音楽的ノスタルジーはいかに未来のサウンドを創造するか:成功の基盤は模倣とインスピレーション

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Illustration: Malte Mueller / Getty Images

1960年の映画『勝手にしやがれ』はモダン・カルチャーの歴史に残る画期的な作品とされてきたが、その理由はアルジェリア系フランス人のピアニスト/作曲家、マーシャル・ソラールによる圧巻のジャズ・サウンドトラックだけではない。

この映画の監督を務めたジャン・リュック・ゴダールは、ノスタルジアがポップ・カルチャーを形成してきた実績に対する皮肉交じりの敬意を、こんな言葉で表現したことで知られている

「重要なのはどこから引っ張ってきたかじゃない――どこへ持って行くかだ」

この格言は、模倣とインスピレーションがしばしば成功の基盤となる音楽の世界にもそのまま当てはまる。ソラールは冗談めかして、当時たいそうポピュラーだった“ハリウッド・ジャズ”をプレイしまくったジャン・リュック・ゴダールの映画のサントラ制作について“趣味と実益”だったと言って憚らなかった。実のところ、彼はジャンゴ・ラインハルトやシドニー・ベケット、バド・パウエルといった過去の偉人たちの影響を生かして雰囲気たっぷりのサントラ盤を作り、全体を見事にまとめ上げている。

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音楽の“模倣”のプロセス

音楽の“模倣”のプロセスは、楽譜の歴史と同じくらい古い。クラシックの作曲家たちは昔の巨匠たちの作品を文字通り譜面に写し取り、解釈し、模倣することを通して研究した。J.S.バッハやヘンデルが書いた、バロック時代の最高傑作と言われる楽曲の中には、それ以前の時代の傑作の再利用と呼んでもおかしくないようなものが幾つもある。

更に時代を下れば、ザ・ビートルズは当時売れていたバンドの曲をコピーし、あるいは解釈を加えながら、自らの手で才気縦横の音楽を生み出す術を身につけていった。そして入れ替わりに、彼らの曲は他のミュージシャンたちからコピーされ、手本とされるようになって行ったのである。ある時はノスタルジアの発露として、またある時はザ・ビートルズ自身がそうであったように、曲作りの方法を学ぶひとつの手立てとして。

映画『勝手にしやがれ』が封切られたのとその年、ソラール同様に天才シドニー・ベケットのソプラノ・サックスに魅せられていたジョン・コルトレーンは、後に彼の代表曲のひとつに数えられることになる「My Favorite Things」を録音する。

自ら「過去に非常に興味がある」と屈託なく宣言していたコルトレーンは、あくなき好奇心がミュージシャンとしての自分を成長させてくれることをよく知っていた。ティーンエイジャーの頃、ジョン・コルトレーンはビバップの先駆けとされる作品のひとつ、コールマン・ホーキンスが1939年に出したレコード 「Body And Soul」に畏怖の念を抱くほど衝撃を受けた。

教会の専属ピアニストを母に、ヴァイオリン奏者を父に持つジョン・コルトレーンは、恐らくこの象徴的なジャズの名曲が持つ変化に富んだインスピレーションの源に響くものを感じたのだろう。コールマン・ホーキンスは1937年にオステンドのハンガリー人たちが集まるナイトクラブで、ツィガーヌ(ロマ)人のヴァイオリニストが奏でていたメロディに触発されたのだった。

ジャズ界最高の即興演奏家と言われる人々さえ、他のジャズ・ミュージシャンたちのレコーディングをつぶさに研究し、ソロを一音一音解析して書き起こし、時にはコンポジション(作曲法)のように繰り返しリハーサルを重ねており、ジョン・コルトレーンもその例外ではなかった。彼はこう言っている。

「俺は‘Body And Soul’のレコードを手に入れて、彼が何をやってるのか徹底して耳を澄ませて聴いてたんだ」

自身の音楽に対して真剣に取り組むようになるにつれ、ジョン・コルトレーンは「自分の自由に使える時間のかなりの部分を割いて、図書館で独学で倍音(ハーモニクス)の研究を始めた」と言う。その努力は1960年10月、34歳のコルトレーンがニューヨークのアトランティック・スタジオに入って録音したアルバム『My Favorite Things』という形で報われることになった。

