【特集】音楽ファンジンの歴史:ファンが他のファンのために発行する非公認のアマチュア出版物
「ファンジン」手掛かりは名前そのものの中にある。「ファンジン (Fanzine)」という単語を定義付けるには、「ファン (Fan)」と「マガジン (Magazine)」という2つの単語さえあればいい。これらの言葉から作られた「ファンジン」は、「特定のアーティストや音楽ジャンルのファンが他のファンのために発行する非公認のアマチュア出版物」を指す用語として、何十年以上にもわたって使われてきた。
ファンが独自に編集したこうした出版物は、メインストリームのメディアからは必ずしも好意的に見られてきたわけではない。通常ファンジンは、無料で配布されるかわずかな購読料(主に送料や印刷代に充てられる)で販売される。これは、パーカーを着たアマチュアがホッチキス、レタリングの転写シール、スティックのりを手にして、とどまるところを知らない情熱を傾けながら作るもの……というのが大方の見方だった。それでも、その重要性を低く見積もるべきではない。ファンジンは小規模ながら理想主義を貫く小冊子であり、さまざまな人たちの修業の場となった。ロック業界のライターから出発して立派な作家になった人たち(グリール・マーカス、デイヴ・マーシュ、ダニー・ベイカーなど)も、こうした場で腕を磨いてきたのである。
歴史をひもとけば、ファンジンはロックン・ロールの世界だけで作られてきたわけではない。1930年代には、SF愛好家向けののファンジン”The Comet”がシカゴのアマチュア団体、サイエンス・コレスポンダント・クラブによって自費出版されていた。とはいえ「ファンジン」というフレーズが正式に生まれたのは、1940年のこと。アメリカのチェス王者でSFマニアだったラス・ショーヴェネットは当時、”Detours”というファンジンを自ら発行していたが、彼がその1940年10月号でこの「ファンジン」という言葉を初めて使ったと言われている。またSFファンが爆発的に増えた結果、’50年代後期から’60年代前期にはホラー映画愛好家を対象にしたファンジン(たとえばゲイリー・スヴェラの”Gore Creatures”など)も出現している。ロックのファンジンが登場したのはそのあとのことだった。
北米初の本格的なロック雑誌『Crawdaddy!』は、たちまち有料広告を集めるようになり各地の新聞スタンドに並ぶようになったが、最初はファンジンとして始まった。編集長のポール・ウィリアムズは、当初はほとんどの記事を自らタイプライターで打っていた。1966年初頭に出た第1号はガリ版刷りで発行部数500部。印刷代は40ドルに満たなかったという。
一方、そのポール・ウィリアムズと競い合っていた初期のライバルだったファンジンは、そのままアングラ活動を続けた。カリフォルニアのグレッグ・ショーも若い頃からSFファンで、それと同時にロカビリー、ブルース、ドゥーワップの愛好者でもあった。グレッグ・ショーは自費出版と流通のテクニックを理解していた。彼が作った”Who Put The Bomp”(1970年)はやがて”Bomp”というネットワークに発展し、その中には一般販売される雑誌、レコード販売店、レコード・レーベルまでもが含まれていた。それらはすべて、パンクやニュー・ウェイヴの萌芽を生むうえで重要な役割を果たした。
“Who Put The Bomp”が出たあとは、その影響を受けた”Flash”や”Bam Balam”といった新しいファンジンがたくさん生まれている。ただし、FMラジオの元DJだったアーチー・パターソンが創刊したやはりカリフォルニア発のファンジン”Eurock”(1973年)は、さらに広い範囲にまで手を広げていた。この”Eurock”は、アメリカ国外のプログレッシヴ・ロック・バンドや、パンクの先駆けとなったグループに関しても早くからその誌面で取り上げていた(たとえば日本のファー・イーシト・ファミリー・バンド、フランスのエルドン、ドイツの伝説的な実験的バンド、カンやノイ!など)。しかしそれだけにとどまらず、’70年代に大きな役割を果たしたふたつの通販事業(インターギャラクティック・トレーディング・カンパニーとパラドックス・ミュージック)が生まれるきっかけも作っている。
