DIYミュージック:自分で作った楽器や実験的録音、インディからネットまで自らの力で進む音楽家達

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Photo: Laurent Sauvel / Getty Images

DIY音楽の始まり

洞穴の中で歌われた曲から激しいパンク、綿畑で生まれたブルースから初期のヒップ・ホップまで、とにかく手元にあるもので音楽を作ろうという衝動は人間の行動の中にいつもあった。石ころや棒、岩や丸太を、音の質や高さを変化させるために色々な形に造作した打楽器は16万5千年以上も前から存在している。現在でも周囲を見渡せば、DIY音楽はあちこちに溢れている。

初めて本格的なDIY音楽を作ろうとしたのは、洞穴の中にいた昔のヨーロッパ人だった。2012年、科学者たちは19センチほどの革新的なフルートがいつ頃作られたものなのか、放射性炭素年代測定法を使用して調査した。すると、複雑なメロディを奏でられるよう3つの穴が開いたフルートは、鳥の骨とマンモスの牙を使って4万3千年前に作られたものであることがわかった。ドイツ南部の洞窟ではそうしたフルートが複数見つかり、それが精巧な楽器としては世界最古のものと考えられている。

19世紀に活力に満ちた粗野なブルースがアメリカのディープ・サウスの農村で大流行したのも、中石器時代の人びとの持っていた臨機応変さを人類が有していたからだろう。音楽への志向性が高いアフリカ人奴隷たちは自分たちでフルートやバンジョー、バイオリンを作り、労働中に歌う歌や霊歌、そして”フィールド・ホラー”(労働歌の独特の歌い方)などに演奏をつけるようになった。

水差しや洗濯板、たらい、ベース、木琴、ドラム、(フルートのような)横笛、リュート、バイオリン、1弦のツィターなど、アメリカのブルース黎明期から使われた楽器のほとんどは、アフリカにルーツを持つ。特に弦楽器は、音楽を使った物語文化が古くからあるアフリカのムスリム地域の奴隷に好まれた。

 

わずかなコストでの制作

ブルースを演奏する上で奴隷たちが好んだ手作りのバンジョーは、子牛の皮と真鍮、鉄などがあれば少ないコストで作ることができた。4本の弦を、地元の堅木から家で掘り出したボディに張るのだ。1850年代、ボルチモアに工場を構えるウィリアム・バウチャー・Jrはバンジョー作りの基準を作り、大量生産の実現に貢献した。

だが、楽器のことだけがDIY音楽の物語ではない。それは創造性や、限界を超えたいという願いの物語なのだ。その好例は質素なハーモニカだろう。そのルーツは紀元前200年頃、漢王朝時代の中国で生まれた口で吹く竹製の楽器、笙にあるとされる。

ドイツの発明家マティアス・ホーナーが19世紀に現代のハーモニカを開発。すると価格も手ごろで持ち運びやすい楽器として、アメリカで大人気となった。ハーモニカがブルース(や現代のロック)において重要な楽器になったのは、音をベンドできるよう技術を身に着けたアフリカ系アメリカ人ミュージシャンの存在によるところが大きい。ハーモニカを逆に演奏する(”クロス・ハープ”と呼ばれるポジションで息を吸う)ことで、半音から全音低い音を出すことができるのだ。

農家で働くそうしたアマチュア・ミュージシャンたちが、リトル・ウォルターやソニー・ボーイ・ウィリアムソンやソニー・テリーといった未来の名手たちに道を開いた。後にハーモニカはフォークやカントリー、ロックなどの白人ミュージシャンの間でもよく使われるようになる。ローリング・ストーンズのミック・ジャガーやボブ・ディラン、ジェイムス・テイラー、ブルース・スプリングスティーン、ヴァン・モリソンなどもその一部だ。

 