ジョン・コルトレーンはリチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタインⅡ世による軽快なワルツ――ジュリー・アンドリュースが『The Sound Of Music』で一躍有名にした――を取り上げながら、消して単なるノスタルジアの実践には終わらず、誰が聴いても分かるほど大幅にコード進行とテンポを替え、独自のセンスとテクニックで完全に自分のものにしてしまった。

「My Favorite Things」はヒット曲となり、彼のコンサート・レパートリーでも定番に加えられ、ビバップが大衆に受け容れられる橋渡しとなった。この時期には他にも、ガーシュウィンの1930年の名曲「Embraceable You」が、チェット・ベイカー、クリフォード・ブラウン、オーネット・コールマン各々によってビバップ風に新たな解釈を加えられ、レコーディングされている。

 

「ザ・ビートルズはガーシュウィンと同じくらい重要」

ガーシュウィンと言えばもう1曲、1927年の ミュージカル『Funny Face』収録曲である「S’Wonderful」は、元々はフレッド・アステアの舞台用に作られた曲だった。ヴォーカリストにとってはかなり難易度が高い曲として知られる(フランク・シナトラはこの曲を歌いこなすだけの肺活量を身につけるために、水泳のトレーニングで呼吸器を鍛えた)が、ミュージシャンたちにとっては昔の音楽をいかに巧みに取り入れ、革新的なものを作り出すかというのが腕の見せ所だ。

かくしてベニー・グッドマンによるライオネル・ハンプトンとテディ・ウィルソンも在籍したカルテットでのスウィング・ジャズのヒットは、レニー・トリスターノとリー・コニッツにかかればビバップのインストゥルメンタルとなり、1976年にはジョアン・ジルベルトの手でボサノヴァ・チューンに仕立て直された。

この曲は21世紀に入ってもインスピレーションを与え続けている。ダイアナ・クラールが2001年にヴァーヴから出したアルバム『The Look Of Love』で展開した先進的なアレンジメントは、彼女の上質な歌と相まって、この古い定番曲に新たな命を吹き込んだ。ダイアナ・クラールいわく、彼女にとってインスピレーションという意味合いにおいては「ザ・ビートルズはガーシュウィンと同じくらい重要」

 

ザ・ビートルズによる模倣

ザ・ビートルズはまさしく下記にてT.S.エリオットの定義する詩人のありかたの生きた証明といえる。

未熟な詩人たちは模倣する / 熟練の詩人たちはかすめ取る
出来の悪い詩人たちは自らの盗品の価値を貶め
優れた詩人たちはそれを何かもっと良いもの
あるいは少なくとも何か違うものに変えることができる

恐らくポップ・ミュージック全史を通じて、最も多くのインスピレーションを与えたバンドということになるだろうザ・ビートルズも、受容してきたすべての影響を使って違うものを作り上げた、しかも多くの場合より良いものを。

デビュー当時でさえ、彼らが自らの崇拝する人々を模倣するようになったのは決してノスタルジアのせいではなかった。ジョン・レノンがこう言う通り。

「あれはぼったくりじゃない、ラヴ・イン(訳注:1960年代後半のヒッピー・ブーム全盛に流行した、人間愛を訴えたり、残虐な政策に抗議するために愛し合う姿を見せる集会の名称)だったんだ」

若きザ・ビートルズにとって、大いなる刺激となったのはアメリカのロックン・ロール、とりわけエルヴィス・プレスリー、カール・パーキンス、チャック・ベリーといった面々だった。だが、ヒット・チャートを賑わしていたこれら重量級のスターたちと並行して、彼らはタムラ・モータウンのグループ、ザ・マーヴェレッツからの影響も認めており、実際ザ・ビートルズは(後にはカーペンターズも)彼女たちの曲「Please Mr. Postman」をレコーディングしている。

