00年年代に活躍したUSのラッパー達:NASが嘆き、サウスが勃興し、チャートを独占した10年間
カンゴール・ハット、大型ラジカセ、シェルトウ(*訳注:貝殻のような爪先)のアディダスの時代から、ヒップホップは大きな発展を遂げた。21世紀が到来すると、それは疑う余地のないものとなった。ヒップホップはドル箱となり、メインストリーム・カルチャーは派手に頭を殴られた。ファッションもスラングもアートも、ヒップホップから直接的な影響を受けたのだ。
ヒップホップから多彩なサブジャンルやスタイルが生まれ、成功の基盤となった伝統的なサウンドからラップが脱皮すると、ラップにインスパイアされた世界の若者たちが、ヒップホップ的ライフスタイルを取り入れるようになった。キッズの夢は、もはやアスリートではなくなった――彼らはラッパーになりたがるようになったのだ。
光沢のあるスーツの流行が終わったように、ラップのゴールデン・エイジ(黄金時代)も過ぎ去ったかもしれない。それでも、新たな時代が始まろうとしていた。正式な名称はないものの、プロダクション・デュオのザ・ネプチューンズ(ファレル・ウィリアムスとチャド・ヒューゴ)が、非公式に2000年代カルチャーのプロデューサーとして鎮座していた時代だ。
2000年代は、NASがヒップホップは死んだと嘆いた時代でもある。そして、南部のアーティストが相次いでチャートの上位を独占していた時代でもある。全体としては、多様性が世を制した時代と言える。
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職人肌のMCよりも、商業的なラッパーがレコード契約を獲得していたため、2000年代はマテリアリズム(物質主義)がリリックに好んで使われた。例えば、BLINGという造語(リル・ウェインとB.G.によって世に知られるようになったが、スーパー・キャットの「Dolly My Baby」バッド・ボーイ・エクステンデッド・ミックスでジェシー・ウェストが作った言葉)は、オックスフォード英語辞典に掲載された。
また、この時代に明らかになったことがもうひとつある。ラッパーの肌の色が、以前ほど問題にならなくなったのだ。当時、アッシャー・ロス、ブラザー・アリ、エル・Pといったラッパーが、(様々なレベルで)受け入れられていた。しかし、誰もがお気に入りのホワイト・ボーイ、エミネムが道を切り開き、マック・ミラーやロジック、ジェレッド・エヴァンといったラッパーも思い通りの活動ができるようになった。さて、エミネムが得た見返りは? 彼は世界中で1億枚以上のアルバムを売り上げ、多くの人々から最高の現役ラッパーの1人と評されている。
エミネムの台頭
「音楽に没頭しろ、今この瞬間は/お前のものなんだ、手放すんじゃねえぞ」
エミネム「Lose Yourself」
物質主義のライム・スタイルと子ども騙しのリリックで飾り立てられた時代の最中、ワードプレイ(言葉遊び)を導入し、コメディのネタを説明し、正統派のヒップホップとポップが共存できる道を見つけるべく、立ち上がったMC。苦悩に満ちた魂と辞書のような頭脳を持ったマーシャル・マザーズことエミネムは、ラップするために生まれてきた。
下積み時代、様々なヒップホップ・クルーに出たり入ったりを繰り返していたデトロイト出身のエミネムは、早くからバトル・サーキットで本領を発揮していた――彼の有名なバトルは後に、映画『8マイル』に描かれている。
エミネムは、地元のラッパーでクラブ・プロモーターのプルーフと知り合うと、2人はクナイヴァ、スウィフティ・マクヴェイ、ミスター・ポーター、ビザール(初期メンバーのバグズは1999年に死亡)とD12を結成。エミネムが1996年にアンダーグラウンドでリリースしたデビュー・アルバム『Infinite』は話題にならなかったが、1998年に伝説的プロデューサー、ドクター・ドレーと出会ったことで、“期待の白人ラッパー”をめぐる全てが一変する。
ヒップホップ界では、インタースコープ・レコードを率いていたジミー・アイオヴィンが、家の中でエミネム初期のデモ『The Slim Shady EP』を見つけた子どもたちに促され、ドクター・ドレーに同デモを聴かせたと言い伝えられている。こうして、デモを一聴したドクター・ドレーはすぐさまエミネムのファンになった。
