シンフォニック・ソウル特集:ファンキーかつヘヴィー、高揚感に溢れたアメリカのクラシック音楽

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Quincy Jones - Photo: David Redfern/Redferns

We was thinking about Mozart, Beethoven, Schubert, Tchaikovsky, Brahms…
but maybe we should have had a little bit more Brown
作曲家といえばモーツァルト,ベートーヴェン,シューベルト,チャイコフスキー,ブラームス
でもな、ブラウンをもう少し入れておくべきだったかもな

ジェームス・ブラウン「Dead On It」(1975年)より

英国では、ピアニストのビリー・テイラーは「I Wish I Knew How It Would Feel To Be Free」の作者・演奏者として最もよく知られていた。ソウルフルでペンテコステ調の同ジャズ・チューンは、数十年にわたり、BBC1で放映されていた映画評論番組のテーマ曲だった。一方アメリカでは、ビリー・テイラーはテレビでミュージシャンにインタヴューする人物、‘ジャズはアメリカのクラシック音楽’というフレーズを生み出した人物として知られていた。

このフレーズは、数十年にわたって伝えられてきた。これは洞察に富み、時には物議を醸し、さらには固定観念に挑戦するフレーズだった。ジャズは感性のみで演奏されるもの、純粋にダンス用の音楽という固定観念が偽りであることを示しているのだ。

また、ブラック・アメリカは、教養、向上心、文化を兼ね備え、洗練されているということも示している。アフリカ系アメリカ人はダンスが上手いかもしれないが、ブラック・アメリカはダンスの他にも文化的に貢献できるはずだと言うかのような、より高いアーティスティックな衝動も感じられる。20世紀前半、ジャズで踊っていた人々は、20世紀半ばにはソウルで踊り、20世紀後半にはR&Bで踊った。そして今でも踊り続けている。

ジャズが踊る人々を盛り上げながらもクラシック的であるのならば、ソウルとR&Bにも同じことが言えるだろう。なぜなら、どちらもジャズと同じルーツから発生したからである。ソウルもシンフォニーとなって人間が本来持つ、より高い精神性にアピールすることが可能なのだ。

それを疑う人は、アイザック・ヘイズ、 トム・ベル、リチャード・エヴァンス、クインシー・ジョーンズ、ダイアナ・ロス、デルフォニックス、ソウルフル・ストリングス、ビリー・ポール等に尋ねてみればいい。未だ健在のアーティストたちは、ソウルはシンフォニーであると語るだろう。既に亡くなったアーティストたちは、音楽でそれを証明してくれるはずだ。

それでは、気持ちを高揚させ、心を溶かす斬新かつ複雑な音楽を紹介しよう。クラシック音楽と同等の価値を持つシンフォニック・ソウルは、あなたの魂に響き、体を喜ばせるだろう。

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シンフォニック・ソウルの誕生

シンフォニック・ソウルの歴史は、その音楽のように長い。‘ソウル’という言葉は、ビバップ・ミュージシャンの演奏について使われており、ビバップ・ミュージシャンの多くは、ストリングスを使うことを恐れなかった。

20世紀半ば、ジャズに革命をもたらしたビバップの創始者チャーリー・パーカーは、1949年にストリングスを使用した。マイルス・デイヴィスは1957年、ギル・エヴァンスを起用すると、自身の音楽のバックにオーケストラを入れた。

彼らに先立ち、スウィングのバンド・リーダーは、冒険的で非常に洗練された多重的な音楽で評判を得ており、これがクラシック音楽の作曲家にも影響を与えていた。スタン・ケントン、デューク・エリントン、カウント・ベイシーらがこうしたバンド・リーダーの好例で、中でもカウント・ベイシーは、一見シンプルな演奏スタイルをオーケストラの中で保ちながら、人々の心と体を刺激した。アートの中のソウル、とでも言えるだろうか。

そしてミュージシャンは、複雑で難しい音楽を求めた。例えば、デューク・エリントンがビリー・ストレイホーンと共作した『Such Sweet Thunder』(1957年)等の組曲は、ジャズとブルースにクラシック音楽のテクスチャーと深みを加えようと試みた作品だ。また、リズム&ブルースもオーケストラ的アレンジを展開した。リトル・ウィリー・ジョンの「Let Them Talk」(1959年)は、ストリングスで美しさを高めながら、ブルース、ゴスペル、ポップを見事に融合した美曲である。