バンドとして名を挙げる前に、ザ・ビートルズは1920年代にエディ・カンターがヒットさせ、後にはジーン・ヴィンセントも録音した活気溢れる「Ain’t She Sweet」を彼らなりの味付けでカヴァーしている。

ジョン・レノンによれば、1961年6月にこの曲をレコーディングした際、彼らはキャピトル・レコードからのヒットとなった優しげなジーン・ヴィンセントのヴァージョンよりももっと‘マーチっぽく’したいと考えていたそうだ。彼は友人たちに、当時ロンドンで活動していたほぼ無名のブルーズ・シンガー、ダフィ・パワーのヴァージョンの方がよりグッと来ると語っていた。

曲自体は彼らがその後出した圧倒的なヒット・カタログに比べればごくマイナーながら、この曲にはザ・ビートルズが結成当時から、いかに様々なところからインスピレーションを得ていたかを示す格好のサンプルだ。ポール・マッカートニーはこう語る。

「 ‘Ain’t She Sweet’みたいな曲は僕らがキャバレーで深夜プレイする時のレパートリーのひとつだったんだよ。あれを聴けば僕らがそこらのロックン・ロール・グループとはちょっと違うってところが分かるはずだ」

 

ユニークなサウンドの冒険

インスピレーションは実に様々なところからやって来る。「Eleanor Rigby」のレコーディングの数日前にフランソワ・トリュフォー監督の映画『華氏451』を映画館で観たポール・マッカートニーは、バーナード・ハーマンの書いたスコアとストリングスの使い方に心酔した。 そのため「Eleanor Rigby」のストリングスはかのサウンドトラックに大いに影響を受けることとなったのである。このレコードが作られた1966年、ポール・マッカートニー本人はこう語っている。

「僕たちはこれまでも、自分たちで流行を作り出そうなんて試みたことは一度もないと思う。僕らはただ前に進むこと、そして何か新しいことをやるってことだけを心がけているんだ」

やがてザ・ビートルズは壮大なる実験的作品『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』をはじめとする画期的なアルバムを通して、音楽界に革命を起こすに至った。サウンド、ソングライティング、スタジオ・テクノロジー、更にはカヴァー・アートに至るまでの大いなる独創的な冒険は、1967年1月に世に出た直後から絶大なるインパクトを与えた。何しろリリースから僅か3日後に、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはロンドンのサヴィル・シアターで行なわれたギグを、この曲のカヴァーで幕開けしたのである。

ザ・ビートルズは未だに音楽界におけるひとつのベンチマークだ。ケンドリック・ラマーが2015年にインタースコープから『To Pimp A Butterfly』をリリースした際、彼は自分の作品についてこう語っていた。

「ボブ・ディランやザ・ビートルズやジミ・ヘンドリックスの作品のように、ずっと語り継がれて行くようになって欲しい」

なるほど、この『To Pimp A Butterfly』のジャズと最先端のヒップホップのミクスチュアとカルチャーにおける重要度は、2010年代版『Sgt Pepper』と言っても言い過ぎではないかも知れない。

 

ブルース・マンへの憧れ

ジョン・レノンやポール・マッカートニーとは異なり、ミック・ジャガーの音楽的野心はエルヴィス・プレスリーによって直接的に焚きつけられたわけではなかった。ミック・ジャガーの音楽への傾倒――そして同じザ・ローリング・ストーンズのメンバーであるキース・リチャーズ、ビル・ワイマン、チャーリー・ワッツとブライアン・ジョーンズ――はザ・ビートルズのそれに引けを取らない純粋なものだったが、その水源は違う場所にあった。

ザ・ビートルズ同様、ザ・ローリング・ストーンズもまたチェス・レコードの巨匠チャック・ベリーの大ファンではあったものの、彼らの視線は同レーベルの看板ブルース・マンであるマディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、バディ・ガイといった面々の方により注がれていたのである。

ザ・ローリング・ストーンズはまた、オーティス・レディングやソロモン・バークといったソウル・シンガーたちに敬愛を寄せると同時に、ボブ・ディランのプロテスト・ソングからバディ・ホリーのポップまで、幅広い音楽要素を取り込んでいた。

