フレディ・マーキュリーはいかにして史上最高のロック・アイコンとなったのか? 彼自身の言葉でその人生を辿る

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フレディー・マーキュリーの45年間の人生は並外れたものだった。「ありとあらゆることを経験してきた」と生前彼は語っていた。ここで、ザンジバルからイギリスへと渡り、世界的アイコンになるために大きな逆境に打ち勝ってきた彼の人生を振り返ってみることにしよう。ロックショーを劇場体験へと変え、間違いなく世界で最も偉大なライヴ・パフォーマーの一人となり、彼がこの世を去ってから数十年が経つ今尚、多くのファンたちが彼の音楽を愛し続けているのだ。

自立することを学んだ

1946年9月5日、フレディー・マーキュリーは本名ファルーク・バルサラとして、イギリスの保護国だったザンジバル島(現在はタンザニアの一部)のストーン・タウンで生まれた。人生で初めて経験した大きな挑戦は、まだ幼い頃にインドのボンベイ近くの全寮制学校に送られたことだった。

両親と最愛の妹から引き離されたことで“孤独と拒絶”を感じていたものの、彼はその苦境を最大限に活かす術を知っていたと、自ら語っていた。「自立することを覚える環境に身を置いていたからこそ、幼い頃から責任を負うことを学び、そのお陰でたくましくなれました」とフレディ・マーキュリーは、近年新たに発売された、フレディ・マーキュリーの20年間の語録をまとめた書籍『フレディ・マーキュリー 自らが語るその人生』の中で語っている。「全寮制の学校では、自立し、他人に頼らないことを学ぶのです」

興味を追求する

60年代に、家族でイギリスへ引っ越したフレディは、ロンドンにあるイーリング芸術大学へ通い、グラフィックスの学位を取得した。当初は、その学位を活かした仕事を探していたという。

「卒業証書をもらいフリーランス・アーティストとしてやってみようとしたんですが、数ヶ月経って、“もういいかな”と思ったんです。それから自分の中で音楽の存在がどんどん大きくなり、音楽が僕の人生で最も重要なものなのだと気付き、音楽で生計を立ててみようと決意しました。純粋に、僕は自分が好きなことをやり続けていくべきだと信じているんです」

 

音楽業界の“障害物競走”に立ち向かう

サワー・ミルク・シーやアイベックスなどでのバンド経験を経て、フレディ・マーキュリーは当時学生だったブライアン・メイ、ロジャー・テイラー、そしてのちにバンドに加わるジョン・ディーコンと共にクイーンを結成した。70年代初期に活動してした他の若手バンドたちがそうだったように、音楽業界で駆け出しだった彼らが直面していた苦境に、フレディ・マーキュリーは常に実直で、彼はそれを障害物競走と呼んでいた。

「(1971年に)デモを作った瞬間から、業界には強欲な人たちがいることに気付かされました…成功すると悪い輩も寄ってくるので、心を強く持って彼らをふるい分けなければならないのです。自分たちのサバイバル能力が試されるんです。誰かに利用される訳にはいかない。それはまるでダッジムをやってるような感じです」。

フレディ・マーキュリーは後にそれらの経験を「Death On Two Legs」という歌にしている。

 

オープニングアクトの“トラウマ”経験を乗り越える

クイーンのキャリアが始まった頃の重要な経験として、1973年に抜擢されたモット・ザ・フープルの全米ツアーの前座がある。

「あの時オープニングアクトを務めた経験は、僕の人生で最悪のトラウマとなりました。ツアーで他のアーティストをサポートする時には、多くの制限がかかる。照明も、演奏時間も、舞台効果も自分たちの希望通りにはいきません。観客に自分たちのポテンシャルを披露することはできない。ヘッドライナーを務めて初めて観客が自分たちを観に来ていると実感できるんです。アメリカへ初めて行ったのは、モット・ザ・フープルの前座を務めるためで、“場を和ませる”ためのツアーだった。お陰でアメリカを味わうことができたので、次回来た時には何が必要なのかを把握することができましたが」

音楽の新境地を開く

フレディは自身を“強引な人物”だったと認めており、そこには常に、“すべてが斬新でなくてはならない”という思いがあった。そんな精神が功を奏して、70年代にはクイーンを大胆なバンドにできた、と彼は語っている。ロックの最高傑作である「Bohemian Rhapsody」を収録した1975年の『A Night At The Opera』をはじめ、彼らは限界の壁を越えて何枚ものアルバムを発表した。

「どのアルバムも多少やり過ぎた感はあるかも知れませんが、それがクイーンなんです。そのお陰でクイーンは新鮮な作品を作ることができました。“A Night At The Opera”には、チューバから櫛まで、ありとあらゆるサウンドが取り入れられています。境界線なんてなかった。完成した瞬間に、僕たちのやりたいことは無限なのだと確信しました」

 

ワールド・ツアーを極める

伝えられるところによれば、1972年1月にクイーンがベッドフォード大学で演奏した当時、観客が6人しかいなかったそうだ。そしてそれから13年も経たないうちに、彼らはリオデジャネイロで1公演で25万人の観客を動員し、その頃には誰もが認めるスタジアム・ロックの大御所バンドとなっていた。

