最も崇拝されているアルバム・ジャケット・デザイナー13人

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アルバムのアートワークはバンドとその音楽をアピールするためにデザインされるのが一般的だが、時にはアルバム・ジャケットのデザイナーたちが、その偉大な作品によって彼ら自身がある程度の名声を得ることがある。リード・マイルス(ブルーノート)やヴォーン・オリヴァー(4AD)のように、レーベルのヴィジョンを具現化する手助けをしたにせよ、多くの人々の中である年代を代表するにふさわしいひとつの音楽スタイルを確立したにせよ(例えば70年代のヒプノシスのように)、アルバム・ジャケットのデザイナーたちは、幾つもの後世に残るミニサイズの傑作を生み出し、ひとつの芸術の域まで高めた点において称えられるべき存在なのだ。

ここでは古今通じて13人の最も有名なアルバム・ジャケット・デザイナーたちを見ていくことにしよう。

 

■リード・マイルス(1927年―1993年)
フランシス・ウルフのムーディな写真とリード・マイルスのアーティスティックな才能は、音楽業界とグラフィック・デザイン業界の両方に絶大なる影響を与え、ブルーノート・レーベルのアルバム・ジャケットを時代を超えて色あせることのない文化的至宝へと変貌させた。

シカゴ生まれのリード・マイルスは、エスクワイア誌の記者から音楽業界に転身し、モダンでクールで先進性の象徴というブルーノートの“ヒップな”ブランド・アイデンティティを作り上げた。リード・マイルス本人は元々ジャズ・ファンではなかったが、だからこそそこに関わったミュージシャンたちのイメージや考えなど度外視して、客観的な視点から素晴らしいジャケットとはどんなものかを分析したのである。

僅かな予算しか与えられなかった彼は、徹底して効率的に仕事を進めた。彼自身の弁によれば、「アルバム1枚で50ドルだよ……先方は気に入ってくれた、モダンでイカしてるし、音楽ともぴったり合ってるって……使える色は1、2色しかなかったけど、グラフィックがとにかく素晴らしかったんだ!」。

60年代に入ると、リード・マイルスは写真の仕事に集中するようになり、広告業界でケタ外れの成功を収めた。しかしながら、彼のモダンなジャズのデザイン、度肝を抜かれるような鮮烈なタイポグラフィによる表現は、極上のレガシーを形成しているのだ。

 

■バーニー・バブルス(1942年―1983年)
本名のコリン・フルチャーから法的手続きを経て名前を変えたロンドン生まれのバーニー・バブルスは、トゥイッケナム・アート・カレッジで研鑽を積み、テレンス・コンランの業界草分け的なコンサルタント事務所で働いた後、レコード・デザインの世界に足を踏み入れた。

70年代から80年代初期にかけて、彼はエルヴィス・コステロやニック・ロウ、ビリー・ブラッグ、イアン・デューリーといった革新的なアーティストたちや、ホークウィンドのようなバンド、そしてスティッフ・レコードやNME誌のために、レコード・ジャケットやレーベル・ロゴをデザインし、音楽関連のヴィジュアルを多数手掛けた。またスペシャルズの印象的なPV 「Ghost Town」をはじめ、 ミュージック・ビデオの制作にも関わっている。

彼の初期の作品には、見開きのジャケを広げると巨大な6面仕立てのポスターになる3枚組アルバム『Glastonbury Fayre』も含まれていた。バーニー・バブルスは様々なスタイルの画風や写真を作品に採り入れ――例えばエルヴィス・コステロの『Armed Forces』の美しいジャケットに観られるように――どこか謎めいた複雑なアルバム・スリーヴを作り上げた。時には分かりにくい偽名を使って仕事をしていたこともあった(未だに彼の作品でありながらそれと認められていないアルバムが幾つもあるらしい)。41歳の時、バーニー・バブルスは自ら命を絶った。命日となったその日は、彼の亡くなった両親の結婚記念日だったと言う。

 

■ヒプノシス(1968年―1983年)
“ヒップ(先進的な)”と“グノーシス(神秘的な発想)”という2つの言葉を掛け合せた造語「ヒプノシス」とは、ピンク・フロイドがアルバム『A Saucerful Of Secrets(邦題:神秘)』のアートワークのデザインを、イギリスのアートスクールの学友同士だったストーム・ソーガソンとオーブリー・パウエルに依頼した際、ピンク・フロイドのシド・バレットによって授けられた名前である。

ヒプノシスはそこから200点近いジャケット写真をプロデュースしてきたが、その中には音楽史上屈指の過激なアートワークもある。ブラック・サバスのエスカレーター・ロボットや、ピーター・ガブリエルの溶けた焼きチーズに覆われた顔などはそのほんの一例だ。オーブリー・パウエルいわく「僕らは常に真正面じゃなく横から物を見て考えることにしていて、何もあからさまにはしないんだ。『Sgt. Pepper~』を見た時だって、僕らは『ああ何てこったい、これなら僕らだってやれるさ、でも何か違う発想を持とう』って考えたよ」。