リヴァプール出身のライバルと比べれば間違いなく音楽的な部分でノスタルジアの影響がより色濃く出てはいたものの、ザ・ローリング・ストーンズにはそのすべてを総括し、それを用いてロックン・ロールのルールブックを書き換えさせてしまう力があったのだ。

いみじくも彼らの旅の始まりは、レノン&マッカートニーによる 「I Wanna Be Your Man」のカヴァーだった。1963年、英国における彼らにとって最初のヒットとなったこの曲が書かれた時、ミック・ジャガーとキース・リチャーズはポール・マッカートニーと同じ部屋に居合わせていたのだそうだ。

ストーンズの魂を本当に燃え上がらせたのはブルースだった。ミック・ジャガーはブルーズ・シンガーたちが歌う時のフレージングの独特のディテールを、自分なりの仕様にカスタマイズする器用な力を持ち合わせており、一方キース・リチャーズとビル・ワイマンは黒人プレイヤーたちのギターやソロの多くからアイディアを得て、彼ら独自のものに仕立て直した。そもそも彼らのバンド名も、マディ・ウォーターズの曲のタイトルをもじったものだった。

ザ・ローリング・ストーンズは短期間にミュージシャンとして飛躍的な成長を遂げ、「Satisfaction」等のヒット・シングルでポピュラー・ミュージックの変容を助長した。4枚目のアルバム『Aftermath』(1966)が出る頃には、バンドは自分たちの曲を自前で調達できるようになっていた。後にミック・ジャガーがこう語った通りだろう。

「あれは俺にとっては凄く大きな意味を持つアルバムだった。全曲自分たちの書いた曲で固められたのは初めてのことだったし、あれでようやく、俺たちにずっと憑りついてた昔のR&Bのカヴァー・ヴァージョンていう亡霊を成仏させることができたんだ。勿論どれも良い曲ばっかりだけど、所詮カヴァーはカヴァーだからね」

つきまとうノスタルジアの亡霊は振り払いながらも、影響としての要素は肯定的に採り入れるという姿勢を打ち出すことで、『Exile On Main St(メイン・ストリートのならず者)』や『Sticky Fingers』といった彼らのその後の作品は、いずれも後世に絶大なる影響を及ぼすことになった。

とりわけ「Sympathy For The Devil(悪魔を憐れむ歌)」は、プライマル・スクリーム、ジーザス&ザ・メリー・チェイン、シャーラタンズその他大勢のバンドに大きなインスピレーションとなった1曲である。

 

音楽は永遠に生き続ける

音楽の素晴らしいところのひとつは、音楽ファンにとっても音楽を作る側のアーティストたちにとっても、その効力が消えてしまうことがないところだ。私たちが十代の頃に好きだったり、当時初めて出会った音楽は、私たちの自我という感性の中では重要であり、かつ永遠に生き続ける。

2016年のグラミー賞にノミネートされたザ・ローリング・ストーンズのアルバム『Blue & Lonesome』は、若き日の彼らが愛したリトル・ウォルターやハウリン・ウルフらの曲のカヴァーを集めた、ブルースに対する遅まきながらのラヴ・ソング集だった。

当代のスーパースターたちに、彼らの音楽に影響を及ぼしたミュージシャンたちについて訊ねると、いまだにザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズの名が挙がる機会は多い。しかしながら、昨今のクリエイティヴな刺激の源は実に多種多様だ。

アリシア・キーズにとってそれはニーナ・シモンだった(「彼女は私に感情とか情熱っていうものを教えてくれた」)、ワン・ダイレクションのナイル・ホーランにとってそれは80年代ロックのヴァイブだった( 「僕はイーグルスの大ファンなんだよ」)、ファーギーにとってそれはレッド・ツェッペリンとガンズ・アンド・ローゼズだった。ベン・ハワードの「一番のヒーロー」はフォーク・シンガーのジョン・マーティンである。

ちなみにオプラ・ウィンフリーから、現在までのところ2010年代で最も売れたシングル「Happy」のサウンドのインスピレーションになったものを訊ねられたファレル・ウィリアムズは、その影響としてスティーヴィー・ワンダーの「Do I Do」や、アース、ウィンド&ファイアーの 「September」 を挙げていた。

