【インタビュー】ヴァレリー・シンプソンが語るモータウンと「Ain’t No Mountain High Enough」に込めた想い
ソングライター・チームとして、そしてソウル・デュオとしても活躍したニック・アシュフォードとヴァレリー・シンプソンによる夫婦デュオのアシュフォード&シンプソン。先日来日してヴァレリー・シンプソンに音楽ライターの林 剛 さんがインタビューを慣行。彼らがモータウンでソングライナーとして活躍してきた時代を中心にお話を伺いました。
1960年代後半以降のモータウンでマーヴィン・ゲイ&タミー・テレルの共演作品を中心に数多くの名曲を書いてきたアシュフォード&シンプソンのヴァレリー・シンプソン(1946年、NYブロンクス生まれ)。2019年5月上旬、スムース・ジャズのサックス奏者デイヴ・コーズとともにブルーノート東京での公演のためにやって来た彼女は、2009年11月の初来日以来、約10年ぶりに日本の地を踏んだ。
その間、2011年8月に相棒のニックこと夫のニコラス・アシュフォード(1941年、サウス・カロライナ州生まれ)が他界したが、翌2012年にはニーナ・シモンやロバータ・フラックをゲストに迎えた40年ぶりのソロ作『Dinosaurs Are Coming Back Again』を発表。近年は、キンドレッド・ザ・ファミリー・ソウルの「A Couple Friends」(2014年)でピアノ・ソロを披露し、コリーヌ・ベイリー・レイの「Do You Ever Think Of Me?」(2016年)で共作をするなど、後進アーティストとの交流も盛んだ。
アシュフォード&シンプソンはモータウン以外でもチャカ・カーンの「I’m Every Woman」やクインシー・ジョーンズの「Stuff Like That」(ともに1978年)などでペンをとり、デュオとしてもワーナー・ブラザーズやキャピトルから多数の名曲を発表。1984年には「Solid」が初の全米R&Bチャート1位となるなど、その輝かしい功績を挙げていけばキリがない。今回はモータウン創立60周年のタイミングということもあり、モータウンに関する話を中心に語ってもらった。
まずは近況を。昨年、ブロードウェイ・ミュージカルの『シカゴ』で初舞台を踏んだそうですね。
「そうなんです。キッカケは…クライヴ・デイヴィスがあるパーティに来て、その時にアリシア・キーズが2曲歌うはずだったのですが、彼女が来られなくなって、“その代わりに歌ってくれないか?”って言われたんです。クライヴのお願いだから断れなくて、“Ain’t No Mountain High Enough”(67年)と“Ain’t Nothing Like The Real Thing”(68年)をピアノの弾き語りで歌いました。そうしたら、『シカゴ』の関係者がこっちに来て、“あなたはママ・モートンの演技ができるんじゃないか?”と言われて。2カ月くらい考え抜いてオーディションを受けに行って…それで役を獲得したんです」
ブロードウェイが生活圏内にあるニューヨーカーで、長いキャリアを誇るヴァレリーさんがここにきて“オーディションを受ける”というのは、あまりピンときませんが。
「演技は未経験でしたからね。(舞台の)台詞なんか一度も言ったことがなかったですし。現場ではリハーサルも一回しかなくて、既に続いていた公演にいきなり放り込まれるような感じだったので、凄く緊張しました」
今年はモータウン創立60周年ですが、グラミー関連のイベントも続いていますよね。特に今年2月のグラミー授賞式でダイアナ・ロスが“Reach Out And Touch (Somebody’s Hand)”(70年)を歌った時、客席前方であなたが一緒に歌っていたのが印象的でした。
「デジャヴというか、あの曲を聴いていたら昔の記憶がいろいろ蘇ってきて感極まりました。当時はビッグ・ヒットというほどではなかったですが(R&B7位/ポップ20位)、こんなに長い間、歌い継がれると思っていなかったです。今でも教会とかで歌われています。“お互いに手を差し伸べて生きていきましょう”っていうメッセージは、昔よりも今の世の中に対しての方が説得力がある気がします。それがダイアナの歌を通して、うまく伝わっていると思います」
この曲は85年の「ライヴ・エイド」(フィラデルフィア会場)でテディ・ペンダーグラスが車椅子に乗ってあなたたちと一緒に歌っていた姿も印象的です。
