マディ・ウォーターズの20曲:史上最高の吠えるブルース・マン
多くの人々にとって、彼はマイクに向かって吠える史上最高のブルース・マンであった。彼の威厳は絶大だった。彼が優しそうな顔にしゃくれた笑顔を見せる時も、熱狂的オーディエンスに厳しい警告を吠える時も、彼は自分の凄さを理解していた。彼よりもずっと裕福なバンド達が彼の楽曲を盗み、彼のスタイルをコピーし、時には彼の曲をバンド名にすることもあった。しかし彼は、誇り高く、強く、強烈な人であり続けた。マディ・ウォーターズのことだ。他に誰がいるだろうか。
マッキンリー・モーガンフィールドは、ミシシッピー州で、1913年か1914年か1915年に誕生した(かつてアメリカ南部の黒人達は、出生届を提出する決まりに従わないことがよくあった。社会が彼らの生死を気にしていなかったからだ)。彼は若くして母親を亡くし、祖母に育てられた。彼の祖母は、彼が泥水(マディ・ウォーター)に入って遊ぶ事が好きなのに感心し、彼のことをマディと呼んだ。彼は音楽に興味を持ち、10代の時にギターとハーモニカを演奏し始め、パーティで歌う時はロバート・ジョンソンやサン・ハウスになりきった。優秀な子供だった。
マディ・ウォーターズは、ミシシッピー州のストーヴァルで、ブルースとフォークの歴史学者アラン・ローマックスに見出された。1941年から1942年にかけて、彼はアラン・ローマックスのテープ・レコーダーに18曲を歌って録音した。アラン・ローマックスはそれを“フィールド・レコーディング”と呼んでいたが、実際はマディ・ウォーターズの家で録音された。マディ・ウォーターズは彼の声の良さに初めて気づき、驚いた。自分自身の声を録音して聞いたことがなかったのだ。1943年、彼はシカゴ北部に移住し、クラブで演奏をしていたが、都市の観客は騒々しすぎて、マディ・ウォーターズはエレクトリック・ギターを手に入れなければならなかった。3年後、アーティストを探していたレコード会社、アリストクラットがマディ・ウォーターズと契約した。その2年後の1948年、彼は「I Can’t Be Satisfied」をヒットさせた。
‘ヒット’というのは、正確な言葉ではないかもしれない。戦後のアメリカで、ブルース・マンがポップ・‘ヒット’を出すことはなかった。彼らには彼らだけの“ゲットー”と称されたチャートがあり、そこで“黒人の曲”が競われたのだ。マディ・ウォーターズはこのチャートで11位を達成した。まだ若いレーベルから、無名の男が出すファースト・シングルとしては好成績だ。そして「I Can’t Be Satisfied」は名曲だった。レーベルは‘リズム伴奏’が沢山入っていると説明していたが、実際はマディ・ウォーターズと彼のスライド・ギターに、アーネスト・“ビッグ”・クロウフォードのスラッピング・ベースを加えた曲だ。生々しく、まだ磨かれていないマディ・ウォーターズであったが、その個性が豊富で曲は売れた。そして彼の声は、彼独自のものだった。最も目立っていたのは、彼の自信溢れる態度だった。彼は自分が何をやっているか分かっている男だった。もうひとつの名曲が「I Feel Like Going Home」だ。この曲を、彼自身の哀歌だとみなすのは簡単だが、彼は、ある世代の南部の黒人達を体現している。彼らは、より良い都市での生活を求めてシカゴやデトロイトに列車に乗って移住したものの、南部の生活を慕っていた。この曲は、優れた評論家ピーター・グラルニックが1971年に出版した初の音楽本のタイトルにもなっている。
1950年代の始め、マディ・ウォーターズの調子はより好調になっていく。
彼は1月に、パークウェイ・レコードのために、ベイビー・フェイス・リロイと「Rollin’ And Tumblin’」をレコーディングした。これに怒ったアリストクラットが、何週間も後になって、アリストクラットためにもマディ・ウォーターズにこの曲を再度レコーディングするようにと主張した。1920年代から存在する曲だが、ロバート・ジョンソンからクリームまで、誰もがこの曲をカヴァーしている。エルモア・ジェイムスのヴァージョンがマディ・ウォーターズのヴァージョンに近いが、マディ・ウォーターズはこのにぎやかな酒と女の物語を、決定的に自分の曲にしている。悲しみは歌詞の中に潜んでいたが、彼は歓喜を持って歌った。「悪い行いの替わりに、信仰があったならば」と。次のシングルはチェス・レコードからの初のリリースとなったが、驚異的なことに、これも長寿の名曲だ。「Rollin’ Stone」は、似た名前の有名バンドのインスピレーションとなった。「Catfish Blues」という別名でも知られており、マディ・ウォーターズが最初に練習した曲のひとつだった。
