ライオット・ガールズ:世界を変えた女性ミュージシャンたち
そう、元ビキニ・キルのフロントウーマン、キャスリーン・ハンナの発言を拝借するなら、この記事は「まーた、ロック界の女性ミュージシャンたちを取り上げた記事」である。確かに現在の私たちは幸いにも、いちいち“メンバー全員が女性のバンド”などと言わずに、単に“バンド”と言えばすむ時代へと進みつつあるが、それでも汗と涙と苦闘の末に私たちが今歩くことができる幾筋もの道を切り拓いてくれた人々に、この辺りで敬意を表しておくのは悪くない考えだろう。
2016年、全英で最も多くの売り上げを記録したアルバムは、2年連続で女性ソロ・アーティストだった(アデルの『25』が2015、2016年の2年連続で売り上げトップ)。しかもその女性ソロ・アーティスト、つまりは様々な音楽賞を総なめにしているアデルのことだが、彼女はアメリカのbillboard誌2016年の年間チャートでも1位に輝いている。同年の音楽業界における稼ぎ頭トップ5 のうち、実に4人までが女性だった。下から順に、リアーナ、マドンナ、アデル、そしてテイラー・スウィフトと、いずれ劣らぬ誇り高き‘モノ言う’フェミニストたちである
しかしながら常に堂々とフェミニストでいること、あるいは堂々と女性でいることは、ミュージシャンという仕事においては必ずしも容易ではない。それでも音楽業界には最初から、女性たちはそこにいて、少しずつ少しずつ、スペースを拡張し、業界の形勢を変えてきたのだった。彼女たち全員に感謝を捧げるにはいささか行数が足りないが、まずは始めてみるとしよう。
最初期音楽業界の女性達
ロック研究者のルーシー・オブライエンによる音楽界の女性アーティストたちの歴史を記した必読の書『She Bop』に書かれている通り、ブルースの人気を決定づけ、レコード・セールスにおいて成功を収めた最初期のパフォーマーたちの中にも女性たちは存在した。
アメリカの黒人たちという、当時としては前人未到の市場に向けて作られたトラックであるために白人向けのレコードと区別すために“Race Record / 人種レコード”と呼ばれた第一号は、1920年にオーケー・レコードからリリースされた女性ヴォーカルによる曲だった。その曲とはメイミー・スミスの 「Crazy Blues」である。
最初に大成功を収めた偉大な女性アーティストは、ブルースの母の異名を取るマ・レイニーで、ストレートで気取りのないスタイルを身上としていたものの、初期には20ドルの安物のゴールド・チェーンを身に着け、聴き手に向かって「男なんて信用しちゃダメ」というアドバイスを発し、過剰でグラマラスなロック的アプローチを試みたりもしていた。
彼女は夫と共にダブル・アクトとしてツアーに出るようになったが、やがて100曲を超えるソロ曲をレコーディングするに至り、そこで稼いだ金を元手に2つの劇場の経営に乗り出し、引退後も何不自由ない生活を送った。また彼女は、女性パフォーマーが男性以上に成功することのできた1920年代、ブルースを更なるメインストリームへと押し上げたベッシー・スミスを発掘した張本人でもあった。(*マ・レイニーはNETFLIXで伝記映画『マ・レイニーのブラックボトム』が公開中)
ベッシー・スミスの成功
ベッシー・スミスはレコード片面分のレコーディングで、多い時には200ドルを稼いだが、これは当時、平均的な成功を収めていた男性アーティストたちが同様の仕事で15ドル前後しか受け取れなかったことを考えれば、桁違いの数字だ。そもそも彼女の最初のレコードのタイトルからして「T’Ain’t Nobody’s Business If I Do」(私がやるからには誰にも口は出させない)となんとも居丈高である。彼女は他のアーティストたちが出した曲に対抗意識むき出しで‘切りつけ’ては、それより優れた自分のヴァージョンを殆ど間を置かずにリリースすることでよく知られており、その手法同様、クジャクの羽根や派手なドレスで着飾った衣装は傲然たるものだった。