 

複雑になっていったアレンジ

60年代初頭、リズム&ブルースとジャズの中からソウルが発展すると、アレンジよりもビートとヴォーカルが注目されるようになった。デトロイトのモータウンは、ダンスフロアを沸かせる大音量のスネア・ドラムと重厚なリズム・セクションで台頭した。しかし、当時のファンのほとんどは気づいていなかったが、実はアレンジの複雑さは増していった。

1年という期間で、シュープリームスのレコードは、比較的シンプルな1964年の「Where Did Our Love Go(愛はどこへ行ったの)」から、より複雑な「Stop! In The Name Of Love」へと変化し、そしてそれからわずか数カ月後、同グループは「I Hear A Symphony」と歌っていた。

シュープリームスの楽曲を作っていたホーランド=ドジャー=ホーランドは、商業的にも音楽的にも野心的で、彼らが書いた1966年8月のフォー・トップス「Reach Out I’ll Be There」は、2つの楽曲を演奏した組曲のようだった。

同じくデトロイトを本拠としたモータウンのライヴァル・レーベル、リック・ティックは、ソウルを演奏するオーケストラ、サンレモ・ゴールデン・ストリングスをレコーディングし、「Hungry For Love」をはじめとするシングルを数枚リリースした。

モータウンは後にリック・ティックと所属アーティストの多くを吸収すると、サンレモ・ストリングス名義の「Reach Out I’ll Be There」をリリースした。しかし、シンフォニック・ソウルの初期型を試みていたという点では、中西部でデトロイトに先んじていた工業都市がある。シカゴだ。

 

シカゴでの発展

当時シカゴは、クラシック音楽で非常に高い評価を受けていた。1891年に設立され、アメリカで五本の指に入る交響楽団、シカゴ交響楽団を擁していたためだ。また同市は、質の高いブルース、R&B、ジャズでも知られており、チェス・レコードの本拠地でもあった。ただし、チェス・レコードにはモータウンのようなはっきりとした特徴がなかった。ポップのヒットメーカーを抱えていたわけでもなければ、特にひとつの音楽に特化してもいなかったのだ。

それでも、チェス・レコードはサイケデリック・ブルース、オーケストラ入りのジャズ等をレコーディングしており、モータウンよりもおそらくヒップで冒険的だった。冒険心のあるプロデューサー/アレンジャーのリチャード・エヴァンスに、ソウル、ジャズのアーティストをカデット(チェスの子会社)で契約・レコーディングする自由裁量を与えたのはチェス・レコードである。そしてエヴァンスは1966年、自身のオーケストラ、ソウルフル・ストリングスを結成した。

リチャード・エヴァンスは、ポップやソウルのヒット曲を取り込むと、ソウルフル・ストリングス向けに急進的で複雑なアレンジを施した。また、有名な「Burning Spear」をはじめとする楽曲をソウルフル・ストリングス用に書き下ろした。こうしてソウルフル・ストリングスは、1966年から1971年の間に7枚の名盤をリリースした。

さらにリチャード・エヴァンスは、プロデューサー/アレンジャー、チャールズ・ステップニーに、自分のヴィジョンを信じて従うよう、強く促した。ジャズ・トリオ・ピアニストだったラムゼイ・ルイスは、リチャード・エヴァンスとチャールズ・ステップニーが彼の音楽にストリングスを取り入れたことで、時にアブストラクト、時に予測不能なソウル・ジャズのレジェンドへと変貌した。

また彼らは、ヴェテラン・クラリネット奏者のウッディ・ハーマンや、ソウル・クインテットのデルズ等、数多くのアーティストと名盤を制作した。その後、チャールズ・ステップニーはロータリー・コネクション、アース・ウィンド&ファイアーのソングライティング、プロデュース、アレンジを手掛けるようになる。

また、チェス・レコード所属アーティストで注目に値したのは、ハープ奏者のドロシー・アシュビーだ。彼女はジャズを演奏していたが、60年代にソウルへと転向した。チェス傘下のカデットからリリースされた『The Rubaiyat Of Dorothy Ashby』(1970年)は、非常にシンフォニックなソウルだ。そして同作も、リチャード・エヴァンスがプロデュースしている。

