Moving Pictures』でアリーナ級のバンドへと成長した。そしてラッシュは、ドリーム・シアターやクイーンズライチといったアメリカのプログレ・メタル・バンドの新たな波を先導した。そして、こうしたバンドの奮闘により、プログレッシヴ・ミュージックに対する関心は存続した。しかし、90年代の大半、プログレッシヴ・ミュージックはメインストリーム・メディアから鬱陶しい流行おくれの音楽と無視されていた。
低迷の中、残った2つの要素と復活
そんな中、2つの要素が残った。まず、売り上げには反論できない。過去のプログレッシヴ・アーティストは売れ続ている。また、多彩な音楽(似たサウンドを持つプログレッシヴ・バンドはほとんど存在しない)の中に、素晴らしいアイディアが多数収められており、これが若手ミュージシャンの想像力を掻き立てている。こうした若いミュージシャンは、ポストパンクを引きずった恨みがましいジャーナリストの言うことになど、耳を傾けないのだ。
こうして2010年代に至るわけだが、プログレッシヴ・ミュージックは実に頑強で健全な状態にある。スティーヴン・ウィルソン、オーペス、トランスアトランティック、アナセマといったプログレッシヴ・アーティストの成功によって、全く新しいリスナー層が開拓されている。プログレッシヴな気質にしっかりと根差しながら、想像力に富んだ新たなロック・サウンドが作られているのだ。
また、プログレッシヴ・ミュージックには、「Prog」という月刊誌による毎年恒例の授賞式もある。そして2013年、バークレイ・ジェイムス・ハーヴェストは14年ぶりにニュー・アルバムをリリースし、キャラヴァンとキャメルはいまだレコーディングとツアーを続けている。ラッシュも絶好調で、スティーヴ・ハケットとリック・ウェイクマンは同ジャンルのご意見番として尊敬されており、そのキャリアの中で実りの時期を迎えている。
それでは、プログレッシヴ・ロックとは何だろうか? プログレッシヴという巨大な傘の中に入るアーティストの音楽的多様性を考えると、ひとつの特定なサウンドとしては説明できないだろう。それよりも、これはアイディアであり、思考プロセスである。そして、イアン・アンダーソンをはじめとする飽きっぽい人々を退屈させない音楽を作るために、固定観念にとらわれず考え続ける能力である。
プログレッシヴ・ロックは、ファッションや、メインストリーム・メディアが取り上げる大衆向けのニュースに感化されるものではない。音楽を作ろうと努力するミュージシャンのニーズや、こうした音楽の旅路を進みたいと願うファンのニーズに応えるためのものに過ぎない。だからこそ、音楽の世界の中でも独特の存在であり続けているのだ。しかし何よりも、魅力的な音楽を作ることのみを考え、何にも迎合しない姿勢こそが、プログレッシヴ・ロックだ。リック・ウェイクマンが端的に述べていたとおり、プログレッシヴ・ロックとは、単にルールを破るだけでなく、まずはどのルールを破るべきかを知ることなのだ。
Written By Jerry Ewing
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