ニール・ヤングが好きなら、ライアン・アダムスのこともきっと気に入るはず

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Photo: Noah Abrams

予測できない作風、圧倒的な作品数、そしてときどき意図的にみせる鈍感さ。これらは、50年以上のキャリアを誇るニール・ヤングの大きな特徴である。だが同時にこれらは、ライアン・アダムスを表す特徴としても十二分に機能する。

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多作なライアン・アダムス

1974年11月5日生まれのライアン・アダムスは、約16年の間になんと16作のスタジオ・アルバムをリリース。特に2005年は『Cold Roses』『Jacksonville City Nights』『29』と立て続けに3作を発表するという驚くべき1年になった。

これに加え、15枚組のLPで構成されたライヴ音源のボックス・セットや、未発表となっている無数のプロジェクト、アルバム未収録のシングルの数々、そしていくつかのサイド・プロジェクトも存在。それらを通して彼は、直球のカントリー・ミュージックからハードコア・パンク、風変わりなヒップホップ(オンライン限定で短期間、DJレジーとして活動)、壮大な80年代風のアリーナ・ロック、そして王道のロックまで、実に幅広い音楽性を披露し続けている。それらはどれもおしなべて完成度が高く、彼の多くのファンは次の作品の方向性を予想して楽しんでいるのだ。

 

二人の共通点

ライアン・アダムスとニール・ヤングはいずれも断固として独自路線を進んできたことで知られているが、もともとは時代の潮流を掴んだグループの一員として名を上げた点も共通している。ニール・ヤングが参加したバッファロー・スプリングフィールドは、1967年のシングル「For What It’s Worth」で注目を浴びた。同曲は遠回しにヒッピーたちの夢物語を批判したものだったが、それでもカウンター・カルチャーを代弁する1曲となった。

それからちょうど30年後の1997年、ライアン・アダムスが参加したウィスキータウンは2ndアルバムの『Stranger’s Almanac』を発表。この作品は一躍同バンド、ひいては作曲の中核を担っていたアダムスを、当時まさに勢いづいていたオルタナティヴ・カントリー界のヒーローに押し上げた。

 

ソロでの活躍

両者に飛躍のきっかけを与えたのはそれぞれのグループだったが、才能溢れる彼らにとっては少々役不足だった。そのため、グループが解散すると当然、ファンたちはふたりの次の動向に目を光らせた。彼らにとっては、そのことがあまりに大きな武器になった。

世間ではふたりのことを『After The Gold Rush』(ニール・ヤング)や『Heartbreaker』(ライアン・アダムス)などの名作で知られる内省的なシンガー・ソングライターだと認識している人がほとんどだろう。だが彼らは、次なる動きを予測するファンたちを嬉々として混乱させてきた。現在ではもはや、どのように予測を立てていいかわからないほどである。

特定のジャンルにとらわれることを嫌うヤングは、バック・バンドであるクレイジー・ホースを断続的に起用。ソロ・デビューからわずか4ヶ月後の1969年5月にリリースした『Everybody Knows This Is Nowhere』では、このバンドとともに鼓膜が破れそうな荒々しいガレージ・ロック・サウンドを披露した。

同じくアダムスも、00年代にはカーディナルズ、近年ではシャイニングなど、バック・バンドを率いて音響システムの限界に挑戦するラウドなライヴ・パフォーマンスを行っている。

 

 

ぶっきらぼうなイメージ

また、ヤングとアダムスはふたりとも、世間のイメージを気にせず、ステージではぶっきらぼうなシンガー・ソングライターとして振舞ってきた。前者は時として、1972年のヒット・シングル「Heart Of Gold(孤独の旅路)」を“嘆かわしい野郎ども”に捧げる歌と紹介。

アダムスはファンの「期待を裏切るために」、自身の失恋の歌の数々をなかなか取り上げようとはしない。実はアダムスは長年のヘヴィ・メタル・ファンでもあり、ダンジグのことを語らせればザ・スミスと同じ熱量で語ってくれることだろう。