往年の女性歌手たちも、現代の若い女性アーティストたちにとってはインスピレーションの源である。ラナ・デル・レイにとってそれはジョーン・バエズやジュリー・ロンドン(「私は彼女たちの声が大好きだし、考え方にも共感する」)だった。ロードにとってそれはエタ・ジェイムス(「彼女は自分の苦しみを作品として昇華するのがとても上手なのよ」)だった。

アリアナ・グランデにとってそれは、子供の頃に母親がいつも見せてくれたヴィデオの中のジュディ・ガーランドだった。ソランジュにとってそれはミニー・リパートンだった。エイミー・ワインハウスはエラ・フィッツジェラルドに心酔しており、「私はダイナ・ワシントンに歌うことを教わったのよ」と公言していた。

 

20年で流行は繰り返す

また、音楽業界における多くの要素が一定のサイクルに則って動いており、嗜好性や流行はともすれば繰り返す傾向があることも事実である。実のところこの世界には“20年ルール”というコンセプトすら存在すると主張する人々がおり、彼らによれば特定の音楽トレンド、あるいはファッションの流行も、おおよそ20年前後の周期で流行り廃りを繰り返しており、その度にそのカムバックを初めて体験する世代の人々の間で、また新たなノスタルジアの波が湧き起こるというのだ。

事実、70年代と80年代にはこの現象が確認されており、アメリカとヨーロッパの一部地域で、“オールディーズ”のコンセプトがもてはやされた時期があった。この時代の空気をそのまま封じ込めたとも言えるのが、若きジョージ・ルーカスが1973年にヒットさせた音楽たっぷりの映画『アメリカン・グラフィティ』である。

チャック・ベリーやブッカー・T&ザ・MGs、ビーチ・ボーイズ等、50年代から60年代のアーティストたちのヒット曲を詰め込んだサントラ盤はアルバム・チャートのトップ10に入り、この時期急増した懐メロ系ラジオ局第一波における定型として、たいそう重宝されることとなった。

レザー・ジャケットやプードル・スカートが俄かに人気のファッションとして街に氾濫し、センチメンタルなベビー・ブーム世代は『Happy Days』のようなTV番組や『グリース』のような映画に飛びついてはノスタルジアに浸った。往年の音楽が好まれる傾向は、シャ・ナ・ナ等の50年代カヴァー・バンドの爆発的人気まで呼び込んだ。

同様の‘焼き直しブーム’は80年代にも顕著で、ニュー・ウェイヴやヘア・メタルの流行が60年代の音楽の掘り起こしに繋がった、また映画『再会の時』のように、スモーキー・ロビンソンのようなアーティストたちの代表曲が映画で使用されることも増えた。

このブームに乗ってザ・ドアーズのような過去のバンドの市場における商品価値がぐっと上がり、ザ・ビートルズの「Twist And Shout」のオリジナル・ヴァージョンは『フェリスはある朝突然に』で使用されたことで再びヒット・チャートに顔を出した。 こうしたプロセスはまだまだ継続中だ。80年代から30年を経て、マイケル・ジャクソンの「Beat It」 はフォール・アウト・ボーイによりリニューアルを果たした。

ここ数年はとりわけ90年代の回帰が目につく。ニルヴァーナの『Nevermind』をはじめ、スパイス・ガールズ、バックストリート・ボーイズ、Blink 182といった90年代のバンドたちのカムバックも数多くみられる。フランク・ザッパが冗談めかして言った通りになっている。

「世界が炎や氷に包まれて終わるなんて想像する必要なない。他にも2つの終わり方の可能性があるからな。ひとつは事務処理漬け、もうひとつはノスタルジアだ」

 

音楽最初のポストモダンの時代

ノスタルジア・ブーム全盛だった70年代は、一方でポピュラー・ミュージックの世界においては、間違いなく最初のポストモダンの時代だったと言える。デヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージックはインスピレーションを求めてロックの過去へと深く分け入りながら、並行してポピュラー・ミュージックをそれまでにはない新しいものへと変貌させていった。

