フレディ・マーキュリーは人生で最良の時をドイツのミュンヘンで過ごした。そこは、長年愛されている彼のソロ・アルバム『Mr. Bad Guy』をレコーディングした場所であり、クイーン によるライヴ・エイドでの圧巻のパフォーマンスの数ヶ月後にフレディ39歳の誕生日を盛大に祝った場所であり、友人たちと卓球で遊んだり、ドイツの祝祭やビア・ガーデンを満喫しつつ、リラッックスできた場所でもあった。
フレディ・マーキュリーが初めてミュンヘンに行ったのは70年代後半のことで、80年代にはミュンヘンへ拠点を移して数年そこで暮らした。1979年からフレディが亡くなるまで彼のパーソナル・アシスタントを務めたフィービーことピーター・フリーストーンにとって、バイエルン州の州都ミュンヘンでフレディと過ごした時間は大切な思い出だという。
「フレディ・マーキュリーが当時のロンドンでは得られなかった自由なシーンがミュンヘンにはあったのだと思います」。イングランド南東部サリー出身のピーター・フリーストーンは、彼が現在暮らすチェコ共和国の自宅でuDiscoverのインタビューに応えてくれた。
「フレディはミュンヘンでなら何でもできると感じていました。そこでは彼の周りに親しい友人たちがいて、人目をそこまで気にせずにどこにでも行けて、なんでも好きなことができたんです。彼がミュンヘンに長く住んでいたもう一つの理由に、彼のロンドンの自宅“ガーデンロッジ”が改修中だったこともあります。1980年にその家を購入して、その後5年かけて彼の理想のかたちへと完成させていました。イングランドを離れることで、その家のことを気にし過ぎずに済んだのです。修復の進行状況は随時報告されていて、彼はそれで満足していました」
ドイツに暮らし始めると、フレディ・マーキュリーはすぐにミュンヘン流のフレンドリーな人付き合いを身に付けた。音楽エンジニアのレイノルド・マックと共に、時々ビア・ガーデンに出掛けていた彼が、とりわけ楽しみにしていたのは、毎年ミュンヘンで行われる“謝肉祭”だった。
「その祭りの期間中、フレディはだいたい木曜日の夜からパーティを始めて、翌週火曜日の朝にようやくベッドについていましたから、とにかく満喫していました」と64歳になったピーター・フリーストーンは語った。
「謝肉祭は、一般的にはコスチュームを着て外へ繰り出す日なんですが、フレディの場合、いつもの皮ズボンなどを着るだけで、立派にコスチュームのように見えていました。ミュンヘンの人々も、そのお祭りの週末はずっと寝ないで騒ぎ通すんです。フレディはそのお祭りの締め括りに、人でごった返す旧市街の市場へ行っていました。そこで人々は夜通し遊び明かした後に食べる美味しい屋台飯を満喫していたんです」
Photo: Queen Productions Ltd
普段からだいたい2、3時間ほどの睡眠しかとらないフレディだったが、地元のグルメにはほとんど関心がなかった。「彼は食べること自体はあまり好きではありませんでした」とピーター・フリーストーンが明かす。
「食べるために生きるというよりは、生きるために食べるといったタイプの人間なんです。彼は皿に乗った食べ物を前に、それを細かく刻んでは、配置を変えて、さも沢山食べたかのようにみせかけるのが得意でした。バイエルン料理には豚肉とローストダックをふんだんに使われていて、それらをミックスした料理は彼にはヘヴィだったみたいです。そして肉だんご(dumplings)は彼にとって食べ物というよりはラグビー・ボールでした。‘こんな羊脂の大きな塊’のようなものは絶対食べられないって彼は言うでしょうね。彼は肉だんごを拒絶していましたね」
またピーター・フリーストーンは、フレディは簡単な挨拶以外は、ほとんどドイツ語を話せなかったと証言する。フレディ自身も過去のインタビューの中で、「僕は“ゴマすり”みたいな下品なドイツ語しか知らないよ」と語っていた。
「彼は2ヶ月間ギブスをしていた」
ピーター・フリーストーン曰く、フレディ・マーキュリーが外に出かける時は常に仲間たちと一緒だったという。1984年のある晩、いつものようにミュンヘンの夜に繰り出した彼は、ある災難に巻き込まれていたことを彼は回想する。
「その夜、彼はバーにいて、たまにやっていたことですが、その場にいた誰かを“お姫様だっこ”しようとしていたんです。彼は背が高かったわけでも、鍛えていたわけでもなかったのですが、彼のことをひ弱だと思っている人々に、実はそうじゃないというのを見せつけるためにそんなことをしていました。僕たちもそのバーにいたのですが、彼がその誰かを地面から持ち上げようとした瞬間、別の誰かがフレディにぶつかってきて、一気に体重がかかってしまい、彼の膝がねじれてしまったんです。結果、膝の靭帯を切って、足首からももにかけてギブスをしなければなりませんでした」
