過激な歌詞と規制の歴史:下品、性的、社会批判、タブーの表現、抑圧に反発するアーティストたち

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今では考えられないことかもしれないが、それほど遠くない昔、下品な言葉をレコードで口にすることはできなかった。それどころか、下品な意味を暗示することさえできなかった(非常に巧みな言葉遣いでほのめかすことができた場合は別だったが) 。

かつては、音楽の規制があまりに厳しかったため、”damn”という単語すら厄介なトラブルを招くことになった。たとえばキングストン・トリオの場合、「Greenback Dollar」ではこの言葉を隠すため、ギターをうるさくかき鳴らす必要があった。またビーチ・ボーイズの「God Only Knows (神のみぞ知る) 」のような美しい曲でさえ、多くのラジオ局で放送禁止になった。それは、”イエス・キリスト”という神聖な名前を単なるポップ・ソングで歌うのはあまりに罰当たりだとみなされたからだった。

音楽の規制には長い歴史があるが、こうした抑圧に反発するアーティストがさらにクリエイティブな作品を作り出すことも多々あった。この記事ではその歴史と楽曲を紹介していこう。

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ブルースの伝統に目を向ければ、赤裸々な言葉遣いが早くから聴ける。ルシール・ボーガンが1935年に録音した「Shave ‘Em Dry」は、今聴いても実に大胆だ。ここで描かれる女性のセクシャルなパワーははるかに時代の先を行っていた。

ローリング・ストーンズの「Start Me Up」には、死んだ男でも性的な絶頂に至らせる女が登場するが、ボーガンも「Shave ‘Em Dry」でまさにそういうことを歌っていた。しかし1930年代の段階では、そんな歌詞のレコードを発表することのできる者はひとりとしていなかった(さいわいなことに、先見の明のある人物がその部分もちゃんとテープに録音していたので、数十年後にはそこまで含めたヴァージョンがCD化されることになった)。

ジェリー・ロール・モートンの「Murder Ballad」も同じような運命をたどった。これは音楽への規制が最高潮に達していた時代には発表されるチャンスがなかった。とはいえこの曲には、モートンがニューオーリンズの売春街で働いていた時期に耳にしたさまざまなやり取りが記録されていた。

 

ダブル・ミーニングとブルース・レコード

ただし、そのものズバリの言葉を使わなければ、ダブル・ミーニングをこっそりブルースのレコードに忍び込ませることはできた。ジョン・リー・フッカーの「Crawlin’ King Snake」やベッシー・スミスの「I Need a Little Sugar in My Bowl」といった曲が何を指しているのか、フロイト博士の力を借りなくても、聴き手たちはしっかり理解していた。

そうした曲の中には、遊び心にあふれたものもあった。たとえばデイヴ・バーソロミューの「My Ding-A-Ling」もそのひとつだ。チャック・ベリーは、この曲を1972年にカヴァーして、ヒットさせている(ただしチャックはずっと、この曲を彼自身が書いた曲だと主張していたが)。

しかしロックン・ロールの初期に若者の耳に届いた最もわいせつなダブル・ミーニングの曲は、ビッグ・ジョー・ターナーの「Shake, Rattle And Roll」だった。この曲は、ビル・ヘイリーやエルヴィス・プレスリーも取り上げ、カヴァー・ヴァージョンを発表している。当時のテレビでは規制が厳しく、エルヴィスはテレビカメラの前で腰を振ることができなかった。しかしそういう映像での規制をして満足していた側は、ご家庭のエルヴィス・ファンの持っていたレコードに次のような歌詞が含まれていることを知ったら、きっと仰天したことだろう。

I’m like a one-eyed cat peepin’ in a seafood store
I can look at you till you ain’t child no more

俺は魚屋で覗く片目の猫のようなものだ
お前がもう子供でなくなるまで見ているぞ

こう歌われているからには、この歌の主人公が誘いをかけている相手は未成年だということになる。

1960年代、1970年代に展開された駆け引き

1960年代や1970年代には音楽への規制は多少緩くなった。ただしそれも、あまり露骨な言葉遣いをしない場合だけだったが……。たとえば、妊娠を避けるために性交渉は結婚まで控えるという歌がヒット・シングルになったこともある。シュープリームスがヒットさせた「Love Child」がその曲だ。「Love Child」の歌詞は、非常に見事な表現で、そんな内容を盛り込んでいた。