「あれはスペシャルなライヴでした。テディが交通事故から復活して初めてのパフォーマンスで、あんなに大勢の観客の前でパフォーマンスをしたのは私たちも初めてだったんです。テディは歌えるかどうかわからない状態だったんですが、(作者の私たちと)一緒に歌いたいという話をされたんです。テディはあのパフォーマンスがキッカケで、その後もレコーディング・キャリアを続けていこうって勇気をもらったみたいです。だから、あれだけ大勢の前で歌ったということも含めて、彼にとって意味のあるライヴだったということですね」。
「ライヴ・エイド」といえば、映画『ボヘミアン・ラプソディ』で再現されたクイーンのパフォーマンス(ロンドン会場)も良かったですが、テディとあなたたちの共演も相当なインパクトだったはずです。
「確かにそうかもしれません。テディに関しては、今年に入ってSHOWTIME(米のケーブルTV局)で放映されたドキュメンタリー『Teddy Pendergrass : If You Don’t Know Me』に私も出演していて、〈ライヴ・エイド〉のことを話しています」。
ニックさんとはNYハーレムの教会で出会ったとお聞きしましたが、今回のライヴで鍵盤を弾きながら歌うあなたの姿が教会で歌っているような印象を受けました。“Ain’t No Mountain High Enough”も曲自体にゴスペルの高揚感がありますが、ヴァレリーさんのルーツも教会ですよね。
「曲の中に教会っぽさは出てくると思いますが、ニックと出会った時の私はガールズ・グループで歌っていて、教会(の厳かさ)とは真逆の感じで、“セクシーだね”なんて言われていました(笑)。でも、自分の祖母も牧師だったし、私も教会のグループでパフォーマンスしていましたし。そんな出自が曲作りに表れてしまうんじゃないでしょうか。あと、私はクラシックも勉強しているので、クラシックとゴスペルの影響が何らかの形で出ていると思います」
ニックさんとはアシュフォード&シンプソン以前にヴァレリー&ニック名義で歌手デビューしていますよね。64年にグローヴァーから出した“It Ain’t Like That”とか。
「フフフ、そうですね。それが最初です」
ソングライターとしてはジョセフィン・アームステッドと一緒に書いた“Let’s Go Get Stoned”が66年にレイ・チャールズのヴァージョンでヒットして広く世間に知られるようになりますが、モータウンと契約した経緯は?
「ベリー・ゴーディJr.がホーランド=ドジャー=ホーランドをNYに送り込んでソングライターをスカウトしていたんです。それでニックがホテルで彼らとミーティングをして、デモ・テープを渡したら凄く気に入られました。当時自分たちで曲を作って演奏していたので、そういった(オールマイティな)部分も含めて気に入られたんじゃないかなと思います」。
おふたりが作詞・作曲家として契約した頃は、モータウンは既に全米屈指の名門レーベルでしたが、憧れはありました?
「それはもう夢のようでした。自分たちみたいなソングライターからすると特に。だから、契約した時は“やったー!”って(笑)。実はニックはもともとデトロイトに住んでダンサーを目指していたんです。それでNYに来て私と出会って、それで今度はふたりでデトロイトに向いました。彼がデトロイトに住んでいた時は誰にも発見されなかったんです。それでNYにダンサーとしてやってきたんですが、夢破れて…。ダンサーは頑張って仕事をしていても、お金にならないんです。だから彼には“曲が書けてよかったね”って言ったわ(笑)」
その頃はまだお付き合いしてなかったんですよね。
「そう、付き合うまで結構時間がかかりました」
8年くらいかかったと以前お聞きしました。
「ホント、のんびりしすぎてますよね(笑)」
チームとしては、ニックが主に作詞を、ヴァレリーさんが主に作曲をしていたのですよね?
「はい、ほとんどの曲がそのパターンでした」
モータウンでソングライター/プロデューサーとして活動し始めてからも活動拠点はNYだったのですか?
「はい、NYに住みながら曲作りをして、レコーディングの時はデトロイトに飛んで、終わったらNYに戻るっていう感じでした。(裏方は)そのほうがいいとされていたんです。何故だかわからないけど会社からはそのほうが喜ばれました。だから私はデトロイトに住んだことはないんです」
モータウンの楽曲品質管理会議で落とされた曲はあったのでしょうか?