彼らが手掛けた、白い光があたかも黒いプリズムに当たっているかのように屈折した『The Dark Side Of The Moon(邦題:狂気)』のアルバム・ジャケットは、古今東西通じて音楽界で最も有名なイメージのひとつである。80年代に入って間もなく、贅沢なアルバム・ジャケットを求める声が減っていくにつれ、ヒプノシスはその活躍の場を広告や映画業界に移していった。

 

■ストーム・ソーガソン(1944年―2013年)
ヒプノシスが1983年に解散すると、ストーム・ソーガソンはコンサート・フィルムやミュージック・ビデオを制作する会社を立ち上げ、ロバート・プラントやカジャグーグー、ビッグ・カントリーらと仕事をした。ケンブリッジの卒業生で、ヒプノシスの一員としてピンク・フロイドの偉大なアートワークを数多く手掛けた彼は、90年代に入ってもアルバム・ジャケットの仕事を続け、その多くは彼の奇想天外な写実的イメージを具現化したものだった。ストーム・ソーガソンはデジタル・テクノロジーの到来にはまるで興味を示さず、ほぼ全ての写真撮影を旧式の機材で行なうことに固執していた。

彼の晩年の作品の中には、キャサリン・ホイールやフィッシュ、ザ・クランベリーズといったアーティストたちのアルバム・ジャケットの傑作が含まれている。彼のクリエイティヴィティはCDの台頭を受けても尽きることはなく、彼のデザインしたピンク・フロイドのライヴCD『Pulse』は、背の部分にフラッシュ・ライトが仕込まれていた

 

■ロジャー・ディーン(1944年生まれ)
ロジャー・ディーンは著名な画家であり、デザイナーであり、建築家であり、出版社の社長であり、70年代を代表するプログレッシヴ・ロックのアルバム・ジャケットを幾つも手掛け、中でも『Fragile』から始まったイエスとの仕事で知られている。ロジャー・ディーンはまた、アルバム『Close To The Edge(邦題:危険)』で初めて登場した、イエスのトレードマークでもある“バブル文字”ロゴをデザインした人物でもある。

彼の絵は常に野心的かつ独創的だった。イエスの7作目『Tales From Topographic Oceans(邦題:海洋地形学の物語)』(1973) のジャケットに描かれているのは、ドミニー・ハミルトンのポストカード・コレクションに描かれていた英国の海辺の景色をベースにしながら、チチェンイツァ(訳注:メキシコ・ユカタン州中部にある古代マヤ族の都市の大遺跡)の神殿やナスカの大平原のイメージを巧みにミックスした風景である。ディーンの並外れた画力とセンスによって生まれたアートは、限りなく不条理でありながら、見る者を圧倒し惹き込む力を持っていた。

ロジャー・ディーンはまた、1973年のヴァージン・レコード設立時のオリジナル・ロゴも提供しており、更にスティーヴ・ハウの最初のソロ・アルバム『Beginnings』(1975)のジャケットは、自らがインテリア・デザインを手掛けていたロニー・スコットのジャズ・クラブにしつらえた、風景を象ったボックス席のアイディアが元になっていた。

 

■ヴォーン・オリヴァー(1957年生まれ)
ヴォーン・オリヴァーはニューカッスル・ポリテクニック(工芸専門学校)(現在のノーザンブリア大学)でグラフィック・デザインを学び、飲料製品のラベルのデザインを数多く手掛けていた。80年代に音楽界のデザイン事業に進出した彼は、英国のインディペンデント・レコード・レーベル、4ADでの仕事でその名を知られるようになる。ピクシーズとの仕事についてオリヴァー・ヴォーンは、「30年以上ピクシーズと一緒に仕事をしているけど、アート・ディレクターとしてもデザイナーとしても、僕はいつだって自然なインスピレーションをふんだんにもらっているよ。彼らの歌詞は奇妙で素敵なイメージの宝庫なんだ」とコメントしている。

イマジネーションに満ちた彼の作品は、他にもコクトー・ツインズやスコット・ウォーカー、ヒズ・ネーム・イズ・アライヴ、ハイディ・ベリー、スローイング・ミュージズ等のアーティストのアルバム・ジャケットを飾り、また映画やTVドラマの監督としても有名なデヴィッド・リンチのアルバムのアートワークまで手掛けたりしている。これだけの実績がありながら、ヴォーン・オリヴァーはあくまでこう主張するのだ「僕は自分をアーティストだとは思っていない。僕はただのグラフィック・デザイナーだよ」。

 