あるいは、アンディ・ウォーホルの取り巻きが繰り広げるセックスやドラッグ摂取を描いた歌はどうだろう? ルー・リードの「Walk On The Wild Side (ワイルド・サイドを歩け) 」はまさにそんなことを歌った楽曲だったが、それでもアメリカのシングル・チャートのトップ20に入るヒットになっている。

 

エロティックな声が入った曲は、それ自体がひとつの芸術作品である。ジェーン・バーキン&セルジュ・ゲンスブールの「Je T’Aime… Moi Non Plus (ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ) 」は、1969年のアメリカではあまりにも扇情的かつ官能的に過ぎたため、放送禁止になった。しかしそのわずか1年後、チャカチャスの「Jungle Fever」がそのタブーを打ち破った。この点はシルヴィア・ロビンソンの「Pillow Talk」も同様で、ロビンソンはシュガー・ヒル・レーベルの創設者兼オーナーとして歴史に名を残すことになる。

コメディアンのジョージ・カーリンがテレビで口にすることができないと主張した「わいせつな7種類の言葉(Shit, Piss, Fuck, Cunt, Cocksucker, Motherfucker, Tits)」は、1960年代の末までレコードには収録できなかった。”fuck”という言葉は、デヴィッド・ピール&ザ・ローワー・イースト・サイドが1968年に名曲「Up Against the Wall」をリリースするまで、レコードで聞くことはできなかったのだ。そもそもその曲が収録されていたアルバムは『Have A Marijuana』という題名だったため、ラジオではほとんど流れなかった。

しかし、それからわずか一年のうちに、この言葉はたくさんのメジャーなアルバムに登場することになった。映画『Woodstock』のサウンドトラック・アルバム、ジェファーソン・エアプレインの『Volunteers』、ザ・フーの『Live At Leeds』(このアルバムの場合、ロジャー・ダルトリーが「Young Man’s Blues」で口にしたのはロンドンのスラングだったので、アメリカ人はほとんど気づかなかったという事情もあった)。そして言うまでもないことだが、上記のカーリンの持ちネタは1972年にレコード化されてヒットした。

 

ほのめかしの名人芸

それと同じ年、ローリング・ストーンズが「Star Star」でタブーを打ち破った。これは、Fで始まる四文字言葉を含んだ最初のロック・ナンバーというわけではなかったが、問題の四文字言葉が楽曲の中でかなり目立っていたことは確かだった。しかしやっかいなことに、レコード会社がナーバスになったのはこの曲のほかのパートだった。

“giving head to Steve McQueen”というフレーズは、スティーヴ・マックイーン本人から許可をもらうことができなければ、危うくカットされるところだった。しかし”I bet you keep your pussy clean”はアメリカの音楽の規制に引っ掛かり、ミック・ジャガーがオーヴァーダビングを重ね、彼自身の声で誤魔化すことになった。なお、CD時代に入ってからは、そのオーヴァーダビングされたパートが取り除かれている。

 

一方、ほのめかしの名人芸はまだまだ続いていた。その優れた例はレゲエの世界で聴くことができる。

UKレゲエ/スカのアーティスト、ジャッジ・ドレッドは「BBCで放送禁止処分を下された回数が最も多いアーティスト」という世界記録保持者である。BBCは、ドレッドがその手の表現をまったく使っていないクリーンな曲を出したときでさえ、ほとんど反射的にオン・エア・リストから外していた。

またルーツ・レゲエの伝説的アーティスト、マックス・ロメオの「Wet Dream」も、BBCで2回ほどオン・エアされたあと、局内の人間がこの曲の歌詞が暗示している内容に気づいたからなのか、放送禁止楽曲になっている。それでもこの曲はカルトな名曲となり、エルヴィス・コステロもライヴで何度か演奏している。

”Lie down girl, let me push it up”というサビの部分はかなり性的な意味に見えるが、ロメオ本人はこの曲はまったく無実だと主張した。曲名の”wet dream”というのは「夢精」を意味する言葉だが、彼の主張によればこれは実際に「水でびしょびしょになった夢を見た」ことから思いついた曲だという。ベッドの上の天井から水漏れがしたので、妻に向けて「水が出ている割れ目に何か突っ込んで欲しい」と頼んだことからサビの歌詞ができたというのがソングライターの説明である。

 