「ベッシー・スミスは何度も結婚と離婚を繰り返したが、夫のうちの誰ひとりとして彼女に言うことを聞かせることも出来なければ、バイセクシュアルの彼女の火遊びを止めることも出来なかった」と、ルーシー・オブライエンは『She Bop』の中で明らかにしている。失った恋に打ちひしがれ、嘆きの歌を歌うブルース・ウーマンというステレオタイプなイメージとは対照的に、「Ain’t Much Good In The Best of Men Nowaday」(近頃は最高の男でも全然大したことないわね)や 「One Hour Mama」(一時間だけの女)といった曲名が並ぶところから見えてくるのは、当時の独立心旺盛な女たちの世界だ。彼女たちの活躍は歌だけに留まらなかった。
彼女のメンフィス・ミニーのギター・スタイルは、エレクトリック・ブルースの時代を踏襲したもので、1933年にはビッグ・ビル・ブルーンジーをギター・コンテストで破り、観客を大喜びさせたこともあったという 。
ビリー・ホリデイの悲惨な体験と奇妙な果実
ブルースがジャズへと突然変異を遂げた時も、最もオリジナルかつ最も称賛された声の持ち主はひとりの女性、ビリー・ホリデイだった。彼女は男たちのせいで数々の悲惨な体験を重ねた、10歳でレイプされ、13歳で娼婦として働かされながら、最初に得た仕事は売春宿の掃除で、そこにあったベッシー・スミスの78回転盤を憑りつかれたように聴いていたと言う。
ビリー・ホリデイは、自らの怒りや悲しみをポピュラー・ミュージック史屈指の強烈なナンバー「Strange Fruit(奇妙な果実)」に注ぎ込んだ。女性シンガーがこれほどまでに政治的な立場を鮮明にし、彼女自身の人生を荒んだものにした人種差別に対する憤りをあらわにしたのは初めてのことだった。
エラ・フィッツジェラルドと彼女を敬愛するビョーク
エラ・フィッツジェラルドも、禁忌を打ち破り、その多才な声を名演奏家の楽器の如く駆使してビ・バップ界に君臨したシンガーだ。彼女はニューヨークの伝統あるナイト・クラブ、ザ・コパカバーナでヘッドライナーを務めた最初の黒人アーティストで、晩年になっても意欲的な活動を続け、1989年のクインシー・ジョーンズのアルバム『Back On The Block』でも元気な声を聴かせていた。
同じく革新的な女性アーティストのビョークは子供の頃から彼女の大ファンだったと、ビョークは1994年、Q誌に次のように語っている。
「直接的にではないけど彼女の歌には影響を受けました。どちらかと言うと、メロディにはあまり忠実に従い過ぎない方がいいっていう考え方かな…… それより大事なのはムードとか、感情の部分で、歌詞なんか忘れても構わない。それでも歌は歌える。何だって、自分のやりたいようにやればいいですよって」
女性アーティストとして史上初の全米1位
この考え方をそのまま実践し、女性アーティストとして史上初の全米No.1シングルを記録したのが、ニュージャージー生まれで本名をコンチェッタ・フランコネロというイタリア系アメリカ人、コニー・フランシスである。それまで出していたシングルがどれも鳴かず飛ばずで、もう契約切れも目前だったコニー・フランシスは、薬学の道へと方向転換することを考え始めていた。
1957年、最後と決めて臨んだセッションで、彼女は1923年の楽曲 「Who’s Sorry Now?」をレコーディングする。これが全英チャート第1位を獲得し(全英チャートで初めて1位を獲得したのは、1952年のジョー・スタッフォード 「You Belong To Me」)、アメリカでも第4位まで上昇した。そして1960年、コニー・フランシスの歌う 「Everybody’s Somebody’s Fool(恋にはヨワイ)」が女性ソロ・アーティストとして初めて全米チャートのトップに上り詰めたのだ。
一般大衆の心とチャートでの成功、両方を掴むには、やはりコニー・フランシスのような品行方正なレディである必要があったものの、ポップとロックが徐々に別ジャンルとして多様性を深めていくにつれ、他の女性たちもサウンドとルックス両方で受け容れられる枠をどんどん押し広げていった。
自らバンドを率いたワンダ・ジャクソン
ロカビリーの女王、ワンダ・ジャクソンは、単なるエルヴィス・プレスリーのアクセサリーなどではなく、11歳の時から自分のラジオ番組を持ち、後には自らの率いるバンドでツアーもこなした。彼女は母親に仕立ててもらったお手製のステージ衣装で、カントリーにキラキラした魅惑的要素をもたらしたと自負しており、1969年の「My Big Iron Skillet」のような曲を通して、タチの悪いペテン師たちに恐怖心を刻み付けた。