 

3分間の奇跡の束縛から自由に

ソウルの立ち位置が完全なクラシック音楽にならなかった理由はふたつあった。ひとつは、当初アフリカ系アメリカ人のミドル・クラスがそこまで多くなかったが、60年代後半になると、アフリカ系アメリカ人のミドル・クラスは増え始め、この層がシンフォニックながらもソウルフルな音楽を求めたのだ。

また、もうひとつの理由は、ポピュラー音楽において45回転フォーマットが市場を支配していたことだ。しかしこれは、1967年のザ・ビートルズによる『Stg Pepper’s Lonely Hearts Club Band』で変化した。ポップやロックのミュージシャンはザ・ビートルズのこのアルバムに刺激され、ヒット・シングルよりもアルバムを作りたいと思うようになったのだ。

この傾向は、大半のレコード・レーベルにも都合が良かった。というのも、レコード会社は、ヒット・シングルよりもアルバムを成功させた方が、収益が上がることに気づいたからだ。しかし、ジャズ・ミュージシャンが楽曲の尺を伸ばし、アルバム両面にわたる大作を作っていた一方で、ソウルが3分間の奇跡の束縛から自由になるまでには時間がかかった。

 

アルバムを作り始めたソウルミュージシャン

フル・アルバムで勝負したソウル・ミュージシャンは、デトロイトやシカゴのアーティストではなく、他のシンガーに数多くのヒット曲を提供していたメンフィスのミュージシャンだった。アイザック・ヘイズは、セッション・ミュージシャンとしてスタックス・レコードの要となると、1965年からはソングライターとしても活躍し、メイブル・ジョン、ジョニー・テイラー、サム&デイヴ等のヒット曲を共作・プロデュースしていた。

そして1968年、アイザック・ヘイズはファースト・ソロ・アルバム『Presenting Isaac Hayes』をリリースする。同アルバムはジャズ・トリオとしてレコーディングされ、わずか5曲しか収録されていなかった。アイザック・ヘイズは、レコードを出してスターになろうとは思っていなかった。事実、彼はソロ・アルバム『Presenting Isaac Hayes』はスタックスの上司、アル・ベルに要求されて作っただけだった。

そしてアイザック・ヘイズは、アルバムをもう1枚制作することにしぶしぶ同意した。その理由は、スタックスが不利な取引によって過去のカタログを失い、新たな音源で再起を余儀なくされていたためだった。アル・ベルは、一挙に27枚のアルバムをリリースすることにより、レーベルを再起させることができると考えていたのだ。

ファースト・アルバムに満足していなかったアイザック・ヘイズは、今後のセッションを自分が全面的にコントロールすることを条件として、ファンキーなバーケイズ(スタックス所属スターのバック演奏は、大半は同バンドが務めていた)の演奏の録音を開始。通常のソウルの長さである3分間の曲を制作する代わりに、アイザック・ヘイズは長尺の4曲をレコーディングして、そこにウォーターベッドに寝そべる色男のように自身のヴォーカルを乗せたのだ。アイザック・ヘイズは後にこう回想している。

「こうするべきだと頭の中ではずっと聞こえていたのだが、何かに制限をかけられていたんだ。でもようやく、俺は自分の心のままに音楽を作った。自分なりの音楽を作る機会を得た時、ストリングスや普通とは違ったコードを入れようと思った」

アイザック・ヘイズは、デトロイトでモータウンのレコードにストリングスのマジックを入れていたアレンジャー、ジョニー・アレンを雇い入れる。そして2人は、『Hot Buttered Soul』でソウル・ミュージックを変貌させたのだ。

『Hot Buttered Soul』はグルーヴの重要性を忘れてはいなかったが、豪華で美しくまとめ上げられたエレガントなアルバムだった。アルバムは12分の大作「Walk On By」で幕を開ける。

12分でも物足りないかのように、アイザック・ヘイズは18分以上の「By The Time I Get To Phoenix」でアルバムの幕を閉じた。これは斬新なソングライター、ジミー・ウェブによる楽曲だが、そんな彼でも予想すらしなかった仕上がりとなっている。また、同曲にはラップも含まれているが、これは明らかにバリー・ホワイトのレコードに影響を与えているはずだ。