■ピーター・サヴィル(1955年生まれ)
マンチェスター生まれのピーター・サヴィルはファクトリー・レコードの創設者の一人で、キャリアの初期には様々なバンドのアルバム・ジャケットを手掛けていたが、彼の名を世に知らしめたのは何と言ってもニュー・オーダーとジョイ・ディヴィジョン関連の仕事である。「僕は自分の人生の中で、こういうものを見てみたいと思う作品を具現化するチャンスに恵まれたんだ」と、ピーター・サヴィルはかつて彼が与えられたクリエイティヴ面での自由権限に言及していた。

彼の代表作として名高いジョイ・ディヴィジョンの1979年のレコード『Unknown Pleasures』のスリーヴは、1919年に観測された最初のパルサー波をベースにデザインされたものである。その他のアートワークでも、彼はヒエログラフ(訳注:=ヒエログラム。印や絵文字等で表わされた神聖な記号)を使ったり、アンティークとポスト・モダンのイメージを並列したり(ジョイ・ディヴィジョンの『Closer』に観られるように)と、殆どどの作品でもモダン・タイポグラフィにおける卓越した技術を惜しみなく発揮していた。

ピーター・サヴィルはやがてアルバム・デザインに対する興味を失い、進出した他の分野でも多くの輝かしい実績を挙げている。2010年のイングランド代表フットボール・チームのユニフォーム・デザインやディオールの広告も、マンチェスター市のクリエイティヴ・ディレクター就任などはそのごく一部だ。

 

■スタンリー・ “マウス” ミラー(1940年生まれ)
カリフォルニア生まれのスタンリー・“マウス”ミラーは、若い頃からドラッグレース用の改造車のホット・ロッド・ペイントでセンセーションを巻き起こしていた。彼はそこから60年代サンフランシスコの風景を題材に、サイケデリックなポスターをデザインするようになる。彼の肩書きで最も知られているのは、グレイトフル・デッドが採用したかの有名な“髑髏とバラ”のロゴのオリジナル・クリエイターというものだろう。

「あのイメージは、俺がサンフランシスコ公立図書館の書架でたまたま手に取った本の中にあった絵が元になってるんだ」と彼は語る。「エドマンド・サリヴァンていう画家が、『Rubaiyat Of Omar Khayyam』っていう詩の本の挿絵として描いたんだよ。でも俺はそれを見て思ったんだ、『こいつはグレイトフル・デッドにぴったりじゃねえか』ってさ」。

彼がデッドと組んでいた期間、バンドは『Workingman’s Dead』や『American Beauty』等々、幾つもの傑作アルバムを生み出した。彼は他にもスティーヴ・ミラーやジャーニーの代表作となるアルバム・ジャケットを手掛けている。

 

■デヴィッド・ストーン・マーチン(1913年―1992年)
シカゴ生まれのデヴィッド・ストーン・マーチンは、地元のアート・インスティテュートに学んだ後、アルバム・ジャケット・デザイナー兼画家としてその名を知られるようになったのは、ピアニストだった親しい友人のメアリー・ルー・ウィリアムスがきっかけである。彼が独特の太い黒インクの線でアルバムに描いたポートレートは、カウント・ベイシーチャーリー・パーカービリー・ホリデイアート・テイタムジョン・コルトレーンエラ・フィッツジェラルドディジー・ガレスピースタン・ゲッツ、デューク・エリントンと錚々たる面々だった。第二次大戦後のアッシュ、クレフ、そしてジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックにおける殆どのアルバム・ジャケットは彼の手によるものである。

デヴィッド・ストーン・マーチンはその後、ライフ誌やタイム誌の表紙を手掛けるようになった。とりわけ印象深いのはユージーン・マッカーシーや毛沢東主席だろう。彼の作品の一部は現在も、アメリカ現代美術館やスミソニアン博物館で見ることができる。

 

■ジョン・バーグ(1932年―2015年)
ブルックリン生まれのジョン・バーグは、アニメーション作家として仕事をしていたが、エスクワイア誌での仕事を経て、1961年にコロンビア・レコードに雇われた。レコードのアートワークの仕事などまるで無縁だったジョン・バーグだが、その後四半世紀の間に実に5000点以上のアルバム・ジャケットを手掛け、その代表的な作品も、ザ・バーズにサイモン&ガーファンクル、ベッシー・スミス、ボブ・ディラン、更にはシカゴと、たいそう幅広い。

彼はアート・ディレクターとして4つのグラミー賞を獲得し、それぞれの時代において最も高名な画家たち――エドワード・ソレルやトミ・アンジェラーをはじめとする――や、リチャード・アヴェドンのようなトップクラスの写真家たちにジャケットの仕事を依頼してきた。

