追悼マーク・E・スミス:ザ・フォールのフォンタナ在籍時代を振り返る

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ザ・フォールの短気なフロントマン、マーク・E・スミスはいつだって愚か者に容赦しなかった。その横暴な評判が先行してしまっているが、バンドの波乱に満ちた歴史には相対的に安定している時期もあった。マンチェスター出身の不朽のポスト・パンク・バンドだった彼らの最も情熱的なサポーターも、80年代半ばから90年代半ばまでの彼らの安定した功績を十分に楽しんだと言うことだろう。この時期はデビュー・アルバム『Live At The Witch Trials』で始まり、フォンタナに所属していた時の3枚のアルバムで終わり、その中でマーク・E・スミスと仲間たちは一度ならずメインストリームのオーディエンスを誘惑した。

一貫して批評家の評判は高かったものの、1977年の結成から1983年まで、ザ・フォールは確実にカルト的な存在だった。マーク・E・スミスがアメリカ出身のギタリスト兼ソングライターのローラ・エリース・サレンジャー(akaブリックス・スミス)と結婚するとバンドの商業的な可能性が徐々に広がり、ザ・フォールは評判の高いインディ・レーベルのベガーズ・バンケットと契約。この上り調子はその後5年間続き、ブリックス時代のザ・フォールのクリエイティヴなパートナーはザ・ストーン・ローゼズ、レディオヘッドを世に送り出すことになるプロデューサーのジョン・レッキーであり、『This Nation’s Saving Grace』や『Bend Sinister』などの名作アルバムを生み出した。また、ザ・キンクスの「Victoria」やR.ディーン・テイラーのモータウンの代表作「There’s A Ghost In My House」の記憶に残るカヴァーを発表し、正真正銘の全英トップ40ヒットも達成している。

『This Nation’s Saving Grace』時代のザ・フォール Photo: Carole Segal

1989年にマーク・E・スミスとブリックス・スミスは別れたものの(そしてブリックス・スミスはバンドを脱退)、80年代が終わりを迎えるにつれ、ザ・フォールは依然とクロスオーヴァーの成功を保っていた。ザ・ストーン・ローゼズやハッピー・マンデーズなど、マンチェスターを中心に起こったインディ・ダンス革命の中で、レコード会社はその街の次のベスト・バンドをかっさらうことに意欲的だった。ザ・フォールはフォノグラムの傘下にあるフォンタナと契約を締結。80年代後半から90年代初めにフォンタナに所属していた他のアーティストにはハウス・オブ・ラヴ、ペル・ウブ、ジェイムスなどが含まれる。

ザ・フォールのオリジナルのギタリスト、マーティン・ブラマーがブリックス・スミスの代わりに復帰し、新しくメンバーが揃ったバンドはフォンタナでのデビュー作をレコーディングし、プロデューサーにクレイグ・レオン(ブロンディ、ラモーンズ)とエイドリアン・シャーウッドを迎え、1990年に『Extricate』を発表した。サウンズ誌からは5つ星、NME誌でも10/10のレヴューを評価され、『Extricate』は今日までに発表されたザ・フォールの最も迫力ある音楽をフィーチャーし、その中には「Chicago Now」や珍しく穏やかなラヴ・ソング「Bill Is Dead」が含まれ、後者はBBC Radio 1のDJジョン・ピールの年間フェスティヴ50のリストのトップに輝いた。

また、いつもと異なるもうひとつの曲として、アルバムの先行シングル「Telephone Thing」が挙げられ、それは前衛的なエレクトロニック・デュオ、コールドカットとの魅力的なコラボレーションだった。『Shaft』のようなワウワウ・ギター、サンプルやファンキーなビートで、この曲は表面的にザ・フォールがマッドチェスターの波に乗ろうと試みたと見ることもできなくないが、マーク・E・スミスの被害妄想にかられた電話の盗聴を歌った詩は別のストーリーを物語っている。

『Extricate』は長いワールド・ツアーにサポートされ、その間、ザ・フォールは初めて日本や東欧の一部の地を踏んだ。しかし、ツアー中にマーティン・ブラマーとキーボーディストのマルシア・スコフィールドがバンドを脱退し、ザ・フォールは続けてアルバム・リリース後にパワフルなシングル「High Tension」、そしてザ・ビッグ・ボッパーの「White Lighting」のカヴァーを、マーク・E・スミスとバンドの長期にわたるギタリストのクレイグ・スキャンロン、ベーシストのスティーヴ・ハンリー、そしてドラマーのサイモン・ウォルステンクロフトとのクインテットとしてレコーディングした。