ソウルには昔からセクシーな楽曲も多かったが、アイザック・ヘイズはソウルに官能を加えた。誘惑の囁きから前戯、そしてクライマックスへと、セックスのフル・セッションを描写したのだ。誰もアイザック・ヘイズのような音楽を聴いたことはなかった。そしてアルバムは……まるで熱いバターが塗られたソウルのように売れ、全米アルバム・チャートで8位に入り、熱心なブラック・ミュージック・ファンにとってのマスト盤となった。

その後、アイザック・ヘイズはアフリカ系アメリカ人コミニティのアイコンとなり、映画音楽(『シャフト!』)も手掛ける洗練された現代男性となると、政治的な意見を求められ、女性向け雑誌にヌードで登場するまでになった。また、1990年代後半から2000年代半ばまで、人気アニメ『サウスパーク』でシェフを演じた。そんなアイザック・ヘイズの成功は、シンフォニックな『Hot Buttered Soul』 から全てスタートしたのだった。

 

テンプテーションズの活躍

アイザック・ヘイズは魔法のランプからシンフォニック・ソウルの魔人を解き放ったのだ。すると多くのアーティストが、自分の願いも叶えてほしいとこの魔人に頼んだ。ただしその中に、5人組のソウル・ヴォーカル・グループ、テンプテーションズは入っていない。彼らは歌うことに満足していたが、新たに迎え入れたプロデューサー、ノーマン・ホイットフィールドから社会情勢についての曲を歌うよう要請されると、困惑しておりそれを歌いこなすのに必死だったのだ。

テンプテーションズは1968年、3分間の「Cloud Nine」でサイケデリックになっていたが、ノーマン・ホイットフィールドがプロデュースする楽曲は、さらに壮麗さを増していった。1969年2月にリリースされたテンプテーションズのアルバム『Cloud Nine』には、ヒット・シングルの「Runaway Child, Running Wild」のフル・ヴァージョン(9分以上にわたる)が収録されている。

また同じく1969年にリリースされた『Puzzle People』には、「Slave」や「Message From A Black Man」といった黒人としての意識の高い楽曲が収録されており、わずか2年前のテンプテーションズでは想像もしなかった内容が歌われている。

1971年の『Psychedelic Shack』は、誰かがテンプテーションズのレコードをかけるシーンから始まる(非常にメタなアイディアだ)。ここには「Take A Stroll Through Your Mind」と「Friendship Train」という2曲の大作を収録しており、後者はグラディス・ナイト&ザ・ピップスのヒット・ヴァージョンよりも遥かに長い曲になっている。

テンプテーションズのこうした楽曲は野心的ではあったものの(少なくともノーマン・ホイットフィールドにとっては)、シンフォニック・ソウルが本格化したのは1971年の『Sky’s The Limit』である。ヒット・シングルの「Just My Imagination (Running Away With Me)」ではヴァイオリンが鳴り響き、12分の大作「Smiling Faces Sometimes」では、ストリングスとオーボエがファズ・ギターとぶつかり合い、サイケデリックな狂乱が繰り広げられている。

翌1972年にリリースされた『All Directions』は、テンプテーションズにとって最後の画期的ヒット・シングル「Papa Was A Rolling Stone」を生み出した。同曲(特に11分のアルバム・ヴァージョン)は、アイザック・ヘイズのようにファンキーでありながらもシンフォニックだった。

そしてシンフォニック・ソウルは、『Masterpiece』で最高潮に達する。プロデューサーのノーマン・ホイットフィールドは、テンプテーションズのためというよりも、自分のために同作を最高傑作と名付けたようだ。タイトル・トラックの長さは14分だったが、その中でテンプテーションズの歌の出番はわずか3分しかなかった。

まるでテンプテーションズは、プロデューサーの大きな野望の中に取り残されたかのようだった。同作はまずまずの出来だったが、テンプテーションズの歌唱が疑う余地もなく素晴らしいから、と評価されるタイプのアルバムではない。

 