1973年には、ゆっくりと成功への道を進んでいたが(最初は大学などを回り、その年の終わりにはハマースミス ・オデオンで完売ライヴを行った)、バンドにとって転機となったのは、1974年に行った、オーストラリアとアメリカを含むワールド・ツアーだったとフレディ・マーキュリーは実感していた。

「初めて敢行したワールド・ツアーは成功に終わり、僕たちは多くのことを学びました。ステージ上での振る舞いや、ライヴでの音の掴み方などをね」

1975年に日本へ行った頃についてはこう語っていた。

「僕たちは全く違うバンドになっていました。演奏の腕が上がっていたんです。どうやら僕たちはプレッシャーを感じた方が上手くいくみたいでね」

熱狂的なファンともうまく付き合っていく

フレディ・マーキュリーは熱狂的なファンたちと関わり、彼らからの誇大な称賛を好んだ。観客やファンとの不運な出来事は過去に2つほどしかなかったそうだ。一つは1975年のシアトルにて若いファンが彼の部屋に忍び込み、彼のジュエリーとブレスレットを盗んだことがあった。フレディは泥棒の女性と直面し、ジュエリーを力づくで奪い返した。もう一つについては笑いながらこう語っている。

「それから1年後、僕のポップ・アーティストとしてのキャリアは終焉を迎えかけました。会場の外で2人の若い女性が僕のスカーフをお土産に持って帰ろうとしたんですが、それが僕の首に巻かれていたという事実をどうやら忘れていたようで、危うく窒息死するところでした」

Photo by Chris Hopper

 

スーパースター・ショーマンになるまで

「世界中に僕の音楽を聴いてもらい、ステージに立っている時には僕の歌声だけに耳を傾けて、僕だけを見てもらいたい」と、70年代にフレディ・マーキュリーは語っていた。クイーンのコンサートを観終わった後、観客には「思いっきり楽しんだ」と感じてもらうことを望んでいた。

「観客全員を夢中にし、心から楽しんでもらいたいんです。“観客を自分の意のままにする”というのはありきたりかも知れませんが、少しでも早くそれを達成したかった。そうすれば自分が主導権を握っている気持ちになれて、上手くいっていると確信することができますから」

そして、1985年7月にウェンブリー・スタジアムで行われた“ライヴ・エイド”では、ロンドンの会場を埋め尽くした72,000人と、テレビの前にいる世界130ヵ国、約19億人の観客を前に、彼は21分間におよぶ圧巻のパフォーマンスを披露し、世界を意のままにしたのだった。

 

ソロになって、“大衆にバレエを届けたい”

「色んなアイデアが溢れ出してきて、クイーンの一員としてはできなかった沢山の音楽領域を超えてみたいと強く思っていました」とフレディ・マーキュリーは1985年にソロアルバム『Mr. Bad Guy』を発売した当時に語っていた。結果、彼は『Mr. Bad Guy』を誰にも指図されることなく完成させた。

「あれこれ指図されない方が僕にとっては楽なんだということがわかりました。すべての決定権が僕にあるんです」。このソロ・アルバムを通じて彼は自らの抱く野心の一つを満たすことができた。それはバレエへの愛を表現することで、表題曲「Mr. Bad Guy」のPVにもバレエが登場している。1985年に制作された「I Was Born To Love You」のPVの振り付けを担当したアーリーン・フィリップスは、フレディ・マーキュリーが「大衆にバレエを届けたい」と語っていたと証言する。

リスクを負うことを決して恐れない

フレディのインタビューに何度も出てきた言葉に「リスク」がある。

「いつだってリスクは付き物で、僕にはその方がいいんです。リスクがあるからこそ良い音楽が作れる。クイーンは常にリスクを背負ってきました」

フレディは「Bohemian Rhapsody」と「I Want To Break Free」のPVはどちらも「リスクがあった」と説明し、クイーンの1982年の実験的アルバム『Hot Space』については「大きなリスク」だったと表現している。

1988年には、世界的に有名なソプラノ歌手、モンセラート・カバリェとアルバム『Barcelona』でコラボレーションすることによって、フレディ・マーキュリーは再び大きなリスクを背負うことになった。「大きな賭けに出たことは自覚していました」と、ロックとオペラを見事に融合させたことにとても誇らしげなフレディ・マーキュリーは語っていた。

「世界的に有名なプリマドンナに相応しいオペラの楽曲を自分に書けるとは思っていませんでした。自分自身のそんな可能性を信じていなかったんです。ただ、他に何かやり残したことはないだろうか?と考えていました。現役のロックンロール・ミュージシャンで、伝説的なオペラ・ディーバとデュエットして、生き残れる奴が他にいるなら、受けて立つよってね」

こうやってフレディー・マーキュリーは常に逆境に打ち勝ってきたのだ。

Written By By Martin Chilton



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[収録内容]
●ドキュメンタリー(2017年/約58分)
●バレエ(1997年/約90分)
●メイキング・オブ(1997年/約23分)
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