フォー・フレッシュメンが好きなら...きっとビーチ・ボーイズを気に入るはず

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ジャズ・ロック・フュージョンと言われると、すぐに60年代を思いつくだろう。マイルス・デイヴィスの『Bitches Brew』、ジミ・ヘンドリックスの後期の作品、そしてウェザー・リポートやリターン・トゥ・フォーエヴァーなどの70年代の正真正銘のインストゥルメンタル“フュージョン”がある。しかし、それよりも前の時代からジャズとロックを融合した有名なミュージシャンが存在していた。そして彼らは、インストゥルメンタル・ジャズではなく、ヴォーカルの付いた曲でそれを成し遂げた。彼らこそがビーチ・ボーイズである。

ジャズはジャズが誕生した初期の頃から存在していたが、30年代に素晴らしいハーモニーを取り入れて女性トリオのボズウェル・シスターズがスタイリッシュにそれを広めた。そして40年代になるとアンドリュース・シスターズがそのようなヴォーカル・スタイルをメインストリームへと紹介し、第二次世界大戦中にアメリカ人を元気づけ、当時の最も人気のあるビッグ・バンドたちと共に活躍した。フォー・フレッシュメンに影響を与えた男性グループにはメル・トーメのメル・トーンズとグレン・ミラーのモダネアーズがいたが、戦後はもっとプログレッシヴなジャズやスモール・バンドが流行っていた。ランバート・ヘンドリックス&ロスは、不朽のヴォーカル・ジャズ・アレンジを50年代に作り出した。

その環境の中でフォー・フレッシュメンはインディアナ州バトラー大学から世にでてきた。彼らは当時の最もプログレッシヴなビッグ・バンドのリーダーであるスタン・ケントンに見出され、カリフォルニア州バルボアのビーチに建つランデヴー・ボールルームにて音楽活動を行っていた。1950年スタン・ケントンの当時のレーベル(キャピトル・レコード)と契約を結び、何枚ものアルバムとヒット・シングルを発売した。その中には「It’s A Blue World」、「Graduation Day」、そして「Their Hearts Were Full Of Spring」(後者2曲は後にビーチ・ボーイズがカヴァーを発売)が含まれる。

50年代中、フォー・フレッシュメンのラインナップは一貫しており、ボブ・フラニガン(美しい高音ハーモニーのボーカル)はドン・バーバーとロス・バーバーと共に10年間活躍。4人目のボーカリストにはハル・クラッチがいたが、後にケン・エレイアと交代し、最終的にはケン・アルバースが後任となり70年代までメンバーとして加わった。60年代の始まりになるとビル・コムストックがドン・バーバーと代わり、それから10年間の間に4枚の素晴らしいアルバムをリリースした。

一方、50年代後半には若きブライアン・ウィルソンがロサンゼルス界隈で入れるヴォーカル・グループを探し始めていた。R&Bヴォーカル・グループではあったが、ザ・ジャガーズのオーディションを受けた経験もあった。最終的には自分のヴォーカル・グループを兄弟のデニスとカール、そしていとこのマイク・ラヴと始めることを決め、夜中まで起きてトランジスタ・ラジオから流れる初期のR&Bサウンドをコピーしていた。

実はブライアン・ウィルソンの一番の下の弟カール・ウィルソンがブライアン・ウィルソンに 最初にR&Bを紹介した。上の兄弟たちはジョージ・ガーシュウィンの「Rhapsody In Blue」に夢中になり、母親オードリーのレコード・コレクションからフォー・フレッシュメンを見つけ出した。ブライアン・ウィルソンは特に「Day By Day」というトラックに惹きつけられた。それは母親がそこら辺に置きっぱなしにしていた『Freshmen Favorites』のアルバムのオープニング・トラックだった。

ブライアン・ウィルソン、マイク・ラヴ、デニス・ウィルソン、そしてカール・ウィルソンが作った現存している最初の頃のデモテープは実際に後の『Beach Boys Party!』アルバムと良く似ている。1960年に作られたそのテープは家で流れる曲に合わせてただ歌っているような長いセッションだった。最も興味深い瞬間は、マイク・ラヴの妹モーリン・ラヴがある曲でリードを歌い、最初の方でブライアン・ウィルソンが彼女をサポートするのに贅沢なバック・ヴォーカルをアレンジして歌っていて、フォー・フレッシュメンのスタイルと良く似ていたのだ。

