ブルース・ハープのキング、リトル・ウォルター:50年代シカゴ・ブルース界の2大巨頭
ジャズの音楽雑誌ダウンビートはリトル・ウォーターについて以下のように説明している。「事実上、あらゆるブルース・ハーモニカ・プレイヤーが彼を手本にしている。彼はこのジャンルの標準的な表現方法をほぼ一人で作りだしたのだ」。ブルースを愛好する我々のあいだで、この記述に異論のある者はいないと思う。しかしながら世間一般での彼の知名度は不当なほどに低い。
ジャズ・サックスと言えばチャーリー・パーカー。ロック・ギターと言えばジミ・ヘンドリックス。ならばハーモニカ・ブルースと言えば?これはもう誰が何と言おうとリトル・ウォルターなのである。1930年にルイジアナ州郊外で生まれたウォルター・ジェイコブスは、その後16歳の時にシカゴへ移り住み、タンパ・レッドやビッグ・ビル・ブルンジー等とともにクラブで演奏活動を始めた。
1947年に初のレコーディングを経験し、翌年はマディ・ウォーターズ・バンドとともにツアーやレコーディング活動をしつつ、同時にシカゴで活動する他のミュージシャン達のレコーディングにも参加した。彼のハーモニカのパワーによって多くのブルース・レコードは熱気を孕み、間もなく彼は自身の名義によるレコーディングのチャンスを得た。1952年にチェッカー・レーベルからリトル・ウォルター&ヒズ・ナイト・キャッツの名義でリリースした「Juke」は、同年9月のR&Bチャートで1位を獲得している。彼がその後ヒット・チャートに送り込むことになる15曲の、記念すべき最初の楽曲だ。
1955年リリースの「My Babe」も同じく1位を記録し、その他「Sad Hours」、「Blues With A Feeling」、そして「Blues With A Feeling」などいずれも2位になっている。これらの作品は「Key To The Highway」と並んでその後半世紀にわたってブルース・ミュージシャンに影響を与え続けているリトル・ウォルターの魅力の真髄を伝える。
マディ・ウォーターズとともに1950年代シカゴ・ブルース界の2大巨頭として君臨したリトル・ウォルターは、マディ・ウォーターズとともにレコーディングを続けた。1962年、彼はヨーロッパで行われたツアー”American Folk Blues Festival”に出演したが、その後アメリカに戻ってからは、そのキャリアは全くの暗礁に乗り上げてしまった。リトル・ウォルターは1967年に再びヨーロッパを回ったが、1968年2月15日、大酒飲みでケンカ好きの彼はケンカをして負った怪我により冠動脈血栓症で亡くなってしまう。享年37歳だった。
しかしジョン・リー・フッカーが言ったように、彼は‘ソウルの塊’である。あなたにも、是非リトル・ウォルターの音楽に触れてみて欲しい。
Written By Richard Havers