ブルースの登場

20世紀の前半には、アコースティック・ギターがブルースの主要な楽器となる。そしてロバート・ジョンソンやブラインド・レモン・ジェファーソンといったストリート・パフォーマンスがその腕前を全国に知られるようになる。技術の鍛錬に費やされた彼らの時間は、後のマディ・ウォーターズやハウリン・ウルフ、BB・キング、T-ボーン・ウォーカー、ジョン・リー・フッカーら、エレキ・ギターの名手たちの時代に花開いた。

1920年代にはブルースがプロフェッショナルで専門的なものになっていった。ミュージシャンたちも良い楽器を使い、性能のよいレコーディング機材で演奏も収録されるようになった。それでも当初のDIY精神の一部は、即席の楽器を使うジャグ・バンド・ムーヴメントに残っていた。

ジャグ・バンドは19世紀後半、ケンタッキー州ルイスヴィルで始まった。楽器は水差しや櫛、ストーブの煙突、洗濯板、スプーン、そして古いウィスキーの瓶まで、どの家庭にもある道具から作られた。安く手に入るヘチマからも楽器ができた。最初期のベースにはタンスを加工したものもあった。

手近な素材から音楽を生み出そうとする考えはアメリカに限ったものではない。タンスでできたベースと似たような同時期の楽器が世界中で見つかっている。たとえばキューバのティンゴタランゴやイタリアのtulon、オーストラリアのブッシュ・ベースなどだ。

ジャグ・バンドたちがレコーディングをするようになったのは20年代で、30年代になっても強い人気を誇った。現在でもアメリカ各地でジャグ・バンドのフェスが行われ、そこでキャリアをスタートさせた著名なミュージシャンもいる。グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアとボブ・ウェアも、1964年にマザー・マクリーズ・アップタウン・ジャグ・チャンピオンズのメンバーだった。

 

遺産の保存

1930年代、1940年代になりジャズやブルースがポピュラー音楽の主流になった頃、民俗学者のアラン・ローマックスは良質なDIY音楽の遺産の保存に貢献した。ローマックスはその音楽学の活動についてボブ・ディランから”伝道師”と評されている。ローマックスはフォード製のセダンでアメリカ中を旅した。車の中には315ポンドのアセテート盤レコーダーを乗せており、それが事実上、移動式スタジオの原型になっていたといえる。

2002年に87歳で亡くなったローマックスは、5,000時間分の音源や121.92kmにおよぶフィルム、2,450本のビデオ・テープ、そして無数の書類を個人で保管していた。現在その多くはアメリカ議会図書館に所蔵されている。その中にはジェリー・ロール・モートンやマディ・ウォーターズの演奏のほか、アンゴラにあるルイジアナ州立刑務所でリード・ベリーが12弦ギターを弾く音源も含まれている。ローマックスのような民俗学者たちがDIY音楽の時代を後世に伝え、ファンは永遠にそれを楽しむことができるのだ。

 

技術の革新:50年代

1950年代は音楽界が大きく変わった時期だった。新たな技術により33回転、45回転のレコードが広く流通するようになり、テレビが主要マス・メディアとしてラジオに取って代わるようになった。そして、R&Bから派生してロックンロールが生まれた。エルヴィス・プレスリーがキャリアをスタートさせたサム・フィリップのサン・レコードは、50年代に生まれた独立系レーベルだった。フィリップはA&Rやプロデュースだけでなく、彼がスタジオでエンジニアとして手掛けたレコードの製造や流通までを自ら担当した。1960年代にはベリー・ゴーディがほとんど同じことをモータウンでやっている。

ロックンロールが1950年代に世界を席巻し始めると、さらにそこから派生したスキッフルがヨーロッパで定着いた。本質においてDIY音楽といえるスキッフルは、20年代のアメリカで生まれ、イギリスで特に人気を博した。ロニー・ドネガンがカヴァーしたリード・ベリーの「Rock Island Line」が1954年に世界中でヒットすると、自家製楽器の流行に乗って地域でのスキッフル・ムーヴメントが起きたのだ。