There’s gonna be some changes made when you get in tonight
’Cause I’m gonna teach you wrong from right
あんたが今夜やって来た時には、これまでみたいには行かない
だってあたしがあんたに物事の善悪を叩き込んでやるんだから
60年代が約束した解放:ジャニス・ジョプリン
一方、60年代のロック全盛期に再びブルースの流れを呼び戻したのは、女性パフォーマーにできることの定義を更に拡大したジャニス・ジョプリンだ。マ・レイニーやベッシー・スミス等に刺激され、学校でフォークやブルースを歌い始めた彼女が、学校でいじめを受けるようになったのは、体重やニキビ痕のせいだけではなく、ブラック・ミュージックに対する入れあげようも原因だったとも言われている。
ジャニス・ジョプリンは60年代が約束した解放――そこから派生する様々な良いこと・悪いこともひっくるめて――を手に入れ、男と同じように自由に生きようとした最初のロック界のフロントウーマンのひとりだった。ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーと共に、1967年のモンタレー・ポップ・フェスティヴァルでブレイクした彼女だったが、そのスター性はすぐにグループの他のメンバーたちを凌駕し、ソロになる前からスタジオでの指揮権は彼女が掌握し、この世代の女性たちに何ものにも縛られない自由なスピリットというコンセプトを吹き込んだ。彼女はこう語っている。
「私を観てからは、母親からカシミアのセーターやガードルを当たり前のように与えられてた女の子たちが、ちょっと躊躇するようになったんじゃないかな。自分の好きなように振る舞って、しかも勝つことだって出来るんじゃないかって」
ジェファーソン・エアプレインのグレイス・スリック
もうひとり、ロックの限界に挑んでいたのがジェファーソン・エアプレインのグレイス・スリックだ。彼女は最初のバンドと夫を捨て、ヒッピー時代屈指の偉大なるフロントウーマンとなった。
女性としては並み外れた低音域を武器に、昔から最も男性的なロック楽器であるエレクトリック・ギターと張り合うことを目標に掲げていた彼女は、1967年に書いた「White Rabbit」でアシッド・ロックについて確固たる見解を表明している。
60年代で最も象徴的な存在のひとり:キャロル・キング
翻ってポップ・ミュージック界で、60年代の音楽シーンにおいて最も象徴的な存在のひとりとして挙げられるのはキャロル・キングだろう。生来の絶対音感の持ち主である彼女は4歳でピアノを習い始めた。ソングライティングのパートナー兼夫でもあったジェリー・ゴフィンと共に、彼女は「The Loco-Motion」や 「It Might As Well Rain Until September」「Will You Love Me Tomorrow」などこの時代を代表するポップ・ヒットやガールズ・グループの大ヒット曲を幾つも書きあげ、 20世紀末において最も成功した女性ソングライターとなった。1955年から1999年にかけて、キャロル・キングが書いた、あるいは共作した全米ヒットは実に118曲、全英ヒットは61曲にのぼる。
キャロル・キングが他人のために提供した、ザ・ドリフターズの「Up On The Roof」や、アレサ・フランクリンの比類なき名曲 「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」といったヒット曲にまつわる物語は、そこで終わりではない。70年代にはキャロル・キング自身のアーティストとしての キャリアが開花し、名盤『Tapestry(つづれおり)』は全米チャートにおいて15週間連続で第1位となり、現在も最も長い連続首位記録を保持しているのだ。このアルバムにはキャロル・キングとジェリー・ゴフィンが、最上級のヴォーカリスト、アレサ・フランクリンのために書いたドラマティックな「(You Make Me Feel Like A) Natural Woman」が収められている。
