アグネタ・フォルツコグのソロ・キャリアはアバの創世記

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富と名声を夢見る若い少女のように、アグネッタ・フォルツコグは、スウェーデンの小さな町ヨンショーピングで育ち、彼女のアイドル、コニー・フランシスの世界的な成功にならいチャンスを得ていくことになる。それは、彼女が18歳になる前に、彼女の手によるシングルが、スウェーデンのチャートでトップを獲得することであり、世界で最も偉大な4人組ポップ・グループ アバ の一員となることであり、まるでおとぎ話の一部のようであった。アグネッタの自身の名を冠したデビュー・アルバムは、そのおとぎ話の魔法のような第1章である。

アルバム『Agnetha Fältskog』には、1968年の終わりまでにリリースしたシングルの両面と新曲2曲が収録されていた。このティーンエイジャーは9曲の作詞にその名を記され、またアルバムのオープニング曲であり、失恋ソングの「Jag Var Så Kär」(日本語訳「とても愛してたのに」)を含む3曲の作曲にもその名を記されている。この曲は、初めジュリー・グラントの「Hello Love」(スウェーデン語の歌詞はアグネッタの手によるもの)のカヴァーのB面として扱われ、何人かのラジオのDJの注意を引くぐらいだったが、地元のTV番組に出演し、その後うまくいき始める。後に、アグネッタは「大部分のリズムがほんとにひどかった」と語っており、まったく満足してはいないようだが、そのアルバムは、ディスプレイ上の才能よりもアバにおいても特徴的な徹底的なクオリティ・コントロールを重視することを暗示していた。

『アグネッタ・フォルツコグ』 は根っからの60年代ポップのアルバムであり、英語で歌う彼女と同世代のシーカーズのジュディス・ダーラムやシラ・ブラック、そしてダスティ・スプリングフィールドといったシンガーたちを彷彿とさせた。どの曲も3分30秒を超えることはなく、軽快でメランコリーに満ちている。50年たった今でも、あなたの心を打つのは、忘れることのできないアバのサウンドの中心となったアグネッタの素晴らしいソプラノ、まるでクリスタルのように精密で、成熟した歌声だ。

アグネッタは天から与えられた素晴らしいヴォーカルを地元のダンス・バンドで磨いた。シングルが上昇している時も、車の会社で配電盤を扱う仕事をしていた。彼女のデモ・テープを聴いたレコード・プロデューサーが彼女を発見し、ストックホルムのフィリップス・スタジオで本格的なレコーディングができるように仲介し、それが彼女がスウェーデンのCupolレーベルとの契約につながった。

そのレコーディングからの数曲はアルバムに収録された、しかしアグネッタのセカンド・シングルは急速に失速し、彼女の父親の手によるサード・シングル「En Sommar Med Dej」はチャート入りさえしなかった。西ドイツのヒット・メイカー、ディーター・ジマーマンと組み、4曲を初のLPのために制作した。彼らは、今日においても大陸を超え、幅広く人気を博し、毎年のユーロ・ヴィジョン・コンテストでも広く放送されるようなシュラガー・サウンド(*シュラガーとはドイツ語でヒット、つまりはポップのこと)‐メロディック、ミッドテンポ、そして時にメランコリック‐を体現していた。 アグネッタの「Försonade」はこの年のユーロ・ヴィジョン・コンテストのスウェーデン代表にエントリーされたが、惜しくも落選した。まあ、何の問題もない。なぜならアグネッタは、その6年後、このコンテストでより素晴らしいことを成し遂げるからだ。

全編にわたるオーケストレイションはアグネッタの魅惑的な声を引き立たせており、このフォークに満ちたアルバムに適している。しかし、アグネッタの屈託のない個性と多くの人が好んでいる暗いバラードといったコントラストも存在している。このビター・スウィートなコントラストは、プロとしてのシンガーを困らせるものではあっただろうが、同時に今日聴いても忘れられないものにもした。アバの定番曲「Fernando」にもあるようなエコーをここでも発見することができ、バンドの伝説の初期のサウンドが存在しているのが十分に証拠づけられているのだ。

アグネッタと3人の運命の組み合わせはポップの世界を永遠に変容させた、しかし、この証拠に、この一人ぼっちの道のりが、彼女を特別な場所へ導いたのだといえるだろう。

Written by Mark Elliot



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