70年代のモータウンによるシンフォニック・ソウル

当時のモータウンで首席ストリングス・アレンジャーを務めていたのは、ポール・ライザーだ。ポール・ライザーは、1970年にゴードン・ステイプルズ&ザ・ストリング・シング名義でリリースされた『Strung Out』で仕事している。デトロイト交響楽団のコンサート・マスターだったゴードン・ステイプルズは、多くのデトロイト産ソウル・レコードにヴァイオリン・セクションを提供しており、『Strung Out』でもファンキーなR&Bに対する彼の手腕が発揮されている。ただし、アレンジはソウルフル・ストリングスの最高傑作に比べると、遥かに単純である。

そしてモータウンは1972年にロサンゼルスへの移転を完了した。偶然か否か、この移転によって、モータウンは方向性を見失ったかのような印象を与えた。それでもモータウンはヒットを連発していた。

スティーヴィー・ワンダーのアルバムによって、モータウンは70年代を通じてシーンの最先端に君臨し続け、移転前年にはマーヴィン・ゲイが、アイザック・ヘイズ的シンフォニック・ソウルにヒッピーの感受性と黒人の自覚を加えた『What’s Going On』をリリース。さらにはマイケル・ジャクソン、そしてライオネル・リッチーが数百万位のアルバムを売り上げ、モータウンの発展に貢献した。

当然のことながら、ダイアナ・ロスはスーパースターの座を維持しており、彼女のレコードは豪奢さを増していった。そんな彼女が歌った「Ain’t No Mountain High Enough」(1970年)は、特に高揚感のあるシンフォニック・ソウル・レコードだ。普通は難しいセリフのパートだが、プロデュースを務めたアシュフォード&シンプソンの見事な力量のおかげで、ダイアナ・ロスの言葉は説得力をもって響いてくる。

 

しかし、モータウンがリリースしたシンフォニック・ソウルの傑作に、ストリングスは入っていなかった。テンプテーションズを脱退したエディ・ケンドリックスのセカンド・アルバム『People… Hold On』(1972年)は、いくつか長尺の楽曲が収録されており、「My People… Hold On」はおそらく‘トライバルな交響曲’と表現するのが最も適しているだろう。アフリカのパーカッションを多用しており、ルーツ的でありながらも洗練されている。

これに相当するレコードは、ラモント・ドジャーの「Going Back To My Roots」(1977年)で、同曲のオリジナル・アルバム・ヴァージョンは、アフリカン・アメリカン・シンフォニーだ。コモドアーズが1974年にリリースしたデビュー・アルバム『Machine Gun』に収録されたグロリア・ジョーンズとパム・ソーヤーのペンによる「The Assembly Line」は、社会的意識の高い傑作で、ピュアなファンクを保っている。

しかし、全般的にみると、70年代におけるシンフォニック・ソウルの主な動きは、メインストリーム・ソウルと同様、モータウンやデトロイトのアーティストとは離れた場所で起こっていた。

 

フィラデルフィアのビート

70年代のソウルは、フィラデルフィアのビートで躍った。‘兄弟愛の町’という愛称を持つフィラデルフィアの音楽シーンは、ケニー・ギャンブルとレオン・ハフという2人の男が支配していた。2人はフィラデルフィア・インターナショナルというレーベルを設立し、同レーベルでソングライティングとプロデュースを行っていた。

2人は、ごく自然に豪華なソウルを作っていた。2人はオーケストレーションを全く恐れることなく、リズム・セクションはファンキーでディスコ・フロアでの受けを狙っていたのに対し、そのプロダクションは豊かで洗練されており、1968年までに、2人はお洒落なソウル・スターの間で人気のプロデューサーとなっていた。ジェリー・バトラーの『The Ice Man Cometh』に提供した2人のプロダクションで、シンフォニックな初期兆候が現れている。

1972年、2人はオージェイズの曲をエクステンデッド・フォーマットでレコーディング。オージェイズはベテラン・ヴォーカル・グループでこの頃に全盛期を迎えていた。「992 Arguments」といった曲は、グロッケンシュピールやストリングス、ホーン等を使った美しいアレンジを施され、楽曲の尺が伸ばされた。

こうしたエクステンデッド・フォーマットは、エキセントリックなサウンドを持つラウンジ・シンガー、ビリー・ポールでさらに功を奏した。1972年にリリースされた『360 Degrees Of Billy Paul』には、物議を醸すテーマながらも品のある名作シングル「Me And Mrs. Jones」の他、エルトン・ジョンやキャロル・キングの定番カヴァー・ソングが収録されている。