スペース・エイジのポップ・スターであるボウイは、音楽のトレンドとポップ・ファッション両方の先駆者である。1970年にリリースされた彼のアルバム『The Man Who Sold The World』には、挑戦的なソングライティングと ムーディなハード・ロック・サウンドがぎっしり詰まっていた。

デヴィッド・ボウイはグラム・ロックやソウル、ディスコ、ニュー・ウェイヴ、パンク・ロック、そしてオート・クチュールから影響とアイディアをかすめ取りながら、2016年1月、死の直前にリリースされた最期のアルバム『★』(読み方は「ブラック・スター」)まで飽くなきイノヴェイターとしての姿勢を貫き通した。

デヴィッド・ボウイがクリエイティヴな波を起こし始めたちょうど同じ頃、ロキシー・ミュージックのブライアン・イーノは美術の道に進むか、音楽の道に進むかという決断を迫られていたのだそうだ。そんな時、ルー・リードとザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの出現を目にし、彼は「やりようによっては二股も可能だってこと」を悟るに至った。

ブライアン・イーノはブライアン・フェリーと共に、1971年にロキシー・ミュージックを結成し、華やかな両性具有のキャラクターを演じたボウイとデカダンスを共有していた。ロキシー・ミュージックは英国では最初のヒット 「Virginia Plain」でたちまち人気を博し、1973年にブライアン・イーノがバンドを離れた後も、彼らの洗練されたポップな音楽性は変わらぬ影響力を誇った。

ロキシー・ミュージックのギタリスト、フィル・マンザネラは、デヴィッド・ボウイとロキシー・ミュージックが登場する以前の70年代初期のシーンには小汚くて冴えないデニム姿のミュージシャンばかりが溢れ返っていたと語る。

「そこへ突然一気に、極彩色とエキゾティシズムとロックン・ロールのスピリットが再び注入されたわけだからね。俺たちは1972年6月、クロイドンのグレイハウンドでボウイの前座をやったんだ。ボウイはジギー・スターダストのコスチュームで固めてて、俺たちもキンキラキンでね、ビルの上階の狭いハコでたった150人ばかりのオーディエンス相手にプレイしたんだよ」

いわゆるニュー・ロマンティック・シーンなるもの――ヴィサージ、デュラン・デュラン、スパンダー・バレエにカルチャー・クラブといった面々――は、まさにそのデヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージック、マーク・ボランから多くのヒントを得ていた。もっともボウイはそうした後追いの模倣者たちに対してはいささか辛辣な態度で臨んでいた。「Same old thing/In brand new drag(見慣れた使い古し/ただ体裁を新しくしただけ)」という歌詞が入った彼の1980年の曲「Teenage Wildlife」は、伝えられるところでは当時ニュー・ウェイヴ界のスターと言われていたゲイリー・ニューマンに対するあてこすりだったそうだ。

 

音楽の再発明と自己の再定義

デヴィッド・ボウイはまた、自分自身を改変・更新することに成功してきたミュージシャンの筆頭格である。それと同等のことを音楽で成し遂げてきたのがボブ・ディランだ。ウディ・ガスリー式のフォーク・シンガー・ソングライターだった初期の頃から、ザ・バンドと組んでエレクトリック・フォークをプレイしていた時期、そしてクリスチャン・ロックをパフォームするに至るまで。

他にもポップ界には、マドンナやプリンス、レディー・ガガやテイラー・スウィフトのように、ファッションを利用して変身を遂げてきたアーティストたちは少なくない。

冒険的な音楽を選択して、自らを変革するミュージシャンたちもいる。ウィリー・ネルソンはその長いキャリアの中で、カントリー・ミュージック、ジャズ、レゲエと様々な音楽に果敢に取り組んできた。現在シーンの第一線で活躍する多くの大物ミュージシャンたちと同様、ウィリー・ネルソンもまた過去のサウンドやスタイルからヒントを得ることの大切さを熟知しているのだ。