特別にヴァイオリニストのケニー・ブレイディの貢献もあり、この削ぎ落とされたラインナップでザ・フォールはさらに次のアルバム『Shift-Work』をレコーディングし、1991年4月にフォンタナよりリリースした。怒りっぽいザ・フォールの標準に比べて、明るく親しみやすいアルバムは好評で、「Rose」や「Edinburgh Man」(後者はマーク・E・スミスがブリックス・スミスと別れた後に一時的にスコットランドで雲隠れしていたことを歌っている)などの内省的な曲もあったが、「The War Against Intelligence」やお高く止まったアンチ・マッドチェスターの演説「Idiot Joy Showland」は、決してマーク・E・スミスが丸くなったわけではないことを示していた。

『Shift-Work』の親しみやすさは、後にザ・フォールにとって有利に働いた。好評なレヴューが続き(ヴォックス誌は“現時点での最優秀アルバム”と称した)、おかげで全英チャートで17位に登り、バンドにとって最も成功したアルバムの1枚となった。『Extricate』に比べると、アルバムを引っさげてのツアーは軽いもので、1991年の春と初夏にヨーロッパ・ツアーが行われた。しかしその数ヶ月後、ザ・フォールに新しく加入したキーボーディストのデイヴ・ブッシュは、厳しい試練を強いられたのだ。デイヴ・ブッシュの初めてとなるライヴは、マンチェスターのヒートン公園で行われた野外フェスで、バンドは17,000人の前で演奏したのだ。その数週間後、再びザ・フォールはイギリスで由緒あるレディング・フェスティヴァルに出演し、カーターU.S.M.、ジェイムス、デ・ラ・ソウルとともにラインナップに名を連ね、彼は再び気持ちを落ち着かせて挑まなければならなかった。

デイヴ・ブッシュの技術的なスキルは、ザ・フォールが『Shift-Work』の中で追求していく方向性にも影響した。ビート、サンプリングやプログラミングに熟練していたデイヴ・ブッシュは、熱心なテクノ・ファンであり、彼のエレクトロニカへの愛が、ザ・フォールがフォンタナで発表した最後のアルバムとなった『Code: Selfish』に染み込んでいた。グラスゴーの広い教会を改装したCavaスタジオでレコーディングされ、アルバムはプロデューサーのクレイグ・レオンとサイモン・ロジャースを筆頭に制作された。後者は1985年〜88年まで活動していたザ・フォールの元メンバーであり、のちにバウハウスのピーター・マーフィーとザ・ライトニング・シーズのイアン・ブルーディーと活動した。

サイモン・フォードの著書『Hip Priest』によると、マーク・E・スミスは『Code: Selfish』を『Extricate』や『Shift-Work』よりもっと“ハードでザクザクした”サウンドに仕上げたがっていた。そしてそれはタフでガツガツしたアンセムの「Return」や「Everything Hurtz」、そしてヒプノティックでシークエンサーが中心になっている「Immortality」などによって大いに実現されている。間違いなくアルバムの中で際立てっている、マーク・E・スミスとウルステンクロフトの共作による「Free Range」はさらに、デイヴ・ブッシュのエレクトロニックのテクスチャーでさらに幅を広げ、アルバムのリリースに先駆けて全英トップ40をかじった。

イギリスのメディアは再び『Code: Selfish』も温かく迎え、NME誌はアルバムを“想像力の祝福”と称した。ザ・フォールの急成長していたファン・ベースもアルバムを絶賛し、1992年の春に全英トップ40で21位までに押し上げた。リリース後、マーク・E・スミスと仲間はツアーに出て、イギリスやヨーロッパを長い間にわたってツアーし、数々のメジャーなフェスにも出演した。その中にはザ・フォールのグラストンベリーへのデビューを含み、そこではハウス・オブ・ラヴとザ・レヴェラーズと同じくラインナップの良い出演順でパフォーマンスを行った。

バンドは常に全英チャートと小競り合いをしてきたが、ザ・フォールは最後のシングル「Ed’s Babe」をリリースしてから、1992年後半にフォンタナに別れを告げた。振り返ってみれば、ザ・フォールはメジャー・レーベルでの年月で、3枚の非常に集中的で、洗練されたアルバムを生み出し、彼らの長く紆余曲折あるキャリアの中で重要なタッチストーンとなっている。

Written by Tim Peacock, Lead photo: Curtis Benjamin


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