この時点から、エミネムのキャリアはずっと上り調子で、彼がリリースした『The Slim Shady LP』(1999年)、『The Marshal Mathers LP』(2000年)、『The Eminem Show』(2002年)の3枚は、2000年代に最も大きな成功を収めたアルバムの中に数えられた。
キャリアを通じて、多彩なサウンドを使い続けてきたエミネムだが、ドクター・ドレーのダークなシンセサイザーによるクライマックスで、リリックを沸点へと持って行く手法が特にファンから愛されていた。しかし、ドレーのプロダクションを除けば、F.B.T.(マーク・ベースとジェフ・ベース)の流麗なベースラインと激しいギター・リックに乗せて、エミネムは最も心地良くラップできるのだった。
エミネムは、現実とパロディの境界線を曖昧にすることが多いが、その中傷的な風刺や、辛辣な洞察には、多くの真実が含まれている。ラップはエミネムの私的な苦しみを取り除き、癒しを与えたが、彼はホモフォビア(同性愛嫌悪)や性差別について面白おかしくラップしていたため、厳しい視線が注がれるようになった。ピストルで人を殴って出廷したり、何度も名誉棄損で訴えられたりと、リアルなラップをすることでそれなりの結果も招いてきたが、彼は自身の苦悩を幾度も克服しながら、歴史を作っただけでなく、自身が歴史となった。史上最も売れたラッパーの1人に数えられるエミネムは、前代未聞のラップ旋風を巻き起こした……そして、エミネムが契約を結んだ50セントが、次なる大旋風を巻き起こす。
ハードコアなストリートから出てきた50セント
ハードコア・ヒップホップが世界中のファンを魅了しはじめると、クリプス、T.I.、M.O.P.といったラッパーは相当数のアルバムを売り、アンダーグラウンド・ヒップホップをメインストリームへと押し上げたが、このゲームを劇的に変えたのは、元ドラッグ・ディーラーの50セントだ。
50セントは自分流のルールを作ると、ミックステープ・シーンを1人で復興させた。その際、新たなラップの青写真を作り出し、多くのラッパーがそれを真似するようになった。他のラッパーのビートを使ってラップし、ニューヨークをレペゼンしながら自身の曲を作り出していた50セントは、ラップ界最強のワルとなった。
ニューヨークを多彩に描写しながら、シャ・マニー・XLのサウンドに加えて、ドクター・ドレーのプロダクション(ドレーの未発表の『Detox』プロジェクトのためのものだったとされる)も用いたアルバムは、銃声の効果音、耳に残るピアノ・アレンジメント、容赦ないTR-808のサウンドを交えながら、ストリートの巨匠の実態を描いた。楽しみながら歯に衣着せぬ発言をする50セントは、九死に一生を得た後(彼は銃弾を9発受けたが生き延びた)に、自身がスーパースターダムへと躍り出るのは、神の思し召しなのだと信じていた。
N.W.A.によって人気を博したギャングスタ・ラップ・サウンドを取り入れながら、50セントは暴動を巻き起こした。ハードコア・トリオのオニクスが1998年にリリースしたシングル「React」に客演したほか(RUN DMCのジャム・マスター・ジェイの肝入りのおかげだ)、自身のキャリアも堂々とスタートさせたカーティス・ジャクソンこと50セントは、9発の銃弾を浴びながらも一命をとりとめた後、ゲットーのスーパーヒーローのようになった。そして彼はそのラップで、当時最もホットなラッパーの1人とされていたジャ・ルールを攻撃し、そのキャリアを潰した。
2003年にはハードコアなストリートをテーマとしたメジャー・レーベル・デビュー作『Get Rich Or Die Tryin’』をリリース。同アルバムは、2003年末までに世界で1200万枚以上のセールスを上げ、ダイヤモンド・アルバム(1000万枚以上のセールス)に輝いた最後のラップ・アルバムとなった。この勢いを持続しながら、2005年にはセカンド・アルバム『The Massacre』をリリースすると、発売第1週で150万枚のセールスを記録。1991年にサウンドスキャンがセールス・データの記録を初めて以来、7番目に売れたアルバムとなった。
50セントは、ソロ・アーティストとして活動するだけでなく、Gユニットというグループも率いていた。同グループはロイド・バンクス、トニー・イエイヨーを擁し、ヤング・バックとザ・ゲームも後に加わった。デビュー・アルバム『Beg For Mercy』は世界で300万枚以上のセールスを記録し、才能豊かなロイド・バンクスがソロ・デビューする下地を作った。