アレサ・フランクリン
アレサ・フランクリンは教会で培ったゴスペルのパワーをポップ・ミュージックの世界にそのまま持ち込み、洗練された強靭な声で人々の経緯と賞賛を欲しいままにした。
キャロル・キングが2015年にケネディ・センターでその功績を讃えられた際には、アレサ・フランクリンが「Natural Woman」のパフォーマンスを行い、最後には着ていた毛皮のコートを脱いでの熱唱が話題をさらっている。
ソニー・ボノからの抑圧を抜け出したシェール
バブルガム・ポップの世界からソロ・アーティストとして成功するという特異な道を辿ったのはシェールだ。フィル・スペクターが手掛けた「Be My Baby」 や 「You’ve Lost That Lovin’ Feelin’」といった多くのヒット曲でバッキング・ヴォーカルを務めた後、彼女は夫のソニー・ボノと共に、潤んだ目のヒッピー的なラヴ・アンセム「I Got You Babe」で頂点を極めた。
だがヒッピー・ポップのカップルという外見的イメージとは裏腹に、実際には何年もの間、支配的なソニー・ボノがシェールのキャリアを抑圧していたのだった。彼女の最初の全米チャートにおけるソロでのNo.1ヒットは1971年の「Gypsys, Tramps And Thieves(悲しきジプシー)」だったが、このプロダクションには言うまでもなく、ソニー・ボノからのインプットは一切排除されていた。
1974年、ソニー・ボノは‘和解し難い見解の相違’を理由に合法的な別居の申し立てを行なった。これに対してシェールは‘自らの意思に反する苦役・隷属の強制’を根拠として離婚訴訟を起こし、ソニー・ボノが彼女の稼いだ金を使わせなかったと主張した。
シェールはその後ロック、ポップ、ディスコ 、ダンスと幅広い音楽ジャンルに挑戦しているが、中でもハイライトに数えられるものと言えば、大砲にまたがったビデオで知られる1989年のパワー・バラード 「If I Could Turn Back Time」(ちなみにこのPVはシェールの過激な衣装のおかげでMTVをはじめとするチャンネルで放送禁止になった)と、1998年のオートチューンを使ったトランス・ヒット「Believe」で、後者は全英における女性アーティスト最大のヒット曲として記録されている。もっともここ最近では音楽活動のかたわら、彼女は思いがけずソーシャル・メディアで成功を収めており、ドナルド・トランプたちを大文字のツイートで釣り上げては笑いを取っている。
ロック・ベーシスト、スージー・クアトロ
ロックの世界で話を移そう。レザーで固めたロック姐さんと言えば、何と言ってもオリジナルに敬意を払わないわけにはいくまい。スージー・クアトロは性別の壁に挑み、初めてロック・ベーシストとして世界的な認知を勝ち取った女性である。男性ミュージシャンたちの中で堂々とバンド・メンバーのひとりとして自分をアピールしていた彼女は、巧みに世間の視線をダブル・スタンダードに向けさせた。
アメリカのレコード会社たちが彼女を次のジャニス・ジョプリンに仕立てようとするのに業を煮やしたスージー・クアトロは、プロデューサーのミッキー・モストの勧めで1971年に活動拠点を英国に移し、成功への道を模索した。彼女いわく「彼は私をイングランドに連れて行って、二代目ジャニスではなく、初代スージー・クアトロにしてくれるって」。
とは言え、いずれもミリオン・セラーとなったヒット曲「Can The Can」や「48 Crash」、「Devil Gate Drive」で聴ける通り、スージー・クアトロは単なる操り人形ではなく、この時代の頭をガンガン振るような“男臭い”グラムやハード・ロック・サウンドを獰猛かつ果敢に自分のものにし、真のオリジナルとして認められるようになったのだった。後に彼女は人気シットコム『Happy Days』にレザー・トゥスカデロというロック・ミュージシャン役で出演し、生まれ故郷のアメリカでも幅広く知られるようになった。