マディ・ウォーターズはぐずぐずしてはいなかった。もう新人ではない彼は、ついに本気を出した。1950年代の終わりに、彼は連続して5曲をR&Bチャートのトップ10に送り込んだ。その中で最も売れたのが、「Long Distance Call」。マディ・ウォーターズがハーモニカ・スターのリトル・ウォルターと共演している曲だ(マディ・ウォーターズは、リトル・ウォルターの最も有名なインストゥルメンタル曲「Juke」でギターを演奏している)。すっかり都会に根を下ろしたマディ・ウォーターズは、キャデラックや電話について歌っていたが、‘Another mule kickin’ in your stall / 君と牛舎でもう一発’という歌詞の一節に、彼の心の中にある田舎の風景がにじみ出ている。
マディ・ウォーターズは1954年、新たな名曲「I’m Your Hoochie Coochie Man」を発表して、さらに成功した。この曲はチェスのチーフ・ソングライターとして急速に頭角を現したウィリー・ディクソンが書いた曲だ。「I’m Your Hoochie Coochie Man」には太古のルーツがある。‘ヴードゥー’という南部黒人の民間信仰で、ジプシーが妊娠している母の腹の中身について予言する時のことを歌っているのだ。‘Hoochie Coochie’は明らかに性的な言葉だった(男女の性器のスラング)。勘違いしないで欲しいが、マディ・ウォーターズは人を愛する男だ。以来、ジミ・ヘンドリックスからジミー・スミスまで、誰もがこの曲をカヴァーしている。
マディ・ウォーターズの次の2枚のシングルも、ブルースの名曲と評された。「Just Make Love Me」(「I Just Want To Make Love To You」としてより知られている)と、「I’m Ready」は、ウィリー・ディクソン作曲の、男性の欲求についての勇気あるステイトメントだ。どちらの曲も大量のカヴァーを生み出したが、マディ・ウォーターズの最初のヴァージョンが最も素晴らしかった。この時点で彼は、リトル・ウォルター、オーティス・スパン(ピアノ)、ウィリー・ディクソン(ベース)、ジミー・ロジャーズ(ギター)、フレッド・ビロウ(ドラム)など、シカゴで集められる限りの優秀なバンドと共にレコーディングをしていた。彼らはハードに、ラウドに、そしてタイトに演奏した。マディ・ウォーターズが1958年にイギリスをツアーした時、オリジナルの「Judas」でエレクトリック・ギターを演奏した彼に、観客は衝撃を受けた。この曲はフォーク・ブルースではなかった。始まりはそうだったかもしれないが、彼がシカゴのクラブでアコースティックで演奏していたら、彼は飢えてしまったであろう。
1955年、また新たなマディ・ウォーターズの名曲「Mannish Boy」が発表された。ボ・ディドリーの「I’m A Man」への回答となる曲で、そのインスピレーションと同様に素晴らしい曲だ。英国のポップ・チャートで51位を達成し、遂にマディ・ウォーターズは、ポップ・チャート入りするヒット曲を生み出した(残念なことに、それは発表から30年後の1988年のことだったが)。ボ・ディドリーは、マディ・ウォーターズの知的な笑いを気にしなかったようだ。作曲者としての表記と印税は貰っていたが。
1956年、マディ・ウォーターズは「Got My Mojo Working」で、ヴードゥーに立ち返った。この曲はバンド名、雑誌名、そしてキャンディーの名前までに影響を与えた。以来、あらゆるブルース・ミュージシャンの卵の定番曲となっているが、マディ・ウォーターズもまた、最初はアン・コールの曲をまねてレコーディングしている。