ロイド・バンクスはジャスト・ミックステープ・アウォーズで、2004年度最優秀ミックステープ・アーティスト賞を獲得。デビュー・アルバム『Hunger For More』はダブル・プラチナム(200万枚)となり、極めてエキサイティングなニューヨーク・ラッパーという地位を確固たるものとした。次いでヤング・バックも『Straight Outta Cashville』でプラチナ・ディスク(100万枚)に輝き、トニー・イエイヨーも刑務所から出所した後、『Thoughts Of A Predicate Felon』をリリースし、ゴールド・ディスク(50万枚)を記録した。
00年代のウエスト・コースト
「2001年、俺は昏睡状態から目を覚ました/ドレーが『2001』をドロップしたのと同じ頃だ」
ザ・ゲーム「Dreams」
90年代、ウェスト・コーストのラップは豊富に存在したが、2000年になると、希少な存在となったようだった。存在はしているが、真剣に探さなければ見つからなかった。しかし、2004年の『R&G (Rhythm & Gangsta): The Masterpiece』など、信頼に足るアルバムをリリースし続けていたスヌープ・ドッグがGユニットの一員、ザ・ゲームにバトンを渡すと、この状況が一変する。
ドクター・ドレーが契約を結んだザ・ゲームは、ウェスト・コーストの新たなキングとなり、50セントのお膳立てにより一躍脚光を浴びた。デビュー・シングルからサード・シングルの「Westside Story」「How We Do」「Hate It Or Love It」は、どれも50セントをフィーチャーしている。そして、デビュー・アルバム『The Documentary』は成功を収め、500万枚以上を売り上げると、ウェスト・コーストの存在感を再びアピールした。
ザ・ゲームは後に、クリエイティヴな相違および個人的な相違を理由にアフターマス/Gユニットを脱退すると、50セントとGユニットのクルーをラップで攻撃した。50セントにデビューをサポートしてもらったザ・ゲームだが、G-Unotと称するキャンペーンを開始し、50セントを応援しないようファンに呼びかけた。
商業的にもヒットを記録したアルバムと、アンダーグラウンド・ミックステープの傑作をいくつかリリースしてきたザ・ゲームは現在、ウェスト・コースト・ラップのパイオニアの1人とされている――現在のウェスト・コースト・キング、ケンドリック・ラマーも、ザ・ゲームから大きな影響を受けたと語っているほどだ。
サウスの勃興
おそらく、地域的に最も大きなサクセス・ストーリーとなったのは南部だろう。サウスは全てを席巻した。ベース主導で、クラブに特化したドラム・パターンを持つサウスの支配が始まった。リル・ジョンが激しいタイプのクラブ・ミュージック、クランクを流行らせただけでなく(元祖クランク王はパスター・トロイだが、2001年のストリート・クラシック『Face Off』で聴かれるように、彼の無骨なアプローチでは、リル・ジョンのようにメインストリームで成功できなかった)、スカーフェイスも姿を現し、2002年に『The Fix』をリリースした。
デイヴィッド・バナーは、高い評価を得たアルバム『Mississippi: The Album』をリリースしただけでなく、プロデューサーとしてT.I.やリル・フリップといった前途有望なサウスのラッパーの多くに楽曲を提供した。そしてアウトキャストは、これまで通り本領を発揮し続けた――他の追従を許さない複雑なリリックに、見事なストーリーテリングを掛け合わせていたのだ。
ポール・ウォール、マイク・ジョーンズ、スリム・サグなどといった新たなタイプのサウス出身ラッパーは、2005年頃に大きな話題となったが、それよりも数年早く、‘カントリー(田舎)’をクールなものとし、全米チャートもしっかりと掌握したラッパーがいる。セントルイス出身のネリーだ。
パーティ・ラップと楽しむことを愛する彼は当初、珍しいタイプに思われた。しかし、2000年のデビュー・アルバム『Country Grammar』は900万枚近いセールスをあげ、2002年のセカンド・アルバム『Nellyville』も800万枚以上のセールスを記録し、Billboardが2000年代末に発表した2000年から2009年の10年チャートで、3番目に売れたアーティストとなった。