1年後、友人のアル・ジャーディンをヴォーカルとウッドベース担当として迎え、ブライアン・ウィルソン、マイク・ラヴ、カール・ウィルソン、そしてデニス・ウィルソンはロサンゼルスの3番街にあるパシフィック・ジャズ/ワールド・パシフィックのスタジオに集まった。そこはチェット・ベイカージェリー・マリガン、そして多くの西海岸ジャズを代表する伝説的ミュージシャンたちがレコーディングを行ったスタジオである。彼らはファースト・シングル「Surfin’」をレコーディングし、「Luau」とのカップリングでキャンディクス・レコードから発売した。シングルの録音に使用された楽器はベース、カール・ウィルソンの弾くアコースティック・ギター、そしてパーカッションとしてブライアン・ウィルソンがゴミ箱の上にジャケットを被せたものだけだったため、ヴォーカルが力強いサウンドであったことで知られている。

ビーチ・ボーイズを始めたばかりの頃、前途のバルボアのランデヴー・ボールルームにてサーフ・ギタリストのディック・デイル&ヒズ・デルトーンズの前座を務めた。その頃のライヴでのビーチ・ボーイズは、ヴォーカル・グループとして楽器を持たずメンバーがマイク・ラヴを囲んでパフォーマンスを行っていた。そのビーチ・ボーイズのファースト。シングルは、1961年の終わりに地元のロックン・ロール・ラジオ曲KFWBで2位にランクインされ、サーフィンという新しい娯楽と関連付けされた最新の音楽トレンドとしてディック・デイルの「Let’s Go Trippin’」やベルエアーズの「Mr Moto」と共にヒットしたのだ。バルボアという場所も若者たちが夢中になっていたサーフィンと深い繋がりを持っていたことも有効に働いた。

ビーチ・ボーイズはすぐに、ちゃんとしたロック・バンドでのデモをレコーディングし、楽器をバックにデルトーンズやベルエアーズのようなサウンドを作り出すことにした。サンセット・ブルヴァードに建つウェスタン・スタジオでのレコーディングから、後に初の全国的ヒットとなる「Surfin’ Safari」が生まれたのだ。力強いサーフィン調の伴奏は、力強い彼らのヴォーカルとぴったりはまった。

キャピトル・レコードから発売されたメジャー・デビュー作品は、すぐにビーチ・ボーイズをアメリカで最も人気のあるロックン・ロール・バンドにした。それは1964年初期にザ・ビートルズが爆発的な成功を収めることになる作品をキャピトル・レコードから発売する前のことだった。「Surfin’ USA」、「Surfer Girl」、「Fun, Fun, Fun」、「Don’t Worry Baby」、そして「I Get Around」の一連のヒットを出す中で、主にインタビューに応じていたバンド・リーダーのブライアン・ウィルソンが、彼らの成功の秘訣はチャック・ベリーのようなR&Bギターとフォー・フレッシュメンからインスピレーションを得たヴォーカル・アレンジだと説明していた。1965年になると全く異なる面を披露した『Beach Boys Today!』ではロックよりもジャズ寄りのインストゥルメンタルとヴォーカル・アレンジが目立ち、『Pet Sounds』ではそれらのジャズの影響はクラシカルな音楽と融合され、ビーチ・ボーイズの作品がエルマー・バーンスタイン、ジョン・バリー、クインシー・ジョーンズ、そしてヘンリー・マンシーニが手掛けるサウンドトラック・アレンジと並ぶレベルであることを証明した。すべてはフォー・フレッシュメンのヴォーカル・アレンジをウィルソン流に拡張したサウンドの上に成り立っている。

Written By Domenic Priore

『サンシャイン・トゥモロウ~ビーチ・ボーイズ1967』 2017年7月5日発売

レコーディングから50年を経て明かされるファン待望の決定版2枚組コレクション

   

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