「You Shook Me」で、マディ・ウォーターズは普段やらない試みをし、ウィリー・ディクソンとJ.B.レノアが書いた歌詞を、他の人の曲で歌った。アール・フッカーのインストゥルメンタル曲「Blue Guitar」である。1962年発表のマディ・ウォーターズのヴァージョンは、「Muddy Waters Twist」と対になっていた。「Muddy Waters Twist」には、チェスが60年代初期のブルース・アーティスト達をどう取り扱えばいいか分かっていない様子が伺える。このレコードはチャート入りしなかった。次の強力な曲「You Need Love」もまた同じだった。これも、アール・フッカーの曲に歌を乗せている。しかし両曲とも、その後で素らしい後年を送っている。「You Shook Me」は、ジェフ・ベック・グループとレッド・ツェッペリンによってカヴァーされ、「You Need Love」はスモール・フェイセスが彼等の楽曲としてリリースした後(*訳注:You Need Lovingのこと)、レッド・ツェッペリンは「You Need Love」を、「Whole Lotta Love (邦題;胸いっぱいの愛を)」としてカヴァーした。その後、CCSがカヴァーしたヴァージョンが英国のTV番組『 Top Of The Pops』の最も記憶に残るテーマ曲となった。
60年代半ばに、イギリスのバンド達によって、ブルースのリヴァイヴァルが起こった。誰もがマディ・ウォーターズに言及していたが、彼はザ・ローリング・ストーンズのように、10代の少女達に叫び声を上げられることはなかった。しかしマディ・ウォーターズは、この時期に数々の名曲を残している。「My Dog Can’t Bark」は速くて激しいロックで、「Put Me In Your Lay Away」は、彼にとっては非常にモダンな曲だ。マディ・ウォーターズは、誕生したばかりのフェスティバルや大学でライヴを行なっていたが、彼がやらないような流行りのブルース曲をよくやるバンドの方が、ヒットしていた。
チェスは、人々が楽しむものはブルース・マンが楽しむものだと決意し、マディ・ウォーターズを、サイケデリック・ソウル・バンド、ロータリー・コネクション、優れたギタリストのフィル・アップチャーチ、冒険好きのプロデューサー、ステファニー・チェスとマーシャル・チェスと一緒にスタジオにぶち込んだ。そうして生まれたアルバム『Electric Mud』は、マディ・ウォーターズのサウンドを最大限に拡大しており、今聴いてもオープニング曲の「I Just Want To Make Love You 」の彼のヴァージョンは、その当時に引き戻されるファンキーなブルース・ロックの強力な傑作だ。変わった見返りとして、マディ・ウォーターズはザ・ローリング・ストーンズの「Let’s Spend The Night Together」をクリームのようなサイケデリック風の楽曲に仕上げている。厳しい評価を受けたにもかかわらず、このアルバムは発売後6週間で15万枚のセールスを達成。次にマディ・ウォーターズは、『After The Rain 』と『Fathers And Sons』で、コンテンポラリー・ロックというさらなる挑戦に出た。後者は、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドなど新世代のブルース・プレイヤー達を迎えていたため、このタイトルがつけられた。1972年、『The London Muddy Waters Sessions』で、マディ・ウォーターズはスティーヴ・ウィンウッド、ミッチ・ミッチェル、ロリー・ギャラガーと組んだ。この作品に収録された「Key To The Highway」は、マディ・ウォーターズが最初に1958年にリトル・ウォルターと演奏した曲だ。
1975年、チェスはレコード会社として終わりを迎え、マディ・ウォーターズはレーベルを失った。2年後に、彼はブルー・スカイと契約し、プロデューサー兼ギタリストのジョニー・ウィンターと組んで、「Hard Again」を発表。長年マディ・ウォーターズのファンであったジョニー・ウィンターは、このテイストが急に流行ると判断し、完全に直球のマディ・ウォーターズのアルバムを作った。彼はこの環境で大成功した。そして、彼の周囲で聞こえる音楽といえば、『The Blues Had A Baby And They Named It Rock And Roll Pt 2』からの曲になるようにしてみせた。マディ・ウォーターズは彼のままで崇拝されるようになり、1981年の最後のアルバム『King Bee』の際には、最高の状態であった。彼はマディ・ウォーターズを変えてサイケデリックに進ませたが、プレイリストの最後の曲「No Escape From The Blues」が指し示すように、マディー・ウォーターズが、ブルースから逃れることはなかったのである。
Written By Ian McCann
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