彼が所属しているアメリカ人揃いのスーパーグループ、ザ・ハイウェイメン――他のメンバーはジョニー・キャッシュ、ウェイロン・ジェニングス、クリス・クリストファーソン――がひとつ一貫してテーマにしているのが、内省的な雰囲気と喪失感である。カントリー界のレジェンドは、ジャンルをまたいだ幾つものパートナーシップを通して、いかに巧みに時代と連動して行くかを心得ており、その柔軟性は「Roll Me Up」のような曲におけるラッパーのスヌープ・ドッグとのコラボレーションでも十二分に発揮されている。

 

ヒップホップの誕生

ヒップホップは元々、70年代のニューヨークのサウス・ブロンクス地区に住むアフリカ系アメリカ人たちを主体に生まれたとされている。始まりはブレイクビーツの父として知られるDJクール・ハークが、楽曲の中で最も踊りやすい箇所のブレイクだけを取り出し、何度もリピートしたことで、新しいスタイルの音楽誕生のきっかけとなったのだった。

アフリカ・バンバータやグランドマスター・フラッシュといった多くのアーティストたちの出現により、ヒップホップは自らの力で1979年にメインストリームの一画に食い込み、その後10年の間に世界中で支持層を確立した。

ルイ・アームストロング風のスキャット及びヴォーカリーズ[訳注:楽器のパートを辿って歌うこと]への回帰や、ギル・スコット・ヘロンのポエトリー・ソングも散見され、N.W.A、パブリック・エネミー、ソルト・ン・ペパ、EPMD、ビースティ・ボーイズらの活躍で、80年代の間にヒップホップは近代における最も独創的な音楽ムーヴメントのひとつとなった。

続く90年代にも、LLクールJ、トゥパック、ビギー・スモールズ、ウータン・クラン等、傑出したラッパーたちが次々に登場した。ジェイ-Zやドレイク、チャンス・ザ・ラッパーにケンドリック・ラマーといったミュージシャンたちが、世界中で何百万枚と言うセールスを挙げるようになった今日、もはやヒップホップは最大主流派の音楽フォームと呼ぶに相応しいかも知れない。

現代のラップ界のスターたちは、その仕事ぶりでも着実にメインストリームの批評家たちの評価を勝ち取っている。2018年のグラミー賞で、ケンドリック・ラマーは最優秀ラップ/歌唱パフォーマンス、最優秀歌唱パフォーマンス、最優秀ラップ楽曲。最優秀ラップ・アルバム、そして最優秀ミュージック・ヴィデオの5部門でトロフィーをかっさらった。

ヒップホップのような最先端の音楽でさえ、過去の音楽とは切っても切れない繋がりがあるのだ。ケンドリック・ラマーとスヌープ・ドッグ、両方のアルバムのプロデュースを担当したサキソフォニストのテラス・マーティンいわく、「俺がヒップホップのトラックのプロデュースを始めたのは、それが時代の音楽だからだけど、かと言ってジャズに対する愛情を忘れたことは一度もないよ」。

ソニー・スティットにジャッキー・マクリーンといった、ヴァーヴ・レコードやブルーノートの偉人たちを敬愛して止まないテラス・マーティンは、ケンドリック・ラマーが、かつてジョン・コルトレーンがそうであったように、四六時中音楽について研究を重ね、音楽のことばかり考えていると証言する。

 

カントリー音楽の変革

とは言え、過去30年間の間に進化を遂げ、自らの定義を更新し続けている音楽はヒップホップだけではない。カントリー・ミュージックはスティーヴ・アールやルシンダ・ウィリアムズといったオルタナティヴ・カントリー系アーティストたちの台頭でひとつの爆発期を迎え、更にモダン・カントリー・ミュージックの観念を覆すことに助力した当代アメリカーナの旗手のひとり、ライアン・アダムスが、ケイシー・マスグレイヴスのような21世紀のタレントのための道を切り拓いた。