スージー・クアトロは、同じレザー・ファッション愛好家でランナウェイズのギタリストだったジョーン・ジェットや、ビートニクに影響を受けたプロト・パンクの女性詩人パティ・スミスと同様に、オハイオ州アクロン出身でこちらも英国に渡り成功を収めたクリッシー・ハインドや、唯一無二の個性ポリー・スタイリン、それにザ・スリッツやザ・レインコーツ等、身に着けたパンクのDIY精神をもって自らのスペースを作り出そうとするロック界の女性たちのために道を切り拓いてきたのだった。
パンクから生まれたスージー・スー
パンク・シーンの束の間の爆発的エナジー放出が止み、多くの男性リーダーたちが消えていく中、当初はセックス・ピストルズのファン集団ブロムリー・コンティンジェントのリーダーに過ぎなかったスージー・スーはなんとか踏みとどまり、自らアイコンとしてザ・バンシーズを率いるようになる。
彼女たちの打ち出したダークなグラマラスさは、ポスト・パンクとゴス以降に続く幾筋もの新たな可能性を示す光となった。
意識改革と刺激をもたらしたダイアナ・ロス
しかし、荒っぽくタフなだけが必ずしも70年代を生き抜く術ではなかった。そこにはもうひとつ、歌姫の道も存在した。ダイアナ・ロスがザ・シュープリームスと共に手にした成功が、姉妹愛に溢れた固い絆の手本として讃えられることはあまり多くないが、モータウンからポップ、ディスコを軽々と越境していったダイアナ・ロスの黒人女性としての強大なスター・パワーは、その後の女性ミュージシャンたちにとって間違いなく大いなる意識改革と刺激をもたらした。
70曲のヒット・シングルのうち18曲でNo.1を獲得している彼女は、いまだにソロ・アーティストとして、デュエットのパートナーとして、トリオとして、そしてアンサンブルとしてチャートの1位を経験した唯一のアーティストである。Billboard誌は1976年に彼女を“今世紀最高の女性エンターテイナー”に選出している。
様々な記録を塗り替えたバーブラ・ストライサンド
バーブラ・ストライサンドもまた、他の追随を許さないアーティストのひとりだ。元々は俳優志望だった彼女は、何かの足しになればと歌への挑戦を決めた。地元のゲイ向けナイト・クラブで行なわれたタレント・コンテストで彼女の歌を聴き、度肝を抜かれたクラブのオーナーは、即座にそれから数週間にわたるブッキングを決めたことで唐突に彼女の歌手人生がスタートしたのである。
最初の頃から、彼女は自分のショウの中で、歌に喜劇や演劇的要素を織り交ぜて披露し始めていた。高名な演劇評論家のレナード・ハリスは大いに感銘を受け「彼女は今20歳だ。30歳になる頃には、きっと様々な記録を塗り替えているに違いない」と書いていたがその見立ては正しかった。バーブラ・ストライサンドは何百万というレコードを売り上げ、ボックス・オフィスでそれを上回る興行収入を叩き出し、過去6つのディケイド(10年毎の年代の区切り)全てでNo.1アルバムをリリースした唯一のアーティストとして現在もその名を残しているのである。
自身曲を自身で管理したケイト・ブッシュ
全英アルバム・チャートで最初にNo.1を獲得した女性アーティストはケイト・ブッシュで、作品名は『Never For Ever(魔物語)』だった。このアルバムが記念すべき作品となったのはその記録のためだけではなく、折しもケイト・ブッシュが自らの音楽出版社とマネージメント会社を設立し、自分の作品のプロダクションに対して更に支配を強めていこうとしていた彼女のキャリアにおける転機にリリースが重なっていたことにある。
この次のアルバム『The Dreaming』以降、 ケイト・ブッシュは完全に指揮権を掌握し、ポップ・ミュージックに実験的要素を極限まで持ち込み、サンプラーのフェアライトといったエレクトロニック系楽器類の使い方を開拓していった。
メインストリームを拡張したマドンナ
ケイト・ブッシュはオルタナティヴ・ミュージックの女性たちのために道を切り拓いたが、同時に我々は記録破りの母、マドンナのような、メインストリームを拡張した女性アーティストも評価すべきだろう。
マドンナは地元のミシガンからニューヨークまで、たった35ドルの現金と、怯える気持ちを乗り越えるブロンドの野心だけを携えてやって来た。「飛行機に乗るのだってそれが初めてだったし、タクシーだって自分で掴まえて乗ったことはなかった」。