アマチュア・ミュージシャンが「Rock Island Line」を演奏するために必要なのは、ギター、手作りのベース(材料は茶箱とほうきの柄、針金)、亜鉛の洗濯板、そして鉄の指ぬきだ。『ROOTS, RADICALS AND ROCKERS: HOW SKIFFLE CHANGED THE WORLD』の著者でシンガーのビリー・ブラッグは、こうしたDIY音楽の流行が革新的だったと考える。ブラッグはこう綴っている。

「スキッフルの流行はアフリカ系アメリカ人の音楽のルーツに通じる、原点回帰的な動きだった。スキッフルは草の根的に、大衆が盛り上げたものだった。それに誰もが驚いたのだ」

推計では、1957年にイギリスへ25万本ものギターが輸入されている。1950年でのこの数字は6,000ほどだった。シンガーのアダム・フェイスは後にこう回想している。

「スキッフルはあっと言う間に広がった。まるで地下室のキノコみたいにね」

 

スタジオを楽器として利用した『Pet Sounds』

スキッフルが衰退し始めてビートルズとローリング・ストーンズが世界を席巻すると、スタジオが創造的な空間として使われるようになり、ほとんどそれ自体が楽器のような存在になったのだ。ミュージシャンとエンジニアは、それまでにない方法でスタジオ内のサウンドを操るようになった。進歩した電子回路やマルチ・トラックのテープ・レコーダーを使った、ユニークなレコードが生まれ始めた。

ひとつの画期的作品がビーチ・ボーイズの1966年作『Pet Sounds』だった。キャピトル・レコードがイギリスで同作をリリースした際、同社は「史上最もプログレッシヴなポップ・アルバム」と宣伝を打った。ソングライターのブライアン・ウィルソンはオーヴァーダビングやステレオの効果を用いて、「Good Vibrations」など幾重にも重なった名曲を生み出した。

ウィルソンは技術を想像力豊かに使い、その力量は眩惑的なほど多彩なパーカッション遣いにも表れている。ウィルソンはそこまでロックンロールに縁のなかった楽器を使っている。彼は自転車のベルやハワイの弦楽器、テルミン、鉄琴などを、ブルースのパイオニアたちにも好まれ得たであろうバンジョーやカズーと融合させている。

ラテン要素を取り入れた表題曲でウィルソンは、ドラマーのリッチー・フロストを説得し、2本の空のコカ・コーラ缶を叩かせ独特のビートを生み出した。他の曲ではドラマーのハル・ブレインがオレンジ飲料のプラスチック・ボトルをテープで付け、マレットで叩いた。アルバムにはウィルソンの飼い犬、バナナとルーイの鳴き声も使われている。同作は独創性に満ちた実験的DIYアルバムの最高傑作といえる。

ポール・マッカートニー曰く、『Pet Sounds』はビートルズによる1967年の名作『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』の制作にあたっての「唯一かつ最大の影響源」だったという。『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』はアビー・ロード・スタジオでの129日の苦心の末完成した。同作にはサウンド、作曲、テクノロジーの使用、ジャケット写真のどこを取っても独特な冒険性がある。実験的なスタジオ・ワークのこうした好例が、ポピュラー音楽の様相を変えた。レコーディング・スタジオは創造による革新の中心となった。プロデューサーのジョージ・マーティンは、マッカートニーとジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターによる音楽のキーマンであり、”5人目のビートルズ”と呼ばれた。

1960年代にはテクノロジーの力でミュージシャンたちが創造の限界を超えるようになる。ジーン・アイケルバーガー・アイヴィーは1967年、ピーボディ・エレクトロニック・ミュージック・スタジオを設立。ピンボール・マシンの音から作り上げられた音楽「ピンボール」を発表した。安くて小さいカセット・テープが音楽の制作や売上に強い影響を与え始めたのもこの頃だった。オランダのメーカー、フィリップスが1964年に電池式の軽量カセット・プレイヤーを発売したことが大きな一歩となった。