90年代、アルバム毎にアプローチを変えるバンドが時に存在する一方で、ベックのようなスターは曲の中で様々なジャンルをマッシュアップして見せた。1996年、ベックのアルバム『Odelay』はグラミー賞の最優秀オルタナティヴ・アルバム部門に輝いたが、その中でもプロデューサーのマイク・シンプソンはとりわけ1曲、「Hotwax」について、完成まで6か月を要し「愛情抜きにはできなかった壮絶な苦労の結晶」だったと振り返った。

曲中、ベックはカントリー・ギターにかぶせてラップを展開している。彼はこの曲のレコーディングに、チャリティ・ショップで購入したウォーキートーキー(旧式の携帯用無線電話)をはじめありとあらゆる機材を持ち込み、音を重ねていった。

様々なテンポとエフェクターを多用したクラクラするようなサウンドをフィーチュアしたこのトラックは、彼が何故この年代の「時代精神を掴んだ」アーティストとして讃えられるに至ったかを示す好例だ。当然ながら彼の音楽的影響は極めて多様で、ミシシッピ・ジョン・ハートからビッグ・ビル・ブルーンズィ、 ソニック・ユース、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドからグランドマスター・フラッシュに至るまで、いずれも彼の見事なまでに身軽なジャンルの越境に一役買っているのである。

21世紀も早や20年代に入ろうとしている今この時も、ジャンルやスタイルは絶えず形を変え続けている。ここ数年も、リアーナがテーム・インパラをカヴァーしたり、マイリー・サイラスがフレイミング・リップスとコラボレーションしたり、ライアン・アダムスがテイラー・スウィフトのアルバム『1989』を丸ごとカヴァーしたりと、これまでになかったような傾向が顕在化しており、現代のミュージック・シーンには“ポスト・ジャンルの音楽界”という呼び名が付けられているほどだ。

 

21世紀の相互受粉

ストリーミングやYouTube、モバイル・アプリが新たなデジタル時代に勢いを増す中、音楽の他家受粉現象は引き続き進んでおり、ミュージシャンたちが音楽を作る手段やファンがそれを消費する方法にもその変化は及んでいる。だからこそ、真に良い音楽を生み出すために、パフォーマーたちはまだこれからも様々なインスピレーションの源としっかりとした基盤を必要とするはずなのだ。世界規模で成功を収めているトップクラスのスーパースターたちは皆、例外なくそれを心得ている。

だからこそチャンス・ザ・ラッパーはゴスペル・シンガーのカーク・フランクリンからの影響をもろ手を挙げて認め、エド・シーランはアイリッシュ・フォーク・シンガーのカーラ・ディロンと彼女の‘崇高な声’を讃えて止まないのだ。

また過去からのインスピレーションと同等に、これまでになかったような差し迫った社会問題も、ミュージシャンたちの新たなクリエイティヴ・エナジーやアウトプットの火種となりつつある。2018年の最初の3カ月間、アメリカ国内で論議を巻き起こし続けた銃による暴力の問題は、テレンス・ブランチャードが彼のバンド、E-コレクティヴと共にレコーディングしたアルバム『Live』の最も中心的な題材だ。彼らは「若い世代の人たちに刺激を与えるような音楽をプレイするために」集まったのだとブランチャードは言う。

音楽はこれから先も絶えず進化を続けると同時に、常に過去に目を向け続けることだろう。20年ルールが2038年に適用されるかどうかはともかく、エラ・フィッツジェラルドの「A-Tisket, A-Tasket」のような時代を超えた名曲が、リリース100周年記念盤として誰かしら名のあるシンガーによってレコーディングされるチャンスはいかにもありそうだ。あるいは、その頃にはもしかすると、AIロボットがポップ界のスーパースターの座に君臨している可能性もなきにしもあらずだが。

我々の行く手には未来が待ち構えているが、過去もまたいつでも掘り返すことができるところに存在してくれているはずだ。1960年9月号のダウンビート誌でジョン・コルトレーンが語っていた言葉でのこの特集を締めくくることにしよう。

「俺は悟ったんだよ、昔を振り返ることを忘れちゃいけないし、それに新たな角度から光を当てて見ることはもっと大事なんだってね」

Written By Martin Chilton



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