もう1人のサウスの大物といえば、ヒットを出す才覚に恵まれた元ラジオ・パーソナリティ、クリス・‘リュダクリス’・ブリッジスだ。高速ライムにセクシュアルな歌詞、ダイナミックな言葉遊びで知られる彼はいまや、音楽、映画、マーチャンダイズと、あらゆる分野で世界的スターとなっている。
驚異的な柔軟性を持つリュダクリスは、多様なビートを使ってサザン・ホスピタリティ(南部の温かいもてなし)について語り、サウスに対する画一的なイメージを一変させた。ベースが重厚なクランク・ビートが流行する中、リュダはそこにひねりを加えた。ザ・ネプチューンズ、ティンバランド、カニエ・ウェストの協力を仰ぐと、彼らがプロデュースしたハードなビートに乗せて、サウスの雰囲気のあるイースト・コースト・サウンドを作り出したのだ。
次々にヒットを連発した『Back for the First Time』(2000年)と『Release Party』(2006年)は、批評家からの評判も高く、後者は2007年、グラミー賞最優秀アルバム賞を獲得した。
今までになかったタイプのカニエ・ウェスト
「シカゴ出身のヤバいヤツが契約をモノにしたらどうなる?/1番ホットなラップ・レーベルと契約したら?/それでもコカインや女の話はしない/スポークン・ワード寄りの内容なんだ」
カニエ・ウェスト「Through The Wire」
DMX、メソッド・マン、レッドマン、LL・クール・Jといったラッパーはいずれも、質の高い作品をリリースし続けており、彼らの所属するデフ・ジャム・レコードの2000年代における重要性は、80年代と同等だった。
傘下のロッカフェラ・レコードでリリースされるジェイ・Zの全作品を監督するだけでなく、デフ・ジャムはブルックリン出身のジェイ・Zに同レーベルのプレジデント/CEOというポジションを与えた。こうしてジェイ・Zは、リアーナやNE-YOといったアーティストと契約を結んだが、ラッパーとしてのデビューを切望していたシカゴ出身の若手ビート・メイカー、カニエ・ウェストの獲得により、ジェイ・Zはヒップホップ界でも屈指のビジネスセンスを持つラッパーという地位を確立した。
現在のようなお騒がせ男となる遥か昔、ルイ・ヴィトン・ドンことカニエ・ウェストはジャズの要素を織り交ぜたソウルフルなビートを作り、示唆に富んだ歌詞をラップしながら、「バックパック」と呼ばれるコンシャスなラップ・コミュニティをレペゼンしていた。
カニエ・ウェストはバックパッカーという称号を誇り高く背負い、文字通りバックパックを背負ってパフォーマンスしていた。聡明な頭脳と政治的見解を持つコンシャスな(意識の高い)ラッパー。カニエがどこから影響を受けたのか、それは明らかにア・トライブ・コールド・クエスト、ブランド・ヌビアン、ジャングル・ブラザーズだった。
カニエは2004年2月にデビュー・アルバム『The College Dropout』をリリース。同アルバムは、他のコンシャス・ラッパーが陰の存在から表舞台へと飛び出す手助けをした。前作同様にソウルとジャズにインスパイアされたセカンド・アルバム『Late Registration』でも、カニエは引き続き高等教育をテーマとしただけでなく、そのピート・ロック的なプロダクションや、斬新なライム・スキームを使い、メインストリームでアンダーグラウンドの旗を振っていたのだった。
しかし、2007年に『Graduation』をリリースすると、カニエの状況が変わり始める。彼はクリエイティヴィティ(創造性)の限界に挑戦しはじめ、現在知られているカニエが誕生した。当初のジャズ、ソウルのサウンドからは徐々に距離を置き、彼は電子的なインストゥルメンテーションで実験を始めたーー例えばヒット曲「Stronger」は、フランスのエレクトロポップ・デュオ、ダフト・パンクをサンプルしている。こうして、彼はいかにもヒップホップ的なサウンドとは一味違うものをファンに提供しはじめたのだった。
カニエは常に革新的だ。『80s & Heartbreaks』は、オートチューンの世界的流行のきっかけとなった。そしてもちろん、彼には物議を醸し続けてきた――「ジョージ・ブッシュはブラック・ピープルのことなど気にかけちゃいない」という彼のコメントや、2009年MTVビデオ・ミュージック・アワードでテイラー・スウィフトのマイクを奪った事件は、大きなニュースとなった。「天才はちょっとした狂気を持ちあわせている」と言われているが、カニエ・ウェストはこの理論が正しいことを証明している。