やがて出現したパンクは、ファンジンのDIY精神と完璧に調和していた。1976年7月13日に初のパンク・ファンジン”Sniffin Glue”が創刊されると、これに刺激を受けて無数のファンジンが誕生した。この”Sniffin Glue”の編集と発行を行っていたのが、ロンドン南部で活動していた元銀行員のパンク・マニア、マーク・ペリーとのちのNMEのライター/テレビ司会者ダニー・ベイカーである。創刊号の発行部数はわずか50部に過ぎなかった。しかしながら、その流行を先取りした誌面と荒削りな勢いは”’76年組”と呼ばれた若きパンクスに支持され、部数はたちまち1万5,000部にまで伸びた。
自分のモットーに忠実だったマーク・ペリーは、1977年3月に自らのバンド、オルナタティヴTVを結成。そして同年8月の”Sniffin Glue”の第12号(これが同誌の最終号になった)では、読者に向けて自分独自のファンジンを作れと訴えかけた。80年代初頭になると、パンク後に盛り上がったさまざまな新ジャンルをカヴァーするため、数多くのファンジンが現れている。たとえば’70年代後期のモッズ・リバイバルはメインストリームのメディアからは叩かれがちだったが、これを熱烈に支持する「モッジン(”modzines”)」もたくさんあった。そのひとつが、ロンドン北部で隔週発行された”Maximum Speed”だった。”Maximum Speed”は毎号1,000部以上販売され、記事の水準も高く、当時最先端のバンドを誌面で紹介していた。また、ここからはモッズの好きなジャンル(’60年代ソウルやスクーター・ラリー)を扱うファンジンも派生している。
一方アメリカでは、1976年から77年の段階で”Flipside”、”Slash”、”Punk”といったパンク・ファンジンが発行されていた。ただしアメリカで最も長く続いたパンク/ハードコアのファンジンは、月に一冊のペースで発刊された”Maximum Rocknroll”だろう。このファンジンは1982年にサンフランシスコのDJ、故ティム・ヨハノンが創刊した。独立心旺盛で政治意識も強かった”Maximum Rocknroll”は、今までに約400号発行されている。パンクのミュージシャン、ファン、音楽出版社、プロモーター、インディーズ・レーベルにとって、これはインターネット時代が到来するまではアメリカで一番のファンジンだった。
80年代になるとイギリスでは派手なポップ・ミュージックが再びチャートを席巻し、パンクは大手メディアから無視されていたかもしれない。それでも”DIY”の精神は生き続けた。この波乱の時期の栄枯盛衰を記録する画期的なローカル・ファンジンが各地にあふれていたのである。編集方針はそれぞれ著しく違っており、その中にはたとえば80年代中期に流行したインディ・ポップ・バンドを中心としたものもあった。そのひとつ、ブリストルの”Are You Scared To Get Happy?”はアート志向で、C86ムーヴメントの火付け役となり、やがてサラ・レーベルを生み出すことになる。またリヴァプールで凄まじい人気を誇った”The End”(ザ・ファームのヴォーカリスト、ピーター・フートンのアイデアで生まれた)は、都会の公営住宅に住む労働者階級の若者の手で編集されていた。彼らの気取りのない文体に影響を受け、”Viz”や”Loaded”といったさらに荒っぽいファンジンがあとに続いている。
その後インターネット時代が到来すると状況が変わっていく。90年代も後半に至ると、従来のファンジンの対抗馬として、いわゆるネット・マガジンや電子掲示板が登場。とはいえ、”Fracture”、”Reason To Believe”といった寛容なイギリスのファンジンは紙媒体というフォーマットでの発行を続けた。またフランス発の”Crème Brûlée(クレーム・ブリュレ)”はポスト・ロックやエレクトロニカの先鋭的なアーティスト/グループ(トータス、モグワイ、ラブラッドフォードなど)の詳細なインタビュー記事や、読み応えのある特集記事を掲載し、抜きん出た存在となっていた。
21世紀を迎えると、かつてのようなファンジンは絶滅の危機に瀕している。一部の熱心な手作りパンク・ファンジン(ロンドンのマニアが編集する”Rancid News”など)は、ネット版に模様替えして命脈を保った。とはいえ、そうした昨今の状況に直面しても揺るぎなく発行を続けられるのは、どうやら長年発行されてきた特定のアーティスト専門のファンジン(ジミ・ヘンドリクスに関する情報に特化した”Jimpress”や、リッチー・ブラックモア関連の記事を中心にした”More Black Than Purple”)だけのようだ。
Written by Tim Peacock
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