「クオリティ・コントロールですね。私たちはラッキーなことに、落とされたことがありませんでした。私はその会議には出てなくて、ニックが行っていたんですが、当時スモーキー・ロビンソンとかノーマン・ホイットフィールドが書いた曲は会議でよく落とされていたみたいです。だからニックは凄く緊張していたみたいで…。でも、そんな中で私たちの曲は誰からも何も言われず、ベリー・ゴーディJr.は “そのまま出しちゃおう” と。もう品評する必要もないという感じで。例えばマーヴィン&タミーの“You’re All I Need To Get By”(68年)は、そうやって世に出された曲のひとつでした」
ブライアン・ホーランドと共作してリタ・ライト(シリータ)が歌った“I Can’t Give Back The Love I Feel For You”(67年)は、もともとシュプリームスのために書かれたという話を聞いたことがあるのですが。
「いえ、あの曲はシリータのために書きました。シリータがスティーヴィ・ワンダーと結婚する直前のことですね。あの曲はベリー・ゴーディが凄く気に入ってくれたんです。確かにシュプリームスのヴァージョン(2008年の編集盤『Let the Music Play: Supreme Rarities 1960-1969』に収録)もあったし、ダイアナもソロで歌いました(71年作『Surrender』に収録)。モータウンでは確か3~4アーティストが吹き込んだけど、それほどヒットしなかっったですね。凄くいい曲なのに」
ジェフ・ベック・グループのヴァージョン(72年)もありましたよね。いい曲だと思います。
「ホントに? それは嬉しいです!」
60年代のモータウンでは他にもマーヴェレッツの“Destination:Anywhere”(68年)やボビー・テイラー&ヴァンクーヴァーズの“I Am Your Man”(68年)などを書いていたアシュフォード&シンプソンだが、大ヒットしたということでは、“Ain’t No Mountain High Enough”、“Ain’t Nothing Like The Real Thing”、“You’re All I Need To Get By”など、やはりマーヴィン・ゲイとタミー・テレルに提供した一連の曲の印象が強い。なにしろマーヴィン&タミーはアシュフォード&シンプソンが関与したアルバムを3枚も残している。
“California Soul”を含む3枚目の『Easy』(69年)に関しては、直後に24歳の若さで他界するタミー・テレルが病床に伏していた時に録音されたもので、大半の楽曲はヴァレリーがタミーの声を真似て吹き込んだとされてきたが、その噂は10年前に筆者が行ったインタヴュー(bmr誌2010年2月号)でヴァレリーとニックによって完全否定されている。ヴァレリーはデモでは歌っていたが、実際に世に出たものはタミーが病気と闘いながらワンラインずつ歌ったものを繋げて完成させたもので、全てタミーの声。(別々に録音した)マーヴィンはそれをヴァレリーが歌ったものだと信じ込んでいたのだという。
“Ain’t No Mountain High Enough”は、ハーヴェイ・フークアとジョニー・ブリストルがプロデュースしたマーヴィン&タミーのヴァージョン(67年)、アシュフォード&シンプソンがプロデュースしたダイアナ・ロスのヴァージョン(70年)がヒットしていて、それぞれに良さがありますが、改めて曲の背景を話してもらえますか。
「50年経ってもみんなを昂揚した気分にさせて、高いところに連れていっているというのは自分でも凄いと思います。デモを作った時はマーヴィンとタミーが歌ったヴァージョン、つまりハーヴェイとジョニーが手掛けたようなアップテンポ気味の曲でした。ニックがセントラル・パークを散歩している途中、高層ビル(摩天楼)が山みたいだと言って、最初に出てくる歌詞のラインを思いついたんです。NYで成功したい、このままで終わりたくないという気持ちがインスピレーションになって曲が出来ました。ラヴ・ソング以上のものをリスナーの人たちが感じるのは、成功したいと思う意思表明みたいなものをこの曲の歌詞の中から感じ取っているからじゃないでしょうか?」
カヴァーも多いですよね。アシュフォード&シンプソンは後にワーナーからデビューしてNYディスコの文脈でも話題になりましたが、その頃、ジョセリン・ブラウンが歌ったインナー・ライフのヴァージョン(81年)も流行っていましたよね?
