ハウリン・ウルフのベストソング20:咆哮し続けたブルースの巨人の半生
彼は、腹を空かせた狼のように吠えた。大抵の時は、彼の声は苛立った熊の吠える声のように聴こえたけれども。彼は6フィート3インチ(約190cm)の大男で、ある曲の中で、「300ポンド(約136kg)の至福の喜び」と体重を記している。彼の大きな高笑いに居心地の悪さを感じたら、その数秒後に彼は、マイクに向かって脅すように叫んでいるのだ。誰もハウリン・ウルフ(Howlin’ Wolf)には手出しできなかった。
<関連記事>
・何度もカバーされ再評価されたハウリン・ウルフの「Spoonful」
・ハウリン・ウルフ – Howlin’ Like The Wolf(狼のように吠える)
・誰が最初のブルース・ギター・ヒーローか?
“巨人”の誕生
ハウリン・ウルフは1910年6月10日に生まれた。彼の母親は、彼をチェスター・バーネットと呼んでいたが、他の子供達は、彼を‘ビッグ・フットのチェスター’と呼んでいた。
ミシシッピー州のホワイト・ステーションで靴を履かずに育った彼は、彼の祖父に、悪さをすると「咆哮する狼(ハウリン・ウルフ)」に捕まると教わった。子供ながら既に大人のような体躯だった彼は、その名前で働こうと決めたのだった。
子供の頃の彼のアイドルは、ジミー・ロジャースだった。ザ・ブルー・ヨーデラーという愛称で知られたカントリー・シンガーである。ハウリン・ウルフは彼を真似ようとしたが、ハウリン・ウルフのヨーデルは、まるで咆哮のようだった。そして彼はその咆哮を操ることができた。
ハウリン・ウルフはその界隈で一番のブルース・マンで、今も曲がバンドに演奏されているチャーリー・パットンから、ギター(それにショーマンシップ)を学んだ。その後すぐに、パーティやジュークボックスのある店で、ハウリン・ウルフのギターと渋いヴォーカルが響き渡った。
戦時中に一時軍に入った後、彼は1948年にウエスト・メンフィスに移住し、グループを結成。ハウリン・ウルフの基礎的なエレクトリック・ギターに、名ギタリストが2人とピアニストで編成されたこのグループは、ディストラクションという名前だった。
すぐにハウリン・ウルフの曲はラジオで流れるようになり、1951年にサム・フィリップスのメンフィス・レコーディング・サービス(後のサン・スタジオ)で、レコーディングのキャリアを開始した。この時に彼が録音したうちの一曲が、「How Many More Years」で、シカゴのレーベル、チェスより発売され、幸先のよいスタートをきった。以来、この曲はブルースのスタンダードとなり、リトル・フィートやジョー・ボナマッサなどのアーティスト達にカヴァーされている。
B面の「Moanin’ At Midnight」は、サム・フィリップスによると「今までに聴いた中で最も個性的なレコード」だ。エルヴィス・プレスリーという音楽の革命児を発見した人が言うのだから、大した評価である。
シカゴへの移住
一年後、ハウリン・ウルフはシカゴに移住し、RPMと争った末に彼との契約を手にしたチェス・レコーズとの関係を、表面的には築いた。しかしハウリン・ウルフは、より良い(言い換えると、より商業的な)生活を求めて北部に移住する黒人の一人でもあった。彼には、ほとんど選択肢はなかったのだ。シカゴが彼の観客のいる場所で、彼には大都市の生活が必要だった。
ハウリン・ウルフは抑圧された南部で育ったために不平等に扱われたという憤りを抱え、確実にそのことを実感していたが、彼は良く稼ぎ、経済的にも抜け目がなかった。その一部は、彼の妻リリーの管理のおかげだった。ハウリン・ウルフは少ししか教育を受けておらず、文盲だったのだ。しかし、彼は心の奥底の感情と怖れを表す歌詞を書くために、古風な14行詩(ソネット)でさえ読む必要はなかった。そして、観客を理解する上で、辞書も必要なかった。
驚異的なパフォーマーである彼は、人を怖れさせたかと思うと、次の瞬間には琴線に触れた。彼ほど魅力的なブルース・マンは存在しない。彼は曲の中で、「Tail Dragger」について歌い、「The Wolf Is At Your Door」と警告しながら、月に吠える狼を演じた。しかし、ハウリン・ウルフは単なる目新しい見せ物ではなかった。彼の強力な喉からの音が、それを知らせてくれるだろう。彼は冗談を言ったが、ふざけてはいなかった。
ハウリン・ウルフは、シカゴで新しいバンドを結成。そして約1年後、ギタリストのヒューバート・サムリンが、メンフィスから来てバンドに加わった。
謙虚なヒューバート・サムリンはハウリン・ウルフのサウンドの鍵で、彼の優しい繊細な演奏は、ハウリン・ウルフの熱と完璧な対比を成していた。また、ハウリン・ウルフは賢く金を扱ったことで、シカゴのブルース界の誰よりもいい報酬をミュージシャン達に支払うことができたため、望む人はほぼ全て雇えた。
ヒューバート・サムリンは、1954年の「Evil (Is Going On)」で、初めてハウリン・ウルフの曲に参加。ハウリン・ウルフは、ヒューバート・サムリンに最善を望み、シカゴのコンサーバトリー・オブ・ミュージックでのクラシック・ギターのレッスン代まで払ったほどだ。
この時までに、ベーシストのウィリー・ディクソンは、すでにハウリン・ウルフのレコーディング・セッションで演奏し、シングル曲の多くを作曲してハウリン・ウルフに提供していた。しかし、ハウリン・ウルフはこのことに関して、自分の方が優れた作曲家であるという理由で、しばしば文句を言っていた。
ハウリン・ウルフは沢山のことに不平を言った。それがハウリン・ウルフなのだ。しかしながら、彼はそこまで憤慨できなかったのであろう。「Forty Four (I’m Mad)」は、もし彼がそこまで怒ったら、思い切った手段に出ることを明らかにしていた。(*Forty Fourとは44マグナムのこと)