空のテープの価格が下がると、ミュージシャンは自分たちで簡単にレコーディングができるようになった。デジタル化前の時代だったが、ファンにとってもカセットを郵送することで音楽を楽にシェアすることが可能になった。ヒップホップの先駆者、グランドマスター・フラッシュは裕福なファン向けに特製の”パーティ・テープ”を売っていた。パンク・バンドも自分たちのDIY音楽をカセットに収録し、今なお残る通信販売の方法で販売していた。

 

HIP HOPとパンクの登場

1970年代、ニューヨークのサウス・ブロンクスに住むアフリカ系アメリカ人やプエルトリコ人がヒップホップを生み出した。ヒップホップには、創造性の表現のため可能なあらゆる手段を取るミュージシャンたちの昔からのやり方やDIY音楽の本質が表れている。ゲットー・ブラザーズはプエルトリコ人のギャングで、音楽グループとしても活動した。彼らはアンプやPAスピーカーを163番街やプロスペクト・アヴェニューの街灯柱に埋め込み、自分たちの音楽の力を示した。

初期のジャグ・バンドたちのように、ヒップホップの先駆者たちは自らこしらえた技術で音楽制作の新たな手法を確立した。ジャマイカ出身のDJ、クール・ハーク(本名:クライヴ・キャンベル)は1973年、地域のパーティで初めてDJを務めた。彼はふたつのターンテーブルを使ったプレイの草分けとして名高い。さらに彼は古い音楽のリズム・パートと、ポピュラーなダンス・ナンバーを融合させ、流れるように音楽をつなぎ合わせた。そうした臨機応変で地域に密着した試みが、最終的にはポピュラー音楽界で最も成功し高い収益を上げたジャンルであるラップ産業の誕生へとつながっていく。

ヒップホップが生まれたのと同時期に、パンク・ロックも世界を席巻した。何千もの地元のバンドが生まれたり、演奏するのは技術の乏しい若者だったりと多くの面でパンクもDIY音楽を象徴していた。パンクのファン雑誌サイドバーンズには3つのコードの図が乗っていて「これがひとつめのコード。これがふたつめ。これがみっつめ。さあ、バンドを組もう」と書いてあったのは有名だ。

社会を変えただけではなく、パンクは音楽界に重要な遺産を残した。音楽業界のメインストリームをリードしたいというパンク・ミュージシャンたちの想いから、小さな独立系レーベルが多く生まれたのだ。ラモーンズやセックス・ピストルズ、クラッシュやダムドが結成された頃、バズコックスも誕生した。彼らの『Spiral Scratch EP』はイギリスで最初の自家製レコードと言われている。

バズコックスは家族や友人から500ポンドを借り、EPを自主制作した。1976年12月28日、彼らはマンチェスターのスタジオで4曲をレコーディングした。ギタリストのスティーヴ・ディグルはこう回想する。

「当時はレコード契約ができるなんて思っていなかった。だから自分たちで作ろうと思い立ったんだ。今では当たり前のことだけど、スタジオに電話してレコードを作ってもらうのはすばらしい気分だった」

パンクのDIY精神は、ファンによるアマチュアの音楽誌が生まれる土台を築いた。ニューヨークを拠点としたファン雑誌、パンクに影響を受け、イギリスでスニッフィン・グルーができた。誌面は写真コピーのページでできており雑誌の質は低かったものの、スニッフィン・グルー・アンド・アザー・ロックンロール・ハビッツ(これが正式名称だった)はカルト的な人気を博し、1万5千部を売り上げるまでになった。

同誌を創刊した銀行員のマーク・ペリーは、1977年になると自身のパンク・バンド、オルタナティヴ・TVの活動に専念するため雑誌を廃刊した。それでも同誌の影響は残り続け、数百ものパンク雑誌が生まれた(ストラングラーズ専門のストラングルドもそのひとつ)。そうした雑誌には新しいジャンルであるパンクの批評や、メジャーの音楽誌とは違う視点が盛り込まれていた。

 