プロディーサーのレイノルド・マックは、当時のフレディがそのギブスに悩まされていたことを明かしている。フレディは、彼の膝の横から誰かに蹴飛ばされたというその“馬鹿げた”事故について、レイノルド・マックにも愚痴っていたそうだ。
「彼はおよそ2ヶ月間、そのギブスを付けなければならなくて、仕舞いには足が痒くなってきたので、僕の妻から編み針を借りて、ギブスの中を掻いていました」
「エルトンとフレディは気の合う友達だった」
それでも当時のフレディ・マーキュリーは、車の後部座席によく座っていたので、松葉杖を使わずに済んでいたと、ピーター・フリーストーンは振り返る。1984年のある晩、怪我を負ったフレディとピーター・フリーストーンは、ミュンヘンのオリンピアハレで行われたエルトン・ジョン のコンサートを観に行った。
「エルトンとフレディは気の合う友達だったのですが、彼らのツアー・スケジュールが合わなかったため、あまり一緒に時間を過ごすことはできませんでした。それでもエルトンがライヴでミュンヘンを訪れていた当時、フレディはソロ・アルバム“Mr. Bad Guy”のレコーディング中でしたが、ステージの傍の席を確保してもらい、スケジュールを調整してコンサートを観に行きました」
エルトン・ジョンはフレディのことを身内でのあだなとして“メリーナ”と名付け、フレディはそのお返しにエルトンのことを“シャロン”と呼んでいた。そのミュンヘンでのライヴで起こった出来事を振り返りながらピーター・フリーストーンは談笑する。
「素晴らしい夜でした。エルトンがステージで、“この曲は可哀想な牛のメリーナに捧げます”といって‘I’m Still Standing’をエルギッシュに演奏し始めたんです。するとフレディは僕に一言こう囁きました。“あいつを殺してやる”ってね」
ピーター・フリーストーンは彼の友人を懐かしみながらこう続けた。
「フレディは非常にドライな、英国ならではのユーモア・センスをもっていました。それから、誰かが10秒ほどのオチのために5分間もだらだらと話をするのをじっと座って聞いているが大嫌いでした。そんな時はいつも何か面白いことをしてその場を盛り上げるんです。そして彼は笑うことが大好きでした。彼がよくインタビューなどで、上唇で歯を隠すようにしているのがわかると思います。彼は笑う時、手で口を隠すようにしていたのですが、自宅では歯のことを気にしなくてよかったので、のけ反り返って豪快に笑っていました。フレディ・マーキュリーと聞いて、僕が思い浮かべるのはフレディが自宅で笑っている姿です。僕はとても幸運でした」
「彼はとにかく負けず嫌いでした」
フレディ・マーキュリーはミュンヘンでの友人たちとスクラブル(単語を作成して得点を競うボードゲーム)などで遊ぶのが大好きで、ソロ・アルバム『Mr. Bad Guy』のレコーディング中も、ミュージックランド・スタジオには卓球台が置いてあった。
「スタジオには地下があって、奥の部屋のドアまで長い廊下が続いていたんです」とピーター・フリーストーンは回想する。「そこに卓球台があって、フレディは何度かそこでプレイしていましたが、卓球にしてもスクラブルにしても、彼はとにかく負けず嫌いでした。チェコ共和国式の卓球ゲームでは、8人が交互に入れ替わってボールを打ち、ミスした人が抜けて、最後の2人になるまで続けるんです。彼はその手の競技には絶対負けたくないタイプでした」。
楽屋でのピーター・フリーストーン Photo: Neal Preston © Queen Productions Ltd
彼らはミュンヘンというドイツ随一の歴史的都市に住んでいたが、フレディがその土地にまつわる戦争の歴史について思案を巡らすことはほとんどなかった。
「フレディは、普段から政治情勢や戦争といった類のことについて語ることを避けていました。政治と宗教は彼が避けていた2大トピックです。なぜなら彼は、これらのトピックが一人一人にとって非常にパーソナルなものであると堅く信じ、著名人たちが彼らの地位を利用して、人々にそういった影響を与えていることをよく思っていまなかったからです」
「シャンパンの噴水を見たのはその時が初めてでした」
フレディ・マーキュリーがミュンヘンに住んでいた1985年の9月5日に、ミュンヘンのキャバレー・バー“Old Mrs Henderson”で行った忘れがたいバースデー・パーティは、逸話として語り継がれている。友人たちには「黒と白のコスチュームで来てください」と書かれた招待状が届いた。女装やドラッグ、そして馬車など、とにかく常軌を逸した夜だった。