「ええ、あのヴァージョンも大好きです。そういえば、この前NYでショウをやった時に、いろんなヴァージョンの“Ain’t No Mountain High Enough”を演奏したんですが、最後のほうでジョセリン・ブラウン(インナー・ライフ)のヴァージョンをやりました。ああいう感じで賑やかに終わるのがいいかなって」
ダイアナ・ロスのヴァージョンでアレンジを手掛けていたポール・ライザーとはアシュフォード&シンプソンの作品でも組んでいますが、これはモータウンでの仕事がキッカケでしょうか?
「まさにダイアナの“Ain’t No Mountain High Enough”をやった時で、それから私たちの作品もポールに頼んでいます。それ以外のアレンジャーには基本的に頼みませんでした」
ダイアナ・ロスには70年代後半にも“The Boss”(79年)を提供していますが、相性が良かったのでしょうか?
「ダイアナ・ロスにはいろんな時代がありますが、私(たち)は彼女のターニング・ポイントとなる時期に一緒に仕事をさせてもらうことができたんです。ダイアナがシュプリームスを脱退してソロになった時に“Reach Out And Touch (Somebody’s Hand)”や“Ain’t No Mountain High Enough”を手掛けて、ベリー・ゴーディのもとから離れた時に“The Boss”を提供しました。“The Boss”は、〈私が自分のボス。自分の家も持ってパワーを持つの〉というダイアナの決意を聞いて、それを曲にしたんです。“ザ・ボス”といえばブルース・スプリングスティーンかダイアナですよね(笑)」
“The Boss”は最近、エリック・カッパーのリミックス・ヴァージョンも話題になってますよね。
「はい、つい最近ビルボードのダンス・チャート〈Dance Club Songs〉で1位になりました。今でもこうやってヒットして、現代のシーンと結び付きをつけてもらって凄く嬉しいです」
ヴァレリーさんはモータウンで2枚のソロ・アルバム(71年作『Exposed』と72年作『Valerie Simpson』)も出されています。“Silly Wasn’t I”は72年にR&Bチャート24位のヒットになりました。
「(アルバム・ジャケットを見て)あらー! あの曲はちょっとだけヒットしましたよね。“Genius”(72年)もいい曲でした。でも、もしこれらがもっと売れていたら、当時はまだ若かったし、天狗になって勘違いしていた思いますね(笑)。アシュフォード&シンプソンっていうデュオでも成功していなかったと思います。だからソロで成功しなくてよかった(笑)。アシュフォード&シンプソンとしてキャリアを歩めたことは本当に幸せだと思っています」
モータウンでは、結婚された73年にアシュフォード&シンプソンとしてアルバムを出す予定だったそうですね。結局それはお蔵入りになってしまって、ワーナーと契約してからがデュオとしての再スタートとなったわけですが、モータウンでの未発表アルバムが日の目を見ることはあるのでしょうか?
「毎年のようにリリースさせてくれって言われているんです。私が権利を持っているんだけど、どうしようかしら(笑)。聴きたいですか?」
聴きたいです! ちなみに、70年代中期にはあなたたちが曲を書いてプロデュースもしたダイナミック・スペリオーズの“Shoe Shoe Shine”(74年)も出ました。この頃からでしょうか、あなたたちのクレジットに〈Hopsack & Silk〉というプロダクションの名前が刻まれ始めています。後にこれはレーベル名にもなって、詩人のマヤ・アンジェロウとの共演盤『Been Found』(96年)がHopsack & Silkからのリリースでした。
「いつ頃から名乗り始めたかは忘れちゃっいましたが、音楽やショウとか、自分たちが関わること全てをこのプロダクションでやるということで立ち上げたんです。“ざっくりとした”という意味のHopsackがニックで、Silkが私のことなんです」
96年にNYマンハッタン西72丁目に夫婦でオープンしたレストラン・バー〈Sugar Bar〉はニック亡き後も営業中で、オープン・マイクの時などはヴァレリーが顔を出すこともある。NYに行かれる際は、ぜひ立ち寄ってみてほしい。
Interviewed & Written by 林 剛
Interpreter 渡瀬ひとみ
Special Thanks Blue Note Tokyo