ザ・ビートルズのメンター&プロデューサー、サー・ジョージ・マーティンの20の言葉

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ザ・ビートルズの神々しいレコード・カタログのほぼ全てをプロデュースし、熟練した作曲家、アレンジャー、ミュージシャンとして数え切れないほどの業績を誇るサー・ジョージ・マーティンが、2017年のBRITアワードにて追悼された。ジョージ・マーティンは2月22日にロンドンのO2で開催された同アワードのトリビュートで、この一年の間に我々が失った音楽界の主要人物であるプリンスやレナード・コーエン等と共に追悼されたのだ。我々は現代音楽界を代表する真の創造者のひとりに対して、このスペシャル・エディション、つまりは20の発言を引用し、敬意を表したいと思う。

2016年3月に死去したサー・ジョージ・マーティンに対し、uDiscoverのライター、ポール・セクストンが調べた過去のインタビューから、抜粋したコメントをご紹介しよう。1998年にロンドンのAIRスタジオで行われた会談の記述を編集したものが、ジョージ・マーティン最後のアルバム・プロジェクトで様々なアーティストが参加したコンピ―レーション・アルバム『In My Life』がリリースされる頃、Billboard誌に掲載された。

この前年、彼は、レコーディング史上売上世界1のシングルとして承認され、ジョージ・マーティンの30枚目のUKナンバー・ワン・シングルとなったエルトン・ジョンの「Candle In The Wind 1997」をプロデュースしている。悲しいことに、ジョージ・マーティンは90歳の誕生日2か月後の2016年3月に死去した。以下の過去のインタビューからの引用文が、このポップ・ミュージック界を代表する卓越したキャリアを理解する上で役立てば幸いである。

1. 「私の両親は音楽好きではなかったのですが、非常にクリエイティヴな人達でした。姉は3歳半年上で、ピアノ・レッスンを受けていました。4歳か5歳の頃、彼女がやっていることを真似していて、自分もピアノ・レッスンを受けたいと思っていました。しかし我が家にはその余裕がなかったので、私は自分で音楽を作るようになっていったのです」

2. 「自分の好きなようにやっていく中で、ピアノで音楽を作れることが分かり、15歳になった頃には自分でダンス・バンドを手掛けていました。戦争が続いていたので軍隊へ入隊したのですが、音楽は続けていました。音楽にちゃんと取り組んだらどうだと、アドバイスしてくれる興味深い人達や素晴らしい音楽好きの人達に数多く出会いました」

3. 「シドニー・ハリスンという名の親切な男性がいました。素晴らしいピアニストであり教育者の彼が、音楽に取り組むことをとても強く勧めてくれ、ギルドホール音楽演劇学校の校長との面接を手配してくれたりと、私に手を差し伸べてくれました」

4. 「若い頃は、自信に溢れているだけでなく、ひどく傲慢だったりするものです。私は利己的であり、自分のことを素晴らしいと思っていました。自分がどれほど無力なのか、気づいていなかったのです」

5. 「国内にはレコード・プロデューサーが10人ほどいました。しかし彼等はレコード・プロデューサーではなく、‘アーティスト・アンド・レパートリー・マネージャー’と呼ばれていました。彼等はスタジオで作業を行なうのではなく、その仕事は現在のA&Rの人達に似ていて、優れた人材を発掘し、彼等をスタジオに連れて行き、レコーディングの機会を与え、それを番組で放送するというものでした」

6. 「1955年頃にはパーロフォンというレーベルを手掛けていて、そのレーベルの責任者として、アーティストを選ぶことだけではなく、彼等のやることを考え、売れるレコードを作るよう注意を払わなければなりませんでした」

7. 「50年代、ステレオ録音は古典的なレコーディングのみが行われていました。オーヴァーダビングや編集は一切やっていませんでした。1950年に初めてアビイ・ロード・スタジオに足を運んだ時、我々はテープは使用せず、直接レコードに録音していました。その方がクオリティが遥かに良かったのです」

8. 「映画のための音楽を15本書いています。最初の経験は悪夢でした。映画の為に書く技術を持ち合わせていませんでしたから、どうにか切り抜けたという感じでした。しかし覚えは早く、やがて必要なことを上手く成し遂げられるようになったのです」