ソウルフルで知的なコモン
バックパックというサブジャンルに関して、カニエが抜けた後を担っていたのは、タリブ・クウェリ、ルーペ・フィアスコ、スラム・ヴィレッジ(同グループのプロデューサーは、天才ビートメイカー、故J・ディラだ)等がいるが、コモンほどメインストリームで活躍したアーティストはいない。
当初はコモン・センスというMC名を使っていたシカゴ出身のロニー・ラシッド・リン・ジュニアは、ストリートの風景を語るラッパーとしてキャリアをスタート。ア・トライブ・コールド・クウェストとギャング・スターの間に位置するような、ストリートの預言者的ラッパーだった。1992年にデビューし、「I Used To Love H.E.R.」というヒップホップ・クラシックとされる名曲を既に擁していたコモンだが、ピュアなヒップホップを愛する世界のファンの間で彼の人気が特に高まったのは、2000年のアルバム『Like Water For Chocolate』だ。
ソウルフルで知的かつチャーミングなコモンのライムは、ギャングスタ・ラップの人気やヒップホップの物質主義と対極にあった。しかし、彼のラップが知的だからといって誤解してはいけない。彼は屈指のギャングスタ・ラッパーとラップ・バトルをするだけの力も持っていた。
例えば、アイス・キューブのウェストサイド・コネクションに向けた「The Bitch In Yoo」は、ヒップホップのディス・ソングの名曲として名高い。2004年にカニエ・ウェストが主宰するG.O.O.D.ミュージックと契約を結ぶと、彼は批評家からの絶賛を浴びた『Be』(2005年)をリリースした。
グループたちの活躍:ザ・ルーツとジュラシック5
ノーティ・バイ・ネイチャーのケイ・ジーは、2000年代にグループやクルーがほとんどいない理由について、TaleTela.comのインタヴューで問われると、こう答えている。
「皆が少しソロ指向になり、自己中心的になってるんじゃないかな……ヒップホップはクルーとしてスタートした。それが、途中で失われてしまったんだろう」
確かに、ア・トライブ・コールド・クウェストのQティップがグループから離れ、ポップ・クロスオーヴァー・アルバム『Amplified』をリリースしたことは、ケイ・ジーの見解が正しいことを証明したが、ケイ・ジーの発言に当てはまらないグループも2つ存在した。ザ・ルーツとジュラシック5だ。正当なヒップホップの多様なクリエイティヴィティのスピリットを保ちながら、両グループともにジャズとソウルの要素を盛り込み、物質主義ではなく、人生、愛、社会問題をラップしている。
ジュラシック5はアンダーグラウンド・ファンの間でヒットし、2000年のアルバム『Quality Control』からのタイトル・トラックは中ヒットとなった。どうやら、商業的なマーケットが提供する作品に興味を示さないヒップホップ純粋主義者たちが、J5のターンテーブル2つとマイクというアプローチにごく自然に馴染んだようだった。
一方、生演奏を持ち味とするフィラデルフィアのクルー、ザ・ルーツは、オーヴァーグラウンドで成功したアンダーグラウンド・ヒーローだ。これまでに10枚のアルバムをリリースしてきた彼らだが、90年代は『Illadelph Halflife』(1996年)でメインストリームのラップに対立するパイオニアとして活躍し、その後は流行に迎合せずにメインストリームで成功するグループとして、3つのグラミー賞(うち1つは、エリカ・バドゥとイヴをフィーチャーした「You Got Me」)を獲得すると、2008年の『Rising Down』をふくめ、ヒップホップの方向性を決定づけたアルバムを多数リリースした。また、彼らは大人気のトーク番組『レイト・ナイト・ウィズ・ジミー・ファロン』のハウスバンドとして、同番組にレギュラー出演している。
ヒップホップは死んだ言ったNAS
2000年代、ハードコア・ラップはウータン・クランのレイクォンとゴーストフェイス・キラーによって人々から注目され続けてきた。常に高い評価を得てきた2人だが、特に後者が2006年にリリースしたアルバム『Fishscale』は、ポップに支配された時代の中で、ハードコア・ラップのファンにとってのハイライトとなった。