「僕もあの場にいたみたいだけどね」とピーター・フリーストーンは笑いながら語った。「全てが黒と白に埋め尽くされていて、招待状には異性の衣装を着て参加しなければならないとも書かれていた。フレディは男装で、ファッション・エイドの時の衣装を身に付けていましたが、彼なりのコスチュームではありました。あれは僕が過去に経験した中で一番ぶっ飛んだパーティのひとつでした。あれ以後、あんなパーティはなかったと思います」。
このパーティの模様は撮影され、その一部は1985年にフレディ・マーキュリーがリリースしたシングル「Living On My Own」のミュージック・ビデオの中で使われた。
「とにかくクレイジーなパーティでした。流れ出てくる酒の量がとてつもないんです。積み上げられたグラスに吹き出すシャンパンの噴水を実際に見たのはその時が初めてで、フレディのパーティでのシャンパンの噴水は5フィート(150cm)くらいでした。常時流れ続けていて、あの場にいた全員が酔っ払っていたと思います。39歳になったばかりのフレディは、“まだまだこれだけ若いのさ”と言わんばかりでした」とピーター・フリーストーンは語る。
だがこの度を越したパーティによって、本来のフレディの姿に反して、彼は“快楽主義者”という見出しで大きく報じれらてしまう。「本当の彼は、みなさんが思っているようなクレイジーなロック・スターからはかけ離れていて、アンティークやアートの収集家の一面もありました。彼が生涯愛を注いでいたもののひとつに、ロンドンにある彼の自宅“ガーデンロッジ”がありますが、彼は気に入ったアートやアンティークの家具を購入しては、その家に置いていました。美しいものを寵愛していたのです」とピーター・フリーストーンは明かす。
「ミュンヘンには沢山の気晴らしがありました」
ミュンヘンで過ごした時間がパーティ三昧だったわけではないが、友人たちと過ごす楽しい時間の誘惑が、少なからず彼の仕事の妨げになっていたとピーター・フリーストーンは当時を振り返る。
「ソロ・アルバム“Mr. Bad Guy”の制作にはおよそ2年を費やしましたが、僕が過去に経験した中で最も長いレコーディング・セッションのひとつです。フレディのスタジオ録音はだいたいいつも午後2時くらいからスタートしました。それよりも早い時間に彼をスタジオに呼んでも、朝はまだ声の準備できていなかったので無駄骨に終わってしまうんです。クイーンでのフレディは、早めにスタジオ入りして、ピアノで曲を作ったりもしていましたが、ミュンヘンでは友人が沢山いましたので、スタジオに行っても、午後4時くらいには友人の1人から電話で、“フレディかい、暇だからどこかへ連れて行ってよ”みたいな誘いがあり、結局仕事を中断して出掛けてしまうことになるんです。ミュンヘンには沢山の気晴らしがありました。クイーンの時は、4人ですから、仕事を終わらせなければという責任感もあったのですが、ミュンヘンでのフレディは、自分の時間が許す時にやればいいといったスタンスでした。それでも彼は完成したソロ・アルバムにとても満足していましたよ」
ピーター・フリーストーンは、ミュンヘンに住んでいた頃のフレディ・マーキュリーのお気に入りの場所は、都市の中心部に位置するシュトルベルク・プラザに彼が所有していた豪勢なアパートの一室だったと言う。彼はミュンヘンをそれほどまでに満喫していたのだ。
また彼は、フレディ・マーキュリーがレーダーホーゼン(肩紐付きの皮製の半ズボン)を着たことがあったかという質問に、「いや、フレディはあれを着ている人が結構多いことに笑っていましたが、自ら着ることはありませんでした。ただ、彼らの足を褒めていたかもしれませんが」と答えていた。
Written By Martin Chilton
フレディ・マーキュリーの全キャリアを網羅したボックス・セット
『ネヴァー・ボーリング – フレディ・マーキュリー・コレクション』
3SHM-CD+ブルーレイ+DVD
『 ネヴァー・ボーリング – ベスト・オブ・フレディ・マーキュリー』 CD
『MR. バッド・ガイ(スペシャル・エディション)』 CD
『バルセロナ (オーケストラ・ヴァージョン)』 CD
クイーン『Ballet For Life』
日本盤 2020年1月15日発売
Blu-ray / DVD
[収録内容]
●ドキュメンタリー(2017年/約58分)
●バレエ(1997年/約90分)
●メイキング・オブ(1997年/約23分)
※日本語字幕付き
クイーン『Bohemian Rhapsody (The Original Soundtrack)』
絶賛発売中
CD購入はこちら