9. 「インストゥルメンタル・ナンバーがヒットしていた頃、ロン・グッドウィンと手掛けた‘Skiffling Strings’という曲がヒットしました。アメリカでは‘Swinging Sweethearts’としてリリースされ、チャート入りしました。それでロンはプロモーション活動をすることになり、私も付いて行ったのです。色々なスタジオを回り、もちろんキャピトルへも足を運び、フランク・シナトラのセッションにも行きました。そして、非常に感銘を受けたのです。彼等は我々よりも遥かに優れていました」

10. 「ザ・ビートルズに初めて会ったのは36歳の時で、彼等にとって私は年寄りでした。しかしその認識は変わりました。彼等は私より平均16歳年下でしたから、父親というより兄貴といった感じだったのです」

11. 「ザ・ビートルズが登場した頃、ロックン・ロール・ミュージックは(UKには)あまり存在していませんでした。その代表格はトミー・スティールと、それからクリフ・リチャードでした。従って評価の基準がありませんでした。私はコメディ作品を色々と制作していたので、それが強みになりました。なぜなら、ザ・ビートルズは‘グーン・ショー’の大ファンで、ピーター・セラ―ズの作品が大好きで、私がそれ等を制作したことを知っていたからです」

12. 「私が彼等を知ったのはアダム(・シャープ)を通してではありません。まるで興味がありませんでした。ですから私達の初対面は、ちょっと一方的なものでした。しかし彼等は私の好きなバカバカしいユーモアのセンスを持っていたので、彼等と一緒にいたいと思ったのです。ユーモアのセンスを持っていなければ、人生は生きる価値がありませんから」

13. 「ロックン・ロールの先例がありませんでしたから、ザ・ビートルズが登場した瞬間、全てが根底からひっくり返され大変革が起きたのです。これは私の予知していなかったことでした」

14. 「初期のレコーディング頃は、ヒット・シングルが欲しかったのですが、彼等が持っていなかったのは分かっていました。しかし‘Please Please Me’が出来た時、流れが変わったのです」

15. 「そしてついにアメリカが1964年に‘I Want To Hold Your Hand(邦題:抱きしめたい)’で堰を切り、それ以来物凄い騒ぎになりました。しかしご存じのように、彼等は年中ツアーをしていたので、私は彼等とはそれほど長い時間一緒にはいなかったのです。私に与えられたレコーディング時間は非常に僅かだったのです」

16. 「彼等は花開き、魅力的になりました、そして、そのアイディアに私は舌を巻いたものです。彼等が持ってきた曲ひとつひとつが逸品で、私は‘長続きするわけがない’と心の中で思いながら、彼等に‘これは素晴らしい。さあもっと良いものを聴かせてくれ’と言うと、また持ってきてくれるわけです。彼等が持ってきてくれるものに、私はゾクゾクしたものです」

17. 「気に入っているザ・ビートルズのアルバムはかなりの数あります。『Revolver』はとても好きですし、『Rubber Soul』もとても好きです。しかし『Abbey Road』にはとても親しみを感じています。恐らくはこれがみんなで作った最後のアルバムであり、みんな何となくそのことを感じていたからでしょう」

18. 「エルトンが‘Candle In The Wind 1997’の仕事で声を掛けてくれて非常に光栄に思っています。あれが私にとって、最後のナンバー・ワンになりましたし、恐らくは最後のシングルになるでしょう。最後を飾るにはなかなか良い作品です」

19. 「年を取ることの不思議なところは、自分では基本的に変わったという実感がないという点です。朝起きて鏡の中を覗くたびに、自分の父親が映っている。それで‘パパ、おはよう’と言いながらヒゲを剃り始めるのです」

20. 「私は本当に恵まれた人生を歩んでこれました。これだけのアーティスト達とレコーディングが出来て、私ほど幸運な人はなかなかいないでしょう」


サー・ジョージ・マーティンとの革新的なレコーディング含む、グループの全スタジオ作品集「ザ・ビートルズ・ボックス・セット」のプレイリストはこちら


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