ジェイムス・テイラー『James Taylor』解説: ポールとジョージが心を奪われたデビュー作
1968年の秋、4ヶ月かけてレコーディングされたジェイムス・テイラー(James Taylor)のデビュー・アルバムは彼の人生が重大な局面を迎えていたときにリリースされた。当時20歳だったジェイムス・テイラーはずっと苦しい経験をしてきた。病院で鬱病の治療を受け、その後ヘロイン中毒を発症。彼の両親は、ジェイムス・テイラーを更生させ、音楽に集中させるために、ジェイムスをノースカロナイナからUKへ移住させる費用を出さざるを得ないほどだった。
その新たなスタートはうまくいった。場所がロンドンであったこと、そしてジェイムス・テイラーが、ピーター・&ゴードンの一人としてミリオンセラーを生み出し、その後急成長していたザ・ビートルズのレコード・レーベル、AppleのA&R幹部になったピーター・アッシャーと繋がったこともラッキーだった。
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いきなりのオーディション
ピーター・アッシャーはポール・マッカートニーの当時の彼女ジェーン・アッシャーの兄だったので、ポール・マッカートニーとジョージ・ハリスンにジェイムス・テイラーの「Something In The She Moves( 彼女の言葉の優しい響き)」のオープンリールのデモテープを聞いてみてくれないかとお願いするには十分な仲だった。
それを聴いたポールとジョージは心を奪われ、ジェイムスは急遽アップル・レコードのオーディションを受けることになり、ジェイムス・テイラーはデモテープと同じ曲を演奏した。彼いわく「あの時に唯一できたのがあの曲だっんだ」。そしてジェイムスはピーター・アッシャーにこう冗談を言っていた。
「ありがたいことに、オーディションをやる約1時間前にそれを告げられたんだ。もし1週間前に教えられていたら丸々一週間眠ることができなかったよ」
アップルとの契約とビートルズ
ポール・マッカートニーとジョージ・ハリソンはこの未知のシンガーソングライターに魅力的な契約を申し出て、ジェイムス・テイラーは、英国以外のアーティストとしてアップルからの初のリリースとなった。アップルは特別な才能と契約したと確信していた。
その時、ザ・ビートルズはロンドンで有名なソーホー地区にあるトライデント・スタジオで同じく『The Beatles』のレコーディング中だったが、ポール・マッカートニーはジェイムスのために「Caroline In My Mind (思い出のキャロライナ)」でベースを弾く時間をつくり、ジョージ・ハリスンはこの控えめな最高傑作の中でバッキング・ヴォーカルとして参加した。
アメリカに帰りたい気持ちを振り切れなくなり、ジェイムス・テイラーはそれを抑えるために原始的な地中海の島で休暇を取りながら曲を書き始めた。彼の幼少期の家、家族、そして犬に対するホームシックを掘り下げながら、そこで作られた曲「Caroline In My Mind」はロンドンのメリルボーン・ハイ・ストリートにあるピーター・アッシャーのアパートで完成した。ジェイムス・テイラーはこう語る。
「ザ・ビートルズのプレイバックを聞いたり、スタジオで彼らのプロセスを見ることが出来ただなんて、僕はどれだけラッキーなんだろうと気付いたんだ。だけど、僕の絶対的なアイドルたちに囲まれていると同時に、アメリカのノースカロライナの自宅が恋しくなった。この曲“Caroline In My Mind”は、別の場所に呼び出されているときの気持ちをとらえた曲なんだ」
サウンドも豪華だった。曲のベース・ラインには常にこだわっていたジェイムス・テイラーは “コード記号のあるシンプルな根本的なチャート” を学ぶためにポール・マッカートニーのパートをすべて書き出していたと語っている。
「Caroline In My Mind」は『James Taylor』に収録された12曲のうちの1曲で、バスーンとオーボエも演奏した編曲者リチャード・ヒューソンのディレクションによって、エオリアン・カルテットとアミーチ弦楽四重奏団によるオーケストレーションが起用された。優秀なハープ奏者はスカイラ・カンガ。ジェイムス・テイラーがアレンジ、演奏した短縮バージョンの「Greensleeves」を含む多くの曲に音楽的な関連性があった。
アルバム収録曲
「Night Owl」もまた、とある場所からアイデアを得た曲であった。ジェイムス・テイラーと彼の初期バンド、ザ・フライング・マシーンがたまに演奏していたニューヨークのグリニッチヴィレッジにあるナイト・オウル・カフェだ。ちなみにこの時のバンド仲間ジョエル・ビショップ・オブライエンがジェイムス・テイラーのドラムとして参加している。
旋律の美しい「Something’s Wrong」がジョージ・ハリスンの「Something」にインスピレーションを与えたと言われていたことについて、ジェイムス・テイラーは愛想よくこういった。
「すべての音楽は他の音楽から取り入れられているんだ。だから僕は完全に無視するだけさ。僕はあちこちで人を驚かせているが、もし僕が彼の曲から盗んでいると人々が推定するならば、僕は黙って聞いていられないね」
ジェイムス・テイラーの急成長する作曲の才能は「Don’t Talk Now」や「Sunshine」、「Brighten Your Night With My Day」、そしてザッカリー・ウィーズナーとの共作「Rainy Day May」といった他の曲でも見られた。
「I Know You Rider」は20年代とブラインド・レモン・ジェファーソンによる曲に由来したブルースをベースとした曲である一方、「Knocking ’Round The Zoo」は彼の精神科病院での入院について歌った力強い自伝的な曲だ。
アルバムのジャケットはスーツ、ネクタイ、吊りベルトを身につけたちょっとだらしないジェイムス・テイラーが地面に横になっているものだ。“口ひげのあるジョニ・ミッチェル” のように見えたと、のちにジェイムス・テイラーは冗談を言った。
アルバム発売後と不運な事故
アルバムは1968年12月にイギリスでリリース、その2ヶ月後にアメリカでリリースされたが、マーケティングと宣伝に問題があり、受けるに値するセールスを得られず、全米チャートでは62位留まりだった。というのも薬物問題が再浮上したジェイムス・テイラーはリハビリに戻り、宣伝活動が全くできない状態にあったのだ。
彼は再び更生し、1969年の初め、ロサンゼルスの有力なナイトクラブ、トルバドールでソロ・デビューを行い、それ以降、彼の人気は上がり始めた。しかしその年、彼は不運にもひどいオートバイ事故にあってしまう。両手両足を負傷し、1ヶ月間ものあいだ演奏ができない状態となった。
しかしその事故は彼にたくさんの考える時間を与える機会にもなった。「ギプスが全部外れたと同時に、僕はエネルギーに溢れていた」とジェイムス・テイラーは思い返して言った。回復したジェイムス・テイラーは70年代に 、その時代の数々の素晴らしい楽曲「Fire And Rain」や「Millworker」、「Walking Man」を残し、影響力の大きいシンガー・ソングライターの一人にまで昇りつめた。
けれども、彼の出発点はザ・ビートルズとアップル・レコードとの契約ためのオーディションだった。ジェイムス・テイラーは数年後に語っている。
「まるで誰かがドアを開けてくれたようだった。そして僕の残りの人生はドアの向こう側にあったんだ」
Written by Martin Chilton
ジェイムス・テイラー『James Taylor』
1968年12月6日発売
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