ディスコ・ブームが近づいたころには、ポップ・ミュージックのリビドーは全開になる寸前だった。

テン・ホイール・ドライヴの「Morning Much Better」では、ジェニア・レイヴンが忙しすぎて夜に羽目を外せないので、午前中なら「ちょっと連結作業をできるかもしれない」と語っている。これは露骨すぎたのでマイナー・ヒットにしかならなかったが、その6年後にはスターランド・ヴォーカル・バンドの「Afternoon Delight」が同じような内容で大ヒットを記録した。「Afternoon Delight」はチャートの首位に立っただけでなく、スターランド・ヴォーカル・バンドが彼ら自身をフィーチャーしたテレビ・シリーズをスタートさせるきっかけにもなったのだった。

 

すべてにおいてあけっぴろげ

ドナ・サマーが「Love To Love You Baby (愛の誘惑) 」をリリースした1975年には、何もかもがあけっぴろげになっていた。この曲でドナは、1960年代にチャカチャスやロビンソンが吹き込んでいた思わせぶりな声をさらに熱烈に、さらに長い時間に亘って披露している(アルバム・ヴァージョンでは17分ものあいだエクスタシーの時間が続いていた)。

その後のドナは”ボーン・アゲイン・クリスチャン”になり、この曲のパフォーマンスを披露することを拒むようになったが、やがてエロティックな部分を除いて再び歌うことでしぶしぶ同意した。一方、彼女と同じくカサブランカ・レーベルに所属していたヴィレッジ・ピープルの場合、何から何までほのめかしだった。それはジョークだった。彼らのカタログ全体を眺めてみても、あからさまに性的な歌詞はまったく見当たらない。彼らはただ、YMCAや海軍でとても「楽しいこと」ができると歌っているだけだった。

 

そのあとに控えていたのはグレイス・ジョーンズの「Pull Up To The Bumper」だった。性行為のときの姿勢について具体的に歌ったこの曲は、1981年の時点における音楽の規制の限界に挑戦していた。この曲の中では、”long black limousine (黒くて長いリムジン) ”という表現で、男性の「持ち物」が賞賛されている。

ただし、露骨な曲すべてがセックスに肯定的なわけではない。マリアンヌ・フェイスフルの「Why D’Ya Do It」は、1980年の時点でも、今でも十分にショッキングだ。ここでは、あからさまな性的表現以上に、性的な裏切り行為やジェラシーに関する描きかたが衝撃的だった。

 

政治的な内容に対する規制

とはいえ、1970年代後期に特に物議を醸した曲はセックス絡みの作品ではなかった。セックス・ピストルズの「God Save The Queen」は下品な言葉をひとつも使っていなかったが、BBCはこの曲で歌われている事柄に激怒し、曲名を放送で流すことさえなかった。英国国歌の題名をそのまま借用するというやり方は、少なくとも曲そのものと同じぐらい物議を醸した。

レコードストアはいやいやながらこのシングルを売り場に並べたが、カウンターにその週のシングル・チャートが張り出されるような店に入ると、「God Save The Queen」が書かれているはずの場所がぽっかりと空欄になり、このシングルはニュー・ミュージカル・エクスプレス誌のチャートで1977年に首位を獲得した。しかしその他のチャートでは最高で2位にとどまり、裏でチャートの数字が操作されているのではという非難が巻き起こった。

ひとつの前のシングル「Anarchy In The UK」も政治的な内容と下品な言葉で放送禁止処分になったが、続くシングル「Pretty Vacant」については、さすがのBBCも禁止する理由を思いつかなかったようだ 。

 

音楽を規制する側の敗北

1980年代になると、音楽を規制する側が戦いに負けたような雰囲気だった。あからさまな言葉を使った曲も、ラジオのFM局が頻繁にオン・エアするようになった(たとえばザ・フーの「Who Are You」のような曲だ)。長年にわたって限界を突破するような活動を繰り広げてきたフランク・ザッパも、ご家庭でも安心して聴ける「Valley Girl」で最初で最後のトップ40入りのヒットを飛ばした。そしてヒップホップとヘヴィ・メタルの発展により、もはや以前のような歌詞に対する規制は有名無実になった。

そんなところに現れたのが、PMRC (Parents Music Resource Center) だった。音楽の規制強化を目指したPMRCの活動は、ある意味、1980年代の音楽の自由に関する出来事の中で最高のものだった。後に副大統領夫人となったティッパー・ゴアを中心としたPMRCのメンバーたちは、高貴なる目的と強権的な手段をミックスさせていた。