名曲「Smokestack Lightning」
1956年、ハウリン・ウルフは怪物的な名曲「Smokestack Lightning」を発表した。ブルースはしばしば3コードの12小節が常套手段として演奏されるが、この曲はコードも構造もそれを兼ね備えており、ヒューバート・サムリンの激しいリフが、腹に響くバックヴォーカルの上に乗っていた。
ハウリン・ウルフは、1930年代に南部でこの曲のあるヴァージョンを演奏し始めた。そして、この曲の歌詞を、1951年の「Crying At Daybreak」で引用した。しかし、彼の「Smokestack Lightning」は決定的ヴァージョンであり、決定的なシカゴ・ブルース・レコードだった。
ハウリン・ウルフは、まるでそのタイトルの列車に乗車しているかのように、あるいはその列車が轟きながら走り去るのを見ているかのように、ステージでこの曲を披露した。この曲をショウのオープニング曲にしていたヤードバーズを始め、この曲は、60年代の数々のロック・バンド達にカヴァーされている。
多くのブルース・シンガーと同様、ハウリン・ウルフはしばしば貞節を心配した。歌詞中の彼は、他の男の女と密かに会っている(1961年の「Back Door Man」。ドアーズがファースト・アルバムでカヴァーしたことで有名)か、他の男が彼の女と密かに会っているか(1957年の「Somebody In My Home」)のどちらかであった。
「Sitting On Top Of The World」(これも1957年)は、そのステージをさらに押し進めた。彼は身を尽くすが、それでも女は彼のもとを去るのだ。素晴らしい、これで彼はもう心配する必要も、しつこく不平を言う必要もなくなった。
しかしハウリン・ウルフは、「The Natchez Burning」で明らかなように、他のことにも興味があった。録音されたのは1959年だが、曲のテーマは1940年に遡る。ミシシッピー州のナッチェズで、リズム・クラブが大火事で焼け、観客とミュージシャン、合わせて209人が死亡したことを歌ったのだ。
また、彼の決定的な(そして最初の)ウィリー・ディクソンの「Spoonful」(1960年)では、彼は平等と嫉妬を歌っている。一方「Wang Dang Doodle」(1961年)は、パーティの曲だ。
キャリアの頂点
ハウリン・ウルフは60年代、彼のキャリアの頂点に入った。チェスは1959年に彼のアルバムを発表し始め、ブルースは英国で人気になり始めていた。しかしこの時、ハウリン・ウルフはすでに50歳であった。彼には素晴らしい曲、声、そしてバンドがあったが、彼はもうティーン・アイドルではなかった。
彼の素晴らしい1961年のシングル「The Red Rooster」は、ザ・ローリング・ストーンズにカヴァーされ、全英1位になった。
60年代半ばの名曲「Killing Floor」は、ジミ・ヘンドリックスにカヴァーされ、レッド・ツェッペリンの「The Lemon Song」のベースを作ったが、ポップ・ヒットにはならなかった。ザ・ローリング・ストーンズは、TV番組『Shindig!』の出演時にハウリン・ウルフをサポート・アクトに迎えたが、それで彼がロック・スターになることはなかった。
チェスは彼をスタジオ入りさせ、サイケデリック・ブルース・アルバム『The Howlin’ Wolf Album』を録音させたが、ハウリン・ウルフ自身は、このアルバムを嫌った。彼は一人で不明瞭な騒音を充分に出すことができたし、最初のエレクトリック・ブルースマンの一人だったからだ。
だから、アルバム・カヴァーのラッダイト(暴動を起こす職工団員)がリスナーに思わせるイメージとはほど遠かった。実際、1967年に、彼は優れたファンキー・ブルース曲「Pop It To Me」を録音している。ヒットにはならなかったが。
ハウリン・ウルフは、ファンキー・サイケデリックな設定の曲を演奏する時、過剰なプロダクションに昔からのファンが困惑していたとしても、素晴らしいサウンドを響かせていた。しかしながら、「Evil」の新解釈のシングルは、R&Bチャートでトップ50入りを果たした。
その後のアルバム、1971年の『The London Howlin’ Wolf Sessions』で、彼はザ・ローリング・ストーンズのメンバー達に、エリック・クラプトン、リンゴ・スター、その他、ヒューバート・サムリンを含む有名ミュージシャン達と共演。このアルバムは全米チャートで79位を記録した。少しだけロックにアップデートしたハウリン・ウルフのサウンドは、とても上手く行った。「Rockin’ Daddy」が、それを明らかにしている。
ハウリン・ウルフは70年代の初期に、何度か心臓発作を起こした。しかし彼は、医師の指示に逆らって、パフォーマンスを続けた。時にはただ座って6曲だけ歌ったこともあった。
1976年1月10日、肝臓手術の後、ハウリン・ウルフは亡くなってしまった。しかし世界は、ハウリン・ウルフの深い、咆哮の声に今も揺らされている。次の世代、また次の世代が、彼の音楽を敬愛している。リアルで、正直で、信じ難いほど個性的だからだ。彼はあと何年、愛され続けるだろう? ブルースが愛され続ける限り、それは続くだろう。
Written By Ian McCann
- 何度もカバーされ再評価されたハウリン・ウルフの「Spoonful」
- ハウリン・ウルフ – Howlin’ Like The Wolf(狼のように吠える)
- 誰が最初のブルース・ギター・ヒーローか?
- ハウリン・ウルフ 関連記事