彼女は、今でもすべての年代を通じて最も多くのレコードを売り上げている女性アーティストであり、しばしば最も大きな影響力を誇る人物のひとりに数えられる。彼女の率直さとこれでもかと言うほど大胆なセクシュアリティに、臆することを知らないケタ外れの成功は、世代を超えた女性たちを魅了してきた。レースと“BOY TOY”のTシャツ時代から、生々しく煽情的な『Sex』本まで、マドンナは常にチャレンジを好み、自分が育ってきたカトリック教義の揚げ足を取るのを楽しんでいるふしがあった。彼女はポップ・ミュージック界最初の、そして最高の、“不良化した良い子”だ。
7曲連続で全米1位、ホイットニー・ヒューストン
同じ頃、無邪気な少女から女神へと自らの道を切り拓いていったのがホイットニー・ヒューストンである。ディオンヌ・ワーウィックを従姉に、ダーレン・ラヴを教母に、そしてアレサ・フランクリンを伯母に持った彼女は、一見すれば生まれながらに恵まれたサラブレッドだ。
ホイットニー・ヒューストンの記念すべきファースト・アルバムは、デビュー作としては女性アーティスト史に残るベストセラーで、7曲連続で全米チャートのNo.1を獲得した唯一のアーティストという記録も未だに破られてはいない。晩年は様々なトラブルに見舞われたが、彼女は音楽の分野だけでなく、映画界でも大いなるインスピレーションの源となり、とりわけ1995年公開の『ため息つかせて』は現在でも、メインストリーム映画における黒人女性の描き方の画期的な分岐点として評価されているのだ。
自ら定石を壊すマライア・キャリー
マライア・キャリーもまた、古式ゆかしい秘蔵っ子のイメージそのままに、最初は素直に言うことを聴く良い娘だった。マネージャー兼夫となったトミー・モトーラによって発掘され、庇護下にあった彼女の、天井の梁まで揺るがすようなパワー・バラードは爆発的に売れた。
だが、マライア・キャリーはそこで満足しなかったのである。彼女はトミー・モトーラと離婚し、1995年のアルバム『Daydream』以降全権を掌握し、よりコンテンポラリーなR&Bサウンドを採り入れ始め、ゲスト・ラッパーとしてオール・ダーティ・バスタードやジェイ・Zを参加させたり、トム・トム・クラブの曲をサンプリングしたりした。「『えっ、気でも違ったんじゃないの?』ってみんな言ってました」と彼女は当時語っていた。「定石を壊すことに対してナーヴァスになっていてね。私にはステージで髪をアップにして、ロングドレスでバラードを歌わせてればそれでいいんだと思ってたみたい」。
だが彼女はそれまでを上回るセールスという形で結果を出し、無敵のシングル 「Fantasy」は、Billboard誌のトップ100において初めてチャート初登場1位を果たした女性アーティストという称号を彼女に与えた。そして、清楚なバラード歌手からもっと陽気で茶目っ気たっぷりのディーヴァへとイメージを一新したことで、マライア・キャリーは当代最も愛されるポップ・スターのひとりとなり、誰よりも自分の売り方を心得ていることを証明したのである。
世界で最も有名な家族から離れたジャネット・ジャクソン
ジャネット・ジャクソンも、最初は世界的に有名な兄たちだけでなく、専横的だった父親も含む男たちの影で、7歳の時からファミリーによる作品に参加するところからキャリアをスタートさせている。彼女がアーティスティックな、そしてコマーシャルなブレイクを果たした『Control』 (1986)では、父親の影響から離れ、プロデューサー・チームのジミー・ジャム&テリー・ルイスと共に、タフで賢いペルソナを作り上げるに至った。
今もその魅力が色あせない「Nasty」は、スタジオに向かう途中、通りを歩く彼女に冷やかしの野次を飛ばした男たちからインスパイアされて生まれた曲だと言う。 彼女はこう語る。
「私にはちゃんと名前があるんだから、知らないんだったら通りで私に向かって大声出さないで欲しい。『Control』には、自分のことは自分でやるってことだけじゃなく、ちゃんと守られてない世界で生きていくって意味も込められている。それはつまり、自分の皮をもっと分厚くするってことにも繋がるわけ」
次のアルバム『Rhythm Nation 1814』をリリースする までに、彼女はマネージャーだった父親をクビにしている。
少女から大人へとなったブリトニー・スピアーズ