彼の裁量はシビアで、しばしば辛辣だった。『Born To Run』のジャケットを手掛けていた時、彼はブルース・スプリングスティーン本人が選んだ陰気な表情の写真を、「これじゃまるでジョン・アップダイクみたいな小説家にしか見えない」と一刀両断した。そして大量のネガを片っ端からチェックし、エリック・メオラが撮った、ブルース・スプリングスティーンが笑いながらクラレンス・クレモンズの肩にもたれている、リラックスした表情の一枚を見つけ出した。これぞ抜け目ないジョン・バーグのセンスの真骨頂である――音楽史上屈指の素晴らしいアルバムジャケットはこうして生まれたのだった。

 

■ピーター・ブレイク(1932年生まれ)
アルバム・デザインの歴史において揺るぎない地位を確立しているピーター・ブレイクが、アートの世界に足を踏み入れたのは、実は偶然の賜物だった。技術系の学校に通っていた彼は電気技師を目指していたのだが、ある日ドローイング(絵)の試験を受けてみると、その鮮やかな色遣いで高い評価を得、ケント州のアートスクールへの推薦を受けることになったのである。

ピーター・ブレイクに生涯ついて回るであろう代表作は、音楽史を通じて最も重要なアートワークのひとつ、ザ・ビートルズの『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』だ。ピーター・ブレイクは当時僅か200ポンドで、ポール・マッカートニーによるバンドスタンド(野外演奏のステージ)のラフ・スケッチを、自分のスタジオの中で3次元のセットに仕立て上げてしまった。花壇と塑像と段ボールの切り抜きで作られた、ピーター・ブレイクいわく、「彼らが入れたいと思う人なら誰でも加えることができるオーディエンス」のセットは、奇抜な衣装に身を固めたバンドのために整えられた最高のしつらえだった。

ピーター・ブレイクは後年、バンド・エイドのシングル 「Do They Know It’s Christmas?」のジャケットも手掛け、オアシスのようなスーパースター級のモダン・バンドとも仕事をしている。1981年にザ・フーの『Face Dances』を手掛けた際には、彼はデヴィッド・ホックニーやパトリック・コーフィールドといった当時の英国画壇をリードする画家たちに依頼し、バンド・メンバーたちの肖像画を描かせた。ピーター・ブレイクは80代になっても創作活動を続け、セント・ポール大聖堂のアートワークまで手掛けた。

インタラクティヴ版の『Sgt Pepper』のジャケットで登場人物を確かめたい方は、こちら

 

■カル・シェンケル(1947年生まれ)
美術専攻の学生だったカル・シェンケルは、あと1学期で卒業というところでフランク・ザッパに出逢い、大学をドロップ・アウトする。彼は直後にフランク・ザッパの“アート・エンジニア”に任命され、『Sgt Pepper~』のパロディである『We’re Only In It For the Money』をはじめ、多くのファンタスティックなアルバム・ジャケットを生み出す指揮官となった。『Cruising With Ruben & The Jets』他のアルバムでも非凡なデザインのセンスを発揮している彼は、その後多くのニュー・ウェイヴやパンクの先駆者たちのアートワークに関わるに至る。

カル・シェンケルはトム・ウェイツに代表される、現代の音楽的前衛主義における重要人物たちともコラボレーションを重ねた。キャプテン・ビーフハートと組んだ際には、カル・シェンケルは市場で鯉を一匹買ってくると、頭の部分の中身をくり抜いてキャプテン・ビーフハートの顔に装着し、それが『Trout Mask Replica』のジャケットとなった。近年では彼はもっぱら出版社で仕事をしているそうだ。

 

■H・R ・ギーガー(1940年―2014年)
H・R・ギーガーが映画『エイリアン』に登場する“異形”のクリーチャーでアカデミー賞を獲得し、その後もリドリー・スコット監督による2012年のヒット作『プロメテウス』等で40年以上映画の世界で活躍を続けていた。元はチューリヒで建築を勉強していたH・R・ギーガーは、ビデオ・ゲームやインテリア・デザインの仕事にも携わっていた。

このシュールレアリストのスイス人画家は、音楽界でも引っ張りだこだった。多くの傑作の中でも特に有名なのは、1973年のエマーソン・レイク&パーマーのアルバム『Brain Salad Surgery』で、キーボード・プレイヤーのキース・エマーソンの弁によれば、バンドが彼の絵を選んだのは「それがアルバム・ジャケットのアートというコンセプトを究極まで突き詰めたものだったから」だった。彼はまた、デビー・ハリーのアルバム『KooKoo』のジャケットで、世間でお馴染みだったそれまでの彼女のブロンド娘のイメージを一新して見せた。彼女は新しいイメージをたいそう気に入り、その後2本のミュージック・ビデオのデザインに立て続けにH・R・ギーガーを起用した。彼は2014年、転落事故で負った怪我が元でこの世を去った。


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