 

 

私生活での苦難

さらに両者は、私生活で苦難を抱えている時期にアーティストとしての頂点を迎えた点も共通している。クレイジー・ホースの初代ギタリストであるダニー・ウィットンの死を受け、途方に暮れたヤングはニヒリズムに傾倒。その中で生まれたのが、1974年、75年にそれぞれ発表された『On the Beach(渚にて)』『Tonight’s The Night(今宵その夜)』というふたつの名盤だった。

同様に、アダムスも2004年のアルバム『Love Is Hell』で自らの絶望感を表現。だが、これを聴いた当時の所属レーベル、ロスト・ハイウェイは同アルバムがセールスに繋がらないとの評価を下し、2作のEPに分けてリリースした。それでも、後になって1作のアルバムとして日の目を見た『Love Is Hell』は、アダムスのソングライターとしての力量と、レコーディング・スタジオの技術力が新たな高みに達したことを世間に示す作品になった。

 

様々なジャンル

次に、ふたりの予測の難しさについて触れていこう。両者ともにナッシュヴィル・サウンドに影響を受けた直球のカントリー・アルバム(ニール・ヤングの『Old Ways』や『Harvest Moon』、ライアン・アダムスの『Jacksonville City Nights』)も制作しているが、まったく予想だにしない領域に舵を切ることもあった。

2010年、アダムスは自ら「SFメタルのコンセプト・アルバム」と表現する『Orion』を、自身のレーベルであるパックス・アムからリリース。

この動きには、ヤングが1982年作『Trans』で突然シンセ・ポップ路線に転換したときと通じるものがあった。いずれも180度転換した音楽性で世間を驚かせたが、常に進化を続けなければならないアーティスト人生を考えれば何も不思議なことではない。

 

音楽以外の興味

ふたりの共通点は、アーティストとしての傾向だけにとどまらない。ニール・ヤングは昔から古いアメ車のマニアで、それに関する本を一冊書き上げているほどだ。同じようにアダムスも古い金物類に情熱を傾けているが、昔ながらのピンボール・マシンのコレクターとしての顔の方が、彼の世代に合っているだろう。彼はピンボール・マシンを大切に収集しており、中でも、常時使用できるよう機材ケースの中に備え付けられたメタリカ仕様のマシンはツアーにも持ち出しているのだという。

ほかにも、カリフォルニア州レッドウッド・シティ郊外の奥地にひっそりと佇むブロークン・アロー・ランチをニール・ヤングが所有しているように、アダムスもロサンゼルスの緑に囲まれた地区であるノース・チェロキー・アヴェニューにパックス・アム・スタジオを所有。後者は、アダムスが設立した小規模レーベル、パックス・アメリカーナ・レコーディング・カンパニーの拠点になっている。いずれも好きなときに機材を繋ぎ、その場でレコーディングすることができる、両アーティストにとっての安らぎの場所である。

 

近年のアダムスは、パックス・アム・スタジオで音楽制作の腕前にいっそう磨きをかけている。自身のアルバムや、ジェニー・ルイスの2014年作『The Voyager』や、フォール・アウト・ボーイの2013年EP『Pax-Am Days』など他のアーティストの作品で共同プロデュースを担当する機会が増えているのだ。

そんなアダムスも2017年の『Prisoner』では、ドン・ウォズを迎え、かつて名作の数々を生み出してきたニューヨークへと制作の拠点を戻している。だが、明瞭なサウンドに仕上がった同アルバムからは、アダムスがそれまでのプロデューサーとしての経験から最大限のものを吸収してきたことが窺える。20年以上のキャリアを経て、彼は単なるソングライター以上の存在へと成長し、一流の音楽プロデューサーになった。そのことは、多様なスタイルを包含した『Prisoner』の作風からも明らかである。

そういうわけで、ニール・ヤングが好きな人は、きっとライアン・アダムスのことも気に入るはずだ。ニール・ヤング本人も、この意見に賛同してくれることだろう。

Written By Jason Draper



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