ジェームス・ブラウンがポップチャートで成功する布石となった64年の「Out Of Sight」
1964年の夏、アメリカはどっぷりザ・ビートルズに浸かっていた。もちろん、他にもジェリー&ザ・ペースメーカーズ、デイヴ・クラーク・ファイヴ、アニマルズといったブリティッシュ・インヴェイジョンの騎兵隊達が続々と控えていた。
しかし、アメリカの良きアーティスト達も8月15日付のチャートを賑わせていた。ビーチ・ボーイズはいよいよそのポテンシャルをフルに発揮しはじめ、ザ・ドリフターズは「Under The Boardwalk」でトップ・テン入りを果たし、ディオンヌ・ワーウィックは「You’ll Never Get To Heaven(If You Break My Heart)」で全米シングル・チャートに初登場した。
そして、ディオンヌ・ワーウィックと共に初登場を果たしたのが“ショウ・ビジネス界で一番の働き者”だ。シルキーなホーン隊をバックに「You got your high heel sneakers on…」と歌うその男こそ、ジェームス・ブラウンだった。彼は1964年7月に発売した「Out Of Sight」でポップスへとクロスオーヴァーを果たそうとしていた。
この時点でミスター・ブラウンは、既にR&Bチャートにおいては8年以上成功を収めていた。1956年に「Please Please Please」で最初のソウル・ヒットを飛ばすと、その2年後に「Try Me」で初めての1位を獲得、その後1964年までに10曲のトップテン・ソウル・ヒットを世に出してきた。
しかし、ポップ・チャートでは1963年に「Prisoner Of Love」で1度だけトップ20入りを果たしたものの、R&Bチャートのような成功は容易なことではなかった。その後、1965年に「Papa’s Got A Brand New Bag」でトップ10入りするまではポップ・チャートに入ることはなかった。そこに至る過程において「Out Of Sight」は大きな布石となったのだ。
ジェームス・ブラウンと彼のオーケストラの「Out Of Sight」は73位でチャート・デビューを果たし、9月末にはポップ・チャートで24位まで上昇、R&Bチャートでは5位を記録していた。1960年台後半からそれ以降の彼のヘヴィなファンク・サウンドを発明するまでは、これがゴッドファーザーの代表曲の1つとなった。さらに1964年にリリースされた同名のアルバムにも収録された。
2002年に出版された彼の自叙伝『The Godfather Of Soul』でジェームス・ブラウンはアルバム『Out Of Sight』について「俺とバンドが、リズム的にこれまでと全く違う方向を目指したのを聴くことができる」と語っている。「ホーン、ギター、ヴォーカル、それぞれがあらゆるリズムを確立する為に同時に用いられるようになった」。
彼のUKチャート・デビューは「Papa’s Got A Brand New Bag」まで果たされなかったが、彼の初期からの支援者であるザ・ローリング・ストーンズの力だけでなく、彼の堂々とした性格は大西洋を超えて人々の注目を集めた。レコード・ミラー誌のガイ・スティーヴンスは前年の11月に「ジェームス・ブラウンはオン・ステージと等しくオフ・ステージも素晴らしい」と書いた。
「フェイマス・フレイムスの3人のヴォーカル隊を除き、彼のステージに上がるコメディアン、ダンサー、シンガーにミュージシャンの他にも、ヘア・メイク、衣装、バス・ドライバー、専属運転手、ツアー・マネージャー、出版担当者、秘書、さらにボディーガードまで、彼が全員を雇っているんだ」。
「彼は最近、ツアーに全員を乗せて移動できるバスを14,000ポンドで購入したんだ。さらに、その30日間に彼が着用するスーツの数は120着以上、ステージ上でのパフォーマンス時間は合計4,800分を超え、計960曲分の演奏をし歌い、アメリカのショウ・ビジネスにおいて他のどのシンガーやミュージシャンよりも多くのショーとダンスを披露するんだよ!」。
Written by Paul Sexton
ジェームス・ブラウン『Out Of Sight』