90年代に入ると、マドンナの未来のキスの相手となるブリトニー・スピアーズという無邪気な少女が、PVの中で不純な考えを持ったカトリック系高校の女子学生という皮肉めいたユーモアたっぷりのキャラクターを演じたプラチナム・シングル「…Baby One More Time」でブレイクを果たす。
大人になった自分のイメージ・コントロールに対するブリトニー・スピアーズの葛藤は、マイリー・サイラスからセレーナ・ゴメスまで、彼女の後にスター少女から大人のアーティストへと成長していった女性ポップ・アーティストたちが経験するひとつのテンプレートとなり、あるいは反発の対象ともなった。2008年、ブリトニー・スピアーズはデビュー以来5作連続で発売第一週目にアルバム・チャートNo.1を達成した最初の女性アーティストとなり、同時に5枚のNo.1アルバムを持つ最年少女性アーティストという称号も手に入れた。
90年代オルタナティヴの女性達
90年代に起こったオルタナティヴ・ロックの商業的大成功の急先鋒となったのも、ソニック・ユースのキム・ゴードンからかつてマドンナのことを、他の女性ミュージシャンたちにジェットスキーを履かせて引っ張っているスピードボートだと表現したリズ・フェアまで、個性豊かな多くの女性たちだった。
コートニー・ラヴはグランジ界のこの上なく自意識過剰なジャニス・ジョプリンのようで、彼女のむき出しの怒りのこもった声と怖いものなしの率直さは多くの人々に刺激を与え、一方ビキニ・キルやベイブス・イン・トイランド、スリーター・キニー以下フェミニズム思想を持ったライオット・ガールズの面々は、フェミニスト的政治思想をかつてないほど過激かつ躊躇ない形で音楽に反映させ、トーリ・エイモスやアラニス・モリセットといったアーティストたちはその憤りやエナジーを一部メインストリームにも持ち込んだ。
トーリ・エイモスは現在も自らの怒りをレコードの中に吐き出すスタイルを崩していない。彼女の最新アルバム『Native Invader』には、政権に対する手加減なしの批判がぎっしりだ 。
今だ大きくなり続けるビヨンセ
現在のシーンにおけるポップ・メガ・スターたちが表明している明確かつ堂々たるフェミニズムには、前述の90年代の女性たちが築いた遺産をそこかしこに見ることが出来るが、我々が今後、ビヨンセというアーティストの影響を本当の意味で測れるようになるのはまだ先の話だろう。
このリストに並んでいる多くのアーティストたち同様、彼女の物語にもまた主導権を強めていったひとりの女性が描かれている。彼女がデスティニーズ・チャイルドで、「Jumpin’, Jumpin’」 「Bills, Bill, Bills」「Survivor」 そして 「Independent Women (Part 1)」といった、形勢逆転を多くテーマにした巧妙かつシャープなR&Bポップ・ヒットの数々で若くして手にした成功は、父親でありマネージャーでもあったマシュー・ノウルズの戦略によるものだった。
彼がグループの他のメンバーたちを解雇した後、世間の批判を一身に浴びたのはビヨンセで、彼女はそのために鬱状態に陥った。ソロ活動を始めてからも、マシュー・ノウルズは「Dangerously In Love」(後に彼女の伴侶となったジェイ・Zと一緒にレコーディングを行なった)以降ずっとマネージャーとして成功を支えてきたが、2010年、ビヨンセは母親のアドバイスで一時活動休止期間に入り、2011年、遂に父親と袂を分かち、マネージャーから解任する。
これ以後、彼女の活動は本当の意味で興味深いものになって行く。アルバム『4』の先行シングルはタフでバイリ・ファンキ[訳注:ブラジルのリオデジャネイロにあるファヴェーラ(貧民街)発祥と言われる、ブラジル文化の影響にマイアミ・ベースやエレクトロ・ヒップホップ等を掛け合わせて生まれた音楽]色の濃い「Run The World (Girls)」で、この曲のタイトルとメッセージはビヨンセが近年ますます人生の指針としているモットーである。
2013年には予告なしに自らの名前を冠したアルバムとそれに付随した映像をリリースして世間を驚かせたが、これ以後彼女の出す作品はまた一段階変化を遂げており、ストレートで写実的な歌詞とよりダークで新奇なサウンド・プロダクションを通じ、自らの考えを以前に増して更にオープンに表現するようになってきている。