確かに彼らの目的は、潜在的に危険なメッセージから子供たちの耳を守ることにあったのかもしれない。しかし彼らは、非常に攻撃的な姿勢をとっていた。たとえば、デッド・ケネディーズのリーダーだったジェロ・ビアフラは、HR・ギーガー作のジャケット・アートを使ったことで激しい攻撃を受け、最終的に破産に追い込まれた。

また有害な作品の選択基準もピント外れのものが多かった。彼らが取り上げたトゥイステッド・シスターの「Under The Blade」は、刃物による暴力の歌としてPMRCから批判されたが、実のところ外科手術に関する歌だった。そうした事情が相まって、PMRCの活動は失敗に終わる運命にあった。

一方、当然のことながら、PMRCが標的にしたアーティストはかえって追い風を受けることになった。オジー・オズボーンは再びメディアで大きく語られるようになり、ショック・メタル・バンドのWASPも人気が長続きした。そしてポピュラー・ミュージックの世界にいる人間にとって、PMRCは立ち向かうべき共通の敵となった。物議を醸すことが決してなさそうなバンド 、たとえばスティックスでさえ、PMRCに反対するコンセプト・アルバム『Kilroy Was Here』を制作している。

 

汚らわしい15曲

PMRCに対する特に辛辣な反応としては、フランク・ザッパが作った「Porn Wars」(上院公聴会での議論の録音テープをコラージュした作品)や、ティッパー・ゴアをこき下ろしたトッド・ラングレンの「Jesse」などが挙げられるだろう。この「Jesse」は、レコード会社の自主規制によりラングレンのアルバム『2nd Wind』から外され、いまもって正式にリリースされていないが、熱心なファンはライヴ・ヴァージョンで聴き馴染んでおり、彼らのお気に入り曲となっている。

反ティッパーを掲げた楽曲はラングレン以外のアーティストも作っており、合計すれば10曲ほどになるだろうか。こうした動きは、PMRCそのものよりも長続きした。エミネムでさえ、2002年の「White America」の中でティッパーに嫌味を言っている。そのころには、彼女がロックの規制活動から足を洗ってからもう何年も経っていたにも関わらずだ。

PMRCが1985年に発表した「汚らわしい15曲」という有害楽曲リストは、今では80年代の完璧なサウンドトラックのように感じられる。ここにはメタルもあるし、黒人アーティストと白人アーティストの両方のポップ・ソングが含まれている。さらには、プリンスと彼に関連する女性アーティスト(シーナ・イーストンとヴァニティ)、デフ・レパード、マドンナが一緒に並んでいる。

その当時の大多数のラジオ局が流していたプレイリストよりも、おそらく気が利いた選曲になっているのではないだろうか。このリストのおかげで、イアン・ギラン在籍時代のブラック・サバスのアルバム『Born Again』に入っていた「Trashed」のような曲までがラジオのローテーションに返り咲いた。2015年にはローリング・ストーンを含む数多くの雑誌が、このリストに載っていた15組のアーティストについて「あの人は今?」的な懐古特集を組んでいる。

奇妙なことに、PMRCはフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの「Relax」をすっかり見逃していた。この曲はイギリスでなかなかの騒動を巻き起こしていたが、それこそがグループの狙っていたものだった。

<関連記事> “汚らわしい15曲”とミュージシャンの反応

 

あらゆる親にとって悪夢

1990年代、音楽への規制はひどくなるばかりだった。ヒップホップ・グループの2ライヴ・クルーは、「あらゆる親にとって悪夢」だったかもしれないが、その悪名高きアルバム『As Nasty As They Wanna Be』にはティッパーが推進した「ペアレンタル・アドヴァイザリー」(親に向けて、過激なワードが入っているという忠告のステッカー)がちゃんと貼られていた。またPMRCの側も、自分たちが求めていたのはせいぜいこのステッカーの添付くらいであり、それ以上の規制は望んでいないと常々主張していた(当初は映画のレーティングのようにもっと細かく規制の強いものを望んでいたのが事実だが)。

しかしそれでも、フロリダ州の警察は2ライヴ・クルーのこのアルバムを売ったレコード店の店主を逮捕し、さらには2ライヴ・クルーも逮捕してしまった。最終的にはどちらも不起訴になり、『As Nasty As They Wanna Be』は200万枚の売上になったが、この時期は音楽の規制がもう笑い事ではなくなっていた。この一件に絡んだユーモラスな出来事といえば、2ライヴ・クルーへの連帯感を示すため、さまざまな地方のインディーズ・ロック・バンドがシングル「Me So Horny」をカヴァーしたことが挙げられる。