NASがデフ・ジャムへと移籍し、2006年のアルバム『Hip Hop Is Dead』でヒップホップは死んだと発言した時も、昔ながらのラップを愛するファンたちは、ヒップホップはまだ生きている、探さなければいけないだけだ、と考えていた。NASはその後、物議を醸した2008年の『Nigga』(その後、タイトルは『Untitled』に変更)をリリース。今日に至るまで、リリシズム、社会的な解説、ストリートの物語に溢れた「リアルな」ヒップホップを作り続けている。
売れ続けたリル・ウェイン
「これはただのウィニング・ラン、俺は軽く走ってるだけ/息すら切らしちゃいない/クソ最高のラッパーなんだ/罵り言葉使ってワリいな」
リル・ウェイン「Best Rapper Alive」
インターネット上での違法行為のあおりを受け、フィジカルのレコード・セールスが急激に落ち込む中、何をやっても大成功するラッパーたちがいた。2000年代後半、サウスは再び盛り上がりを見せ、そのリリカルなスキルで注目を浴びたのだった。ヤング・ジージーがリリースしたアルバム『Let’s Get It: Thug Motivation 101』と『The Recession』はどちらも期待が高く、内容も好評を博した。
そして、『Port of Miami』と『Deeper Than Rap』が立派なセールスを記録し、高い評価を得たリック・ロスは、何百万枚ものレコードを売らなくても成功できるという新たな例を示した。
しかし、セールス下降というトレンドに逆らい、大成功を収めたラッパーは、リル・ウェインだ。
1999年にプラチナ・アルバム(100万枚)となった『Tha Block Is Hot』を17歳でリリースしたリル・ウェインは、一夜にしてスタートなった。キャッシュ・マネー・レコードとノー・リミット・レコードがニューオーリンズのバウンス・ラップをヒップホップの最前線に送り込んでいた時代、リル・ウェインはザ・ホット・ボーイズの一員として、チャートの常連となっていた。
初期の作品でなかなかの評判を博していた彼だが、ヒップホップ界屈指の名声を誇る人物となったのは『Carter』シリーズのおかげだ。『Carter』シリーズの1作目と2作目(『Tha Carter』『Tha Carter II』)は、疑う余地のない彼の才能をリスナーに示したが、彼のリリックはどんどんシャープになり、ウィットに富んできた。これについて、ニューヨークのハーレムをはじめとするサウス以外の影響を受けたからだろうと指摘する者もいる。
こうして、ウェインは最も客演の多いラッパーとなった。2012年、彼は全米シングル・チャートに109曲を送り込むと、最多チャートインを果たした男性アーティストとして、エルヴィス・プレスリーの記録を抜いた。そして、革新的なアルバム『Tha Carter III』を1週間で100万枚以上のセールスを記録。フィジカル・アルバムのセールスが落ち込む時代に、これは例を見ない数字だった。こうしてウェインは堂々と「best rapper alive(生きている中で最高のラッパー)」を自称する理由ができたのだ。
様々なスタイル、トレンド、人種の受け入れやインターネット上の著作権侵害など、2000年から2009年の10年、ヒップホップ・カルチャーは入り組んだ山を登っているかのようだった。しかし、それでも楽しい旅路には違いない。
音楽的には、ギャングスタ・ラップ、クランク、パーティ・ラップがチャートを独占したが、リリシズムもしぶとく巻き返し、ドープなビートだけでは満足できないファンを喜ばせた。この10年の間に、極めて刺激的で耳に快感を与えるアルバムがいくつかリリースされ、厳しい時代とはいえ、その品質は圧倒的だった。
多くのアーティストが抱えた商業的なパラドックスは、実際のところヒップホップ・カルチャーを助けた。新たなオーディエンスを獲得することで、セールスが向上したのだ。2012年、15年ぶりに音楽業界は利益を伸ばした。ヒップホップは素晴らしい状況にある。あとはリスナーが目と耳を開き、自分が求めているヒップホップを探すだけの話だ。
Written By Will “ill Will” Lavin
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