世界中で大ヒットとなった『Lemonade』はまさにその真骨頂で、向こうに回すのは不実な夫だけでなく、例えば一度聴いたらクセになる 「Formation」では組織的な人種差別がテーマだ。彼女が堂々と支持を表明しているフェミニズムとブラック・ライブズ・マター(訳注:アメリカ各地で起こった白人警官による黒人青年の射殺や暴行、それに対する裁判の判決の軽さ等に端を発して火が付いた‘黒人の命も大事’というキャンペーン)ムーヴメントは、彼女と同じようにダークで斬新なプロダクションを打ち出すメガ・スターと手を携えることで社会状況に変化を起こした。
バルバドスから羽ばたいたリアーナ
ビヨンセやその他大勢と共に、インパクトの強いブラック・リヴズ・マター・ヴィデオに出演しているリアーナも、「American Oxygen」のような曲や、ダークで歯に衣着せぬアルバム『Anti』を通し、メインストリームのスターたちが歌の中で語ることを許されるテーマの限界を押し広げている。
2005年に『Music Of The Sun』でデビューした、無垢な笑顔をした17歳のバルバドスの少女はもうすっかり成熟した大人になったのだ。
女性たちを勇気づけるケイティ・ペリー
そして、女性のパワーをもう少し野暮な尺度で測ってみたとしても、ビヨンセとリアーナは過去数年、ほぼコンスタントに、世界トップクラスの稼ぎ頭のミュージシャンたちの代表格であり続けている。
ケイティ・ペリーもキャロル・キング同様、ソングライターとしてスタートし、自らもアーティストとして成功したひとりだが、女性たちをパワフルに勇気づけるアンセムを次から次へと繰り出しながら、彼女の作り出すキャンディ・ポップなイメージが、ファンシーでお姫様的なフェミニンさで上手にコーティングする結果になっているのかも知れない。
自己演出のアイコン、レディー・ガガ
一方、ケイティ・ペリーに通じるポップ・グロテスク愛好家、レディー・ガガは、自身の並み外れて奇抜な発想から具現化された究極の自己演出のアイコンだ。彼女は最初から自らを完成品のスターとしてプレゼンしていた。ブレイクのきっかけとなったシングルは 「Paparazzi」、アルバムはいみじくも『The Fame』(名声)というタイトルである。そして、自らの伝説の自作自演という手法は大当たりだった。推計1億1400万枚のアルバム・セールスと、6個のグラミー賞、3個のブリット・アウォードのトロフィーを手にした彼女は、いまや音楽史上最大級の売り上げを誇るアーティストの仲間入りを果たしている。
そして現在、彼女は手にした成功を他者の苦境を救うために使用しており、自らが19歳の時にレイプされたという実体験を公にして、アカデミー賞授賞式では性暴力犯罪の被害者たちに囲まれながら、そのことを題材にした曲「Til It Happens To You」を披露した。
あらゆる記録を塗り替えてきたテイラー・スウィフト
かつて、女性たちの頂点にはたったひとり分しか立つスペースがないと思われていた時代があったものだが、嬉しいことに、女性たちの連帯と結束はポップ・シーンの物語においてますます重要なファクターとなりつつある。
現在のマーケットにおいて、最高に魅力的なポップ・ソングを何曲も書き、呼吸するようにありとあらゆる記録を塗り替えてきたテイラー・スウィフトは、ともすれば女性スター同士を敵対させようと仕向けるメディアの姿勢に挑むかのように、公の場で熱心なフェミニズムへの宗旨替えをデモンストレーションし、同性の友人たちをサポートしている。
“音楽の未来”ロード
そうした友人たちのひとり、ロードはかのデヴィッド・ボウイから“音楽の未来”だと絶賛された。彼女がセカンド・アルバム『Melodrama』のリリース前にマネージャーのスコット・マクラクランと袂を分かった時、ネット上では専らその決断について、とても賢明だったとは思えないというつぶやきが飛び交った。彼女はその意見に対してこうツイートした。
「ちょっとアンタたち、お願いだから、私のスキルを侮らないでくれる」
どうやら音楽の未来はますます明るいようだ。
Written By Emily Mackay