1990年代に入ると、アメリカの道徳を審判するのはPMRCではなく、大手小売りチェーンのウォールマートになった。この会社は、社内で定めた独自基準から外れるアルバムの仕入を拒むようになったのである。その結果ニルヴァーナはアルバム『In Utero』の収録曲「Rape Me」の曲名を「Waif Me」に変更することになった。

さらにウォールマートは、シェリル・クロウのセカンド・アルバムの販売を拒否した。その理由は「Love Is A Good Thing」という曲で、ウォルマートで銃を買うのは簡単だとという批判が曲の中で歌われていたことにあった。これは不気味な兆候だった。セックスやドラッグに代わって、反商業主義的な意見がタブーになろうとしていたからである。

 

9.11の余波

2000年代の最も有名な音楽の規制は、2011年9月11日の同時多発テロ以降に、全米で最多のラジオ局を所有するクリア・チャンネルが傘下のラジオ局に送付した150曲のリストになるだろう。公平を期すために言えば、このリストは文字通り放送禁止する曲を並べたものではなく、ただDJが「放送したがらない可能性がある」曲をリストアップしただけだった(プレイリストとしてまとまっています こちら)。

ここでも、元々の意図は善良なものだったのかもしれない。しかし、これはやはり企業による過剰な規制のように思える。何しろ、ニューヨークに触れた曲、少しでも戦争をイメージさせる曲、ありとあらゆる種類の政治的メッセージが含まれた曲を軒並みターゲットにしていたのだから。しかも、このリストに含まれていた曲の多くは、当時の世界の人々が必要としていた感情を歌った歌だった。たとえばジョン・レノンの「Imagine」、ザ・ヤングブラッズの「Get Together」、ルイ・アームストロングの「What A Wonderful World (この素晴らしき世界) 」がこれに当たる 。

しかし、PMRCの時と同じように、このリストも一種の笑いの種になった。リストを眺めていけば、明らかに恋愛のことを歌ったAC/DCの「Shot Down In Flames」といった曲までが収められているのに気付くはず。あの暗い日々には、そういう風にこのリストを笑うことが唯一の息抜きと言ってもよかった。

 

タブーは残っているのか?

近年では、もはやタブーは残っていないかのように見える。唯一残っているタブーといえば、アーティストのプライベートな生活ぐらいかもしれない。ゲイリー・グリッターの「Rock & Roll Part 2」は、曲そのものはまったく害のないものだ。しかしグリッター本人が児童ポルノ所持や未成年との淫行容疑で逮捕されたため、公共の場で流れることはこの先あまりなさそうに思える(*2019年公開の映画『ジョーカー』にはこの曲が印象的に使われているシーンがあり、一部で論争が起きていた)

それを除けば、今はまったくの無規制状態のように見える。やりたい放題のラッパーでさえ、かつてのN.W.A.や2ライヴ・クルーのような集中砲火を浴びることはない。エミネムは、2000年の「The Way I Am」で「ラジオは俺の曲を毎日流してくれることはない」と自らを負け犬のように語っていたが、その直後にはグラミー賞でエルトン・ジョンと共演し、映画で主演を務め、業界トップスターとなっている。

チャートのトップ10入りした曲の中にも、規制のターゲットになりそうな曲がいくつか見られる。たとえばカーディ・Bの「I Like It」、XXXテンタクションの「Sad!」、ポスト・マローンの「Psycho」、ドレイクの「Nice For What」などがそうだ。少なくとも今では、問題になりそうなところをデジタル編集で綺麗に修正することが以前よりずっと簡単になっている。ジョニー・キャッシュの「A Boy Named Sue」のように、耳障りなビープ音で隠す必要もない。

最後の締めくくりとして、規制を逃れて大ヒットした最高にセクシーな曲に触れないわけにはいかない。マーヴィン・ゲイの「Let’s Get It On」とマドンナの「Justify My Love」である。歌詞の面で言えば、もっと挑発的な曲はたくさんあるが、音作り(特にヴォーカル)のおかげで、この2曲は言葉だけでは伝わらないセクシーな雰囲気を濃厚に伝えている。どちらの曲も、テーマは欲望。さいわいなことに、それはまだ誰も規制できていない。

Written By Brett Milano



 

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