シンフォニック? もちろん。しかし、しかし、ビリー・ポールとギャンブル&ハフは、このスタイルの雛型を持っていた。当時、気づいた人はほとんどいないが、ビリー・ポールの前作『Going East』は、1971年のソウルとしては最高にシンフォニックかつコンセプチュアルな作品だったのだ。

ギャンブル&ハフは、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツの「Wake Up Everybody」(1975年)や、MFSB(彼らのハウスバンド)のファンキーながらも崇高な楽曲の数々で、野心的なサウンドを作り続けた。しかし、ギャンブル&ハフがフィラデルフィアで豪華なソウル・ミュージックを最初に作ったわけではない。

また、フィラデルフィアには彼ら以外の巨匠も存在した。1967年に設立されたフィリー・グルーヴ・レコードは、A&R担当にトム・ベル、トップ・アーティストにデルフォニックスを擁していた。デルフォニックスは、1968年の「La-La (Means I Love You)」でフィラデルフィアのシルキーなソウル・サウンドを有名にしたグループだ。

同曲のプロデューサーとして、初々しくも勝手知ったる仕事をしたトム・ベルは、クラシックの訓練を受けたアレンジャーで、「Ready Or Not (Here I Come)」や「Didn’t I Blow Your Mind (This Time)」といった楽曲もデルフォニックスに提供した。その後トム・ベルは、スタイリスティックスで同じことをおこなう。

スタイリスティックスもヴォーカル・グループで、ハイ・テナーのリード・ヴォーカルは、トム・ベルのゆったりとしたシンフォニック・スタイルと相性抜群だった。トム・ベルは共同ライターのリンダ・クリードと共に、トム・ベルは「Stop, Look (Listen To Your Heart)」や「You Are Everything」等、スタイリスティックスにエレガントなヒット曲を提供。中でも「People Make The World Go Round」は傑作だ。

ジャズに変化を加えたムーディな同曲は、70年代初頭の都市生活の混沌を描き、最小限のインストゥルメンテーションを使いながら、雰囲気を最大限に醸し出している。これぞ、小さなバンドのシンフォニーだ。

 

CTIレーベル

「People Make The World Go Round」は、注目を浴びた。CTIレーベルに所属するジャズ・フュージョンのミュージシャン達は、この曲がモダン・スタンダードであるかのようにカヴァーした。CTIも、ミドル・クラスの黒人が増えたことにより成功を収めたレーベルだ。

ジャズ・プロデューサーのクリード・テイラーによって設立されたCTIは、質の高いプロダクション、スムーズなアレンジ、アメリカ随一のジャズ・ミュージシャンを誇り、オーケストラを背景に演奏することも多かった。同レーベルは、MJQのミルト・ジャクソンや、ハードバップ・トランペッターのフレディ・ハバードといったアーティストにスタイリスティックスの名曲をカヴァーさせ、他のソウル・ヒットについても、壮麗ながらも間違いなくグルーヴィーなリメイクを施した。

ボブ・ジェームス、デオダート、ドン・セベスキー等のアレンジにより、CTIは70年代、シンフォニックなジャズ・ソウルのアルバムを何百万枚も売り上げた。アブストラクトなデザインの多かったCTIのアルバム・アートワークのポスターすら、通信販売で注文することができた。

 

クインシー・ジョーンズの登場

CTIが初期に契約を結んだアーティストの中に、クインシー・ジョーンズがいる。ジャズのバンド・リーダーとして、『鬼警部アイアンサイド』『夜の大捜査線』『ミニミニ大作戦』といった映画/TVのサウンドトラックの仕事で名を馳せていたクインシー・ジョーンズは、CTIの契約ミュージシャンを起用したアルバムを数枚、70年代初頭に制作している。

クインシー・ジョーンズは後にCTIからA&M(CTIのディストリビューター)へと移籍し、70年代半ばには『Body Heat』『Mellow Madness』『Sounds… And Stuff Like That!』等、スムーズでファンキーなアルバムで絶大な人気を博した。