インディ・シーンの活況

1977年、27歳のダニエル・ミラーはDIYのパンク革命が無視していた「態度やエネルギー、そして危機感」を捉えたレコードを作ろうと考えた。映画学校の元学生だった彼は、ロンドンの楽器店でコルグ700のシンセサイザーを購入。そうしてノーマルというペンネームでシングル「Warm Leatherette」をレコーディングした。後にグレイス・ジョーンズがカヴァーした同曲をミラーは、ロンドンにある彼のアパートで一般的な4トラックのテープ・レコーダーを使って録音した。

ミラーは自身のレコード・レーベル、ミュート・レコードからシングルをリリースすることで流通にかかわる問題をクリアし、ロンドンのラドブローク・グローヴに新たにオープンしたラフ・トレード・レコード・ショップで同シングルを売り出した。同シングルは大きな人気を呼び、彼に憧れたバンドたちのDIY音楽のカセットがアパートに何百も届いた。レーベルも成功を収め、ミラーはイギリスのエレクトロニック音楽シーンにおける最重要人物のひとりになった。ミュート・レコードはその後、デペッシュ・モードやヤズー、イレイジャー、レネゲイド・サウンドウェイヴ、ゴールドフラップらに活躍の場を与えた。

何千もの若者が参加型の音楽を実践し始めた1980年代、ミラーはインディ・シーンの誕生を予見していた。小さなライヴ・ハウスやオルタナティヴ系のレコード店、小さな独立系レコード・レーベル(ミュート、ファクトリー、ラフ・トレードなど)といった存在が、影響力の強い支持者をもつサブカルチャーを生み出した。BBCのラジオ1のプレゼンターであったジョン・ピールは、後の大物バンドに最初のアピールの場を与えることも多かった。DIY音楽とイギリスのインディ・シーンについての本を書いたサム・ニーはこう綴っている。

「1981年から1988年は、イギリスのインディ・ギター・シーンの黄金期だった。1960年代のフォーク・ガレージ・ロックが1970年代後半のパンク・ロックと不揃いな融合を見せ、しばらくの間DIYカルチャーへと回帰した瞬間だ。パンクの終焉と言い換えてもいい」

 

様々な実験を試みたプリンス

才能溢れるミネアポリスのミュージシャン、プリンスは音楽を自分なりに表現しようというパンクの決断力を持ち合わせていた。ジャズ・ピアニストの息子に生まれた彼は、そのきらびやかなキャリアの中で、多くのアルバムのリリースを通じた実験的試みをした。

彼はインターネットを利用したアーティストの先駆けでもある。1998年作『Crystal Ball』の発表時には、当時未発達のインターネットでの注文と電話での予約を受け付けた。時代に先駆けたクラウド・ファンディングだったともいえるだろう。そして『Crystal Ball』の約10年後には、アルバム『Planet Earth』をイギリスの新聞紙に無料で付属させた。彼はこの方策について「レコード業界の投機的なビジネスを出し抜くダイレクト・マーケティング」であると語っている。

プリンスは1990年代に彼自身の名義だけで12ものアルバムを発表している(サイド・プロジェクトでもさらに多くの作品を制作)。その10年は音楽業界に新たなアンダーグラウンド革命が起きた時期だった。草の根の地元バンドが力をつけ、世界的スターになることもあった。その好例はパール・ジャムだ。彼らはシアトルのグランジ・シーンのバンドのひとつとして出発し、独立性を保ちながら6千万枚以上のレコードを売り上げたのだ。

 

90年代のローファイ革命

1990年代にはアンダーグラウンド・ミュージックやハウス・ミュージックが大ブームになった。そして中道的なリスナーたちが、かつてはインディ音楽のファンだけの守備範囲と思われていたジャンルに興味を示し始めるという全般的な流れも起こった。

“アングラな”音楽ファンに好まれていたソニック・ユースやピクシーズ、R.E.M.といったバンドが、突然ファン層を広げたのだ。似たような音楽性のベックやエリオット・スミスなどの新生もそこに加わった。