クインシー・ジョーンズは程なくして、マイケル・ジャクソンの『Off The Wall』『Thriller』に見事なプロダクションを提供し、元モータウンのティーン・スターを史上最高のポップ・レジェンドへと仕立て上げた。なお、『Thriller』のタイトル・トラックは、サウンドやプロダクションの質は進化しているものの、アイザック・ヘイズが起草したシンフォニック・ソウルの青写真を使っている。

 

バリー・ホワイトとドナ・サマー

ソロ・アーティストも、70年代のシンフォニック・ソウル・シーンで活躍した。バリー・ホワイトやドナ・サマーは全くタイプの違うアーティストだが、2人ともセクシーな音楽を歌い、クラブ・プレイを真っ向から狙いながら、楽曲の演奏時間を伸ばすことを恐れなかった。

バリー・ホワイトは全く憶することなく、熊のような体と唸るようなヴォーカルを見事なアレンジで奏でられる誘惑のシンフォニーに提供した。ドイツでは、マサチューセッツ州ボストン生まれのドナ・サマーが、セクシーなララバイ「Love To Love You Baby」(1975年)やダンスフロアを激しく盛り上げる「I Feel Love」(1977年)のヒットによって、ユーロ・ディスコの女王となった。どちらも、頭よりも体で感じるタイプの曲だったが、それでもシンフォニックだった。

 

カーティスそして80年代以降

一方、シカゴ・ソウルの巨人、カーティス・メイフィールドは70年代、聴く者の魂と心に向けて楽曲を作っていた。彼の作品は、野心的なソウルの中でもより思慮に富んでいたが、映画『スーパーフライ』のサウンドトラックと、美しいアルバム『Roots』(1971年)で、ストリートの評判も勝ち得るのだった。

どちらのアルバムも、ジョニー・ペイトの書いたアレンジに恩恵を受けている。ジョニー・ペイトは、シカゴ・ソウルのレコードの多くでオーケストレーションを手掛けていた。ただし、カーティス・メイフィールドがシカゴのシンフォニック・ソウルを独占していたわけではなく、シャイ・ライツ、リロイ・ハトソン、ダニー・ハサウェイらもシカゴで活動し、シカゴ・ソウルを作っていた。

80年代のファンは、よりハードなビートとテンポを求めたため、エレクトロ、ヒップホップ、ハウスがシンフォニック・ソウルを全滅させてもおかしくなかった。しかしいまだに時折、シンフォニック・ソウルはシーンに登場する。マッシヴ・アタックの「Unfinished Sympathy」(1991年)はシンフォニック・ソウルで、世界的なヒットになった。

ドラムン・ベースはブレイクビーツのみに制約されるのを拒絶し、ゴールディや4ヒーローといったアーティストは、オーケストラ的で凝ったアレンジを施した音楽を制作。4ヒーローは、ニューヨリカン・ソウルの「I Am The Black Gold Of The Sun」を見事にリミックスし、前世代のアーティスティックな全盛期を思い起こした。これは、1971年にリリースされたロータリー・コネクションの名曲リメイクである。

ハウス・ミュージックもまた、オーケストラ的アレンジに精通していた。例えば、Rhythim Is Rhythimのクールな「Strings Of Life」(1987年)では、クラシックの訓練を受けた演奏者とアレンジャーの代わりに、サンプラーとデリック・メイのキーボードが使用された。

さらに、プリンスやマイケル・ジャクソンといった大物アーティストは、頭の中で聞こえるサウンドに決して制限を加えようとしなかった。マイケル・ジャクソンの「Earth Song」は、物憂げにスタートして盛り上がり、仰々しいフィナーレを迎える。1995年のリリース時、他にはほぼ類を見ない楽曲だった。シンフォニックな戦場に立つ最後の生き残りだったのだ。

シンフォニック・ソウルの台頭は華々しいものだった――また時に、虚栄心が強すぎることもあった。そして、聴く者を思い切り踊らせると同時に、その幅広さと優雅さで目を眩ませることもできた。

シンフォニック・ソウルは、モーツァルト、シューベルト、ブラームスに思いを馳せていた……これは、アメリカのクラシック音楽だったのだ。しかしその全盛期、とことんファンキーかつヘヴィーでもあった。シンフォニック・ソウルがなければ、世界は遥かに退屈で、高揚感のない場所となるだろう。

Written By Ian McCann


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