1990年代の音楽の一部は”ローファイ”と呼ばれる。これはウィリアム・バーガーというジャージー・シティのDJが広めた言葉だ。だがその伝統は、臨機応変に音楽を作るクリエイターが活躍した1950年代まで遡る。その一例がプロデューサーのルディ・ヴァン・ゲルダーだ。

ヴァン・ゲルダーはまだ検眼技師として働いて1950年代に、実家のリビングにスタジオを作った。抜け目なくマイクを配置したり、小さな部屋の隅々の音響効果を巧みに駆使したりして、彼はプレスティッジやブルー・ノートといったレコード会社のジャズの名盤をレコーディングした。その中には後の世代に影響を与えたサックスのズート・シムズやピアノのレニー・トリスターノの作品も含まれる。「私は月曜に目の検査をして、水曜にはマイルス・デイヴィスのレコーディングをしていた」とヴァン・ゲルダーは回想する。

文字通り自家製の音楽を作ろうという想いは、他の有名アーティストのキャリアにも見て取れる。ボブ・ディランとザ・バンド(『The Basement Tapes』『Music From Big Pink』)、ニック・ドレイク、ブルース・スプリングスティーン、フー・ファイターズ、ジェームズ・ブレイク、ジョーン・アーマトレイディング、ニール・ヤング、アイアン・アンド・ワインなどである。ニック・ドレイクの初期のいくつかの楽曲は、ハンプステッドの寝室兼居間に置いた一般的な4トラック・レコーダーで録音されている。

オーケー・レコードが移動式レコーディング・トラックでの”ロケーション・レコーディング”(分厚いディスクに録音することから問題も多かった)を開発してから半世紀後、ローリング・ストーンズは自分たちなりのその場でのレコーディング手法を編み出した。1972年作『Exile on Main St.(メイン・ストリートのならず者)』の一部はフランスの邸宅で、移動式スタジオ設備(最新の16トラックの技術を搭載したダフ製トラック)を使って録音された。移動式設備は、ミック・ジャガー率いるメンバーがいつものスタジオに朝から晩まで缶詰になることに飽きて導入されたものだった。

 

創造の自由とベック

ロサンゼルス出身のベックは独立したDIY音楽の伝統に根差したミュージシャンだ。彼の初期の楽曲の一部は、30ドルのラジオ・シャックのマイクと60ドルのギターを使い8トラックでレコーディングされている。1996年の彼の代表作『Odelay』は、マイク・シンプソンとジョン・キングから成るプロデューサー・コンビ、ダスト・ブラザーズのロサンゼルスにある自宅の小さな予備の寝室で作られた。

限られた空間で音楽のレコーディングやプロデュースができるようになったことで、創造の自由が大きく広がった。ベック曰く、3人はプロ・ツールスの初期のヴァージョンを使ったらしく、各曲のテイクのデータをコンパイルするのに30分もかかったようだ。「誰にも傍から見られることなく、誰にも期待されることなくレコードを作るのは最高だった。僕らは解放されたんだ」とシンプソンも語っている。

『Odelay』のリリース時、インターネットは最初期の段階にあった。ウェブを使っていたのは世界の人口の2パーセント以下だったが、その潜在的な力と広がりを見抜いているミュージシャンもいた。1997年、ネオ・プログレッシヴ・ロック・バンドのマリリオンは、Eメールを通じてファンにメッセージを送り、北アメリカ・ツアーの資金を募った。フリークスと自称するマリリオンのファンたちは39,000ポンドを集め、後のインターネットでのクラウドファンディングに通じるビジネス・モデルを示した。

 

広がる力の分散

音楽へのファンの資金拠出は21世紀の音楽業界の特徴となり、時を経てその意欲や想像力は高まってきている。カントリー音楽のシンガー、エリス・ポールは2010年のアルバム『The Day After Everything Changed』で段階的な募金制度を取り入れた。募金は15ドルの”大道芸人”レベルから、1万ドルの”ウディ・ガスリー”レベルまでが用意された。30年代に自身のアルバム『Dust Bowl Ballads』のレコーディング資金のため、広告放送に出演したことのあるガスリーは、意地悪な笑みを浮かべてこれを認めていることだろう。

インターネットもまた、音楽の流通や宣伝の在り方を変えた。2007年、レディオヘッドはアルバム『In Rainbows』をホームページでリリースして世界を驚かせた。その値段は高くも低くも、購入するファンに決めさせたのだ。

この20年で音楽業界の力の分散が広がった。MySpaceは現代のミュージシャンたちにとってのDIY音楽革命の一端を担っているといわれた。MySpaceは音楽プレイヤーであり、ブログ、写真ギャラリー、ビデオ・プレイヤー、販売窓口、コミュニティ・プラットフォームでもあり、ユーザーが同時にクリエイターでもある空間だった。

ルディ・ヴァン・ゲルダーも、先鋭的なノート・パソコンやスマートフォンの技術がレコーディングに使われる現在の状況は想像できなかっただろう。2018年の今、実際的に誰でも手のひらにレコーディング・スタジオを持てるようになった。そうしたデバイスによりミュージシャンたちは、どこにいてもプロ仕様のマルチ・トラック・レコーディングをすることができる。

配信のスピードも音楽の様相を変えた。ベッシー・スミスによる1929年の”ミュージック・ビデオ”についていえば、彼女がW・C・ハンディの「St Louis Blues」を歌う映像がスクリーンに映るまで6ヶ月もかかった。今ではミュージシャンがYouTubeやツイッター、フェイスブック、インスタグラムを通してパフォーマンスをその場で生配信することができる。

それにもかかわらず、現代のDIY音楽シーンにおけるファンの重要性は、19世紀の大道芸人にとってのそれと何ら変わらない。良いパフォーマンスをするのはアーティストだったとしても、それを広め支持するのはファンたちなのだ。

 

草の根のファン

リスナーとの関わり方は、間違いなく劇的に変化している。ビートルズのファン・クラブ会員には、毎年クリスマスになるとソノシートが届いた。今やミュージシャンは、バンドキャンプなどのオンライン企業やソーシャル・メディアのファン・コミュニティを通じて草の根のファンを増やすようになった。

10代のカナダ出身シンガー・ソング・ライター、ジョニー・オーランドはソーシャル・メディアのチャンネルに1,600万以上のフォロワーを擁する。彼は2018年5月にユニバーサル・ミュージック・グループとレコード契約を交わした。近年のレコード契約には、マーケティングや出版、ビデオ制作に加え、ソーシャル・メディアの支援やラジオのプロモーション、ツアーのサポート、世界規模での媒体とデジタル音源の流通などが含まれることが多い。

変わりゆく音楽業界の状況は、2018年のDIYミュージシャン・カンファレンスでのレクチャーのテーマにも表れている。それは、ネットワーク利用の重要性、デジタル・マーケティング、自宅でのレコーディング技術、ストリーミングのプレイリストへの入り方、といったものだった。

国際レコード産業連盟(IFPI)による2018年の調査によると、ストリーミングの収益は2017年に41,1%増加し、初めて最大の収益源となった。2017年の終わりには、世界で1億7千6百万人が有料のサブスクリプション・アカウントを持っていたという。Spotifyの人気プレイリストに入るかどうかは、今やミュージシャンの成功の鍵のひとつになっている。それはドレイクにとっても、ケンドリック・ラマーにとっても、デビューEPを出そうとする地元のフォーク・シンガーにとっても同じなのだ。

音楽業界がいくら急速に進化しようとも、(その道具が太古の化石から作られたフルートかスマートフォンのアプリかの違いはあれ)音楽を作ろうという想いはなくならない。だが道具をこねくり回すDIYミュージシャンの次世代の成功者は、マルチ・タスクのパフォーマーなのだろう